ヘブライ語聖書は「空中」とは表現しない

(以下の聖書からの引用は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によりますが、その他の聖書から引用する場合は、その都度、適宜その旨を付け加えます)

近代キリスト教世界において、カトリック以外のある教派で、いわゆる「携挙」という概念が誕生し、やがて少しずつ広まっていった。

この「携挙」という発想は、カトリック教会の聖伝という立場から考えれば、かなり奇妙なものに感じられる。
カトリック教会の伝統的な教義には、この考え方は存在しないからである。
そこで、原点に立ち返る意味でも新約聖書の記述をギリシア語本文でまず吟味し、また新約聖書の記述と同様の表現が用いられている七十人訳ギリシア語旧約聖書さらにヘブライ語旧約聖書本文をも合わせて吟味することで、いわゆる「携挙」という概念が原語の聖書の記述に本当に合致するのかそれともしないのか、詳細に検討した。

ちなみに、現代人であれば「空中」と表現する領域について、旧約聖書のヘブライ語では、

「地と天の間」(歴代誌上21章16節、エゼキエル書8章3節、ゼカリヤ書5章9節)

あるいは、

「天と地の間」(サムエル記下18章9節)

といった言い回しを用いており、決して現代人が用いるような「空中」という表現を使っていないことに、留意すべきであろう。

◯歴代誌上21章16節(フランシスコ会訳)
「ダビデが目を上げると、主の使いが地と天の間に立っているのを見た。」

◯エゼキエル書8章3節(フランシスコ会訳)
「その者が手のようなものを伸ばして、わたしの髪の毛の房を掴んだ。すると霊がわたしを天と地の間に引き上げ、そのまま神の幻のうちにエルサレムへ、北に面した内門の入り口へと運んで行った。」

新共同訳ではヘブライ語本文の語順通り、「地と天の間」と訳されている。

◯ゼカリヤ書5章9節(フランシスコ会訳)
「それからわたしが目を上げて見ると、二人の女が翼に風を孕(はら)んで出てきた。彼女たちは、こうのとりのような翼を持ち、天と地の間でエファ升を持ち去ろうとしていた。」

新共同訳ではヘブライ語本文の語順通り、「地と天の間」と訳されている。

つまり、上に挙げた例のいずれも、ヘブライ語本文に従うなら「空中」という言い回しにはなっていないのである。

別の言い方をするならば、旧約時代のヘブライ人の世界観(宇宙観)においては、現代人が当たり前のように用いている「空中」という表現(あるいは概念)は存在していない、と見なし得る。

(注)別エントリー「試論:連れて行かれるのはどこ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6151

(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれ〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5819

(注)別エントリー「試論:ヘブライ人と『空中』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8328

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753

いわゆる「携挙」という概念の問題点をまとめると、次のように列挙される。

【1】「携挙」という概念の聖書的根拠とされるのは、まずなにより新約聖書の一テサロニケ4章17節に登場する「空中で」(新共同訳、バルバロ訳。ラゲ訳では「空中に」。フランシスコ会訳では「空へ」。)という表現である。ただし、ギリシア語聖書本文で用いられている「アエール(αηρ – aēr)」という単語は、確かに英語の「エアー/エア(air)」の語源になった言葉ではあるが、しかし、現代人のイメージするニュアンスから大きくかけ離れた意味合いのものである。それゆえにそもそも一テサロニケ4章17節で「空中」「空」と日本語訳されている箇所は、本当は別の何かを指す蓋然性が高いと考えられる。

【2】英語の「エアー/エア(air)」は、現代においては非常にありふれた単語であることから、現代の読者が聖書でギリシア語「アエール」が登場する箇所に出会うと、英語の「エアー/エア」からの連想で、現代人はどうしても、すぐに「空気」そして「空中」をイメージしてしまいがちである。しかし、「熱気球」の発明と有人飛行の成功さらに「酸素」「窒素」「水素」などの発見がなされた18世紀以降における自然科学の著しい発展に伴って、英語の「エアー/エア(air)」の概念は大きな変化を遂げていた。その結果として、古代ギリシア語の「アエール」と、現代英語の「エアー/エア」との間には、決して小さいとは言えない意味合いの隔たりが生じてしまった。

【3】古代ギリシアの思想をある程度学んだ経験を持つ人々にとっては、この意味合いの隔たりという事実は、比較的よく知られた話題であった。ただし、非常に残念なことだが、この意味合いの隔たりに関して、近現代の神学者たちや聖書学者たちはほとんど注意を払ってこなかった。問題の一テサロニケ4章17節の表現「アエール(αηρ – aēr)において」を、「大気の中で」として解釈するならば、それは必ずしも「空中」を意味せず、範囲としては「地上」をも包含し得ることにもなる。実は現代人が持つイメージとは異なり、古代ギリシア語の「アエール」は、「空(くう)」(空(そら)または空中あるいは空間)より、むしろ「気(き)」(大気)の方を表現する言葉であった。

【4】なぜならば、新約聖書でも古代のギリシア語訳旧約聖書においても、「空の鳥」と日本語訳される箇所においては、その場合の「空」に対応する原文のギリシア語は「ウーラノス(ουρανος – ouranos)」である、という別の問題も存在するからである。つまり、「空の鳥」の「空」を表現する場合には、「アエール」という表現は用いられていない。よって、現代の各国語訳聖書に登場する「空中」という表現を取り扱う際は、それが古代のギリシア語の意味合いに忠実な表現であるのかどうかを、十二分に吟味する必要がある。古代においては、この「アエール」とはどちらかといえば、「大気」や「大気現象全般」すなわち「気象」「気候」といった事柄に広く関係する言葉だったからである。

【5】もしも福音書が「空の鳥」が飛んでいる領域を「アエール」とは別のギリシア語で表現しているとするならば、問題の「アエール」の意味合いについて再検討する必要が出て来るのは当然である。古代ギリシアの哲学者たちの世界観(宇宙観)では、人間の住む領域(つまり地上界)には、「アエール(αηρ – aēr)」というギリシア語で表現される「元素」が存在しており、それに対して、より上層の領域(人間を超える存在が住んでいると考えられた領域)には、「アイテール(αιθηρ – aithēr)」というギリシア語で表現される「元素」が存在しているものと、想定された。そして、「アエール」に比べると、「アイテール」は、より清浄な(清澄な、くもりのない)性質を持つものと考えられた。

【6】聖パウロは、エフェソ2章の初めの方で、問題の「アエール」(2節)という表現を使って議論を展開している。この箇所の「アエール」は、一般に「空中」と日本語訳されることが多く、また別の訳語として「中空」という表現を採用しているものも見受けられる。しかし、聖パウロはエフェソ2章において、ギリシア語の「アエール」という表現を比喩的・象徴的に用いて、実際のところ、<人間界>(人間の生活圏、人間世界)もっと言うなら<世間、俗世間>に関する事柄を説明している。すなわち、聖パウロがエフェソ2章で「アエール」と表現しているものの実体は、「神に逆らおうとする人間性」「不従順」という地上的・現世的な価値観が支配する、人間世界に他ならなかったことになる。

【7】古代ギリシアにおいて一体「アエール」が何を意味したのかを検討するために、「トロイの木馬」のエピソードで知られるトロイ戦争を題材にしたホメロスの叙事詩『イリアス』から、実際の用例を探してみると、「アエール」は「濃い霧」「靄(もや)」などと、日本語訳されている。ホメロスの『イリアス』においては、「アエール」はギリシア神話の神々(女神アプロディテ)が人間(トロイの王子パリス)を連れ去って(さらって)目をくらます時の「道具」として登場している。「雲」ほどには重厚ではないが、そこまで濃密ではなくともそれに類するもので人間の視界を遮蔽するもの、つまり「霧」「靄(もや)」「霞(かすみ)」などについて「アエール」が用いられた。「雲」そのものを表すギリシア語には「ネフェレー(νεφέλη – nephelē)」や「ネフォス(νέφος – nephos)」が存在する。

【8】古代のギリシア語訳旧約聖書である七十人訳聖書では、ヘブライ語本文との比較対照が可能な第一正典においては、サムエル記下22章そして詩編18(17)編の二か所で「アエール」が登場するが、どちらも、主なる神の来臨に伴って現れる「霧」(あるいは「雲」のたぐい)を表現している。ホメロスや古代のギリシア語訳旧約聖書の用例からは、古代人にとっての「アエール」とは「(濃い)霧」や「靄(もや)」、あるいは「雲」の「もと(元、素)」になるそのたぐい、言い換えれば湿気を含んだ煙や霧のようなもの、すなわち、「水蒸気」「水蒸気と水滴による煙、立ちこめる霧」「水蒸気と微小な水滴の混合物」的なものを意味しており、その成立年代の古さを考慮すると、ホメロスにおけるこれらの用法は、この古代のギリシア語が持つ根源的また原初的な意味を反映していると考えられる。

【9】近現代人ならば簡単に「空中」と表現してしまう領域に関しては、ヘブライ語旧約聖書では「地と天の間」または「天と地の間」などという言い回しを用いている。古代のヘブライ人の世界観(宇宙観)が、創世記1章の6節から10節の記述に基づいているためであり、古代のギリシア語訳旧約聖書も、ヘブライ語本文のかなり回りくどい表現をそのまま踏襲して「地と天の間に(ανα μεσον της γης και ανα μεσον του ουρανου)」となっているが、これは一テサロニケ4章17節における聖パウロの「アエール」というギリシア語を用いた言い回し(εις αερα – eis aera)とは、全く異なっている。このことからも、一テサロニケ4章17節で聖パウロが用いた「アエール」というギリシア語で言い表されている領域は、現代人がイメージしている「空中」とは大いに異なる蓋然性が高いものと推測できる。

【10】創世記1章には、「神は大空を造り、その下の水と上の水とを分けられた。神は大空を『天』と名づけられた。」「神は仰せになった、『天の下の水は一か所に集まれ。そして乾いた所が現れよ』。すると、そのとおりになった。神は乾いた所を『地』と名づけ、水の集まった所を『海』と名づけられた。」などの記述があるが、この場合の「大空」に対応する古代のギリシア語訳旧約聖書の単語は「ステレオーマ(στερέωμα – stereōma)」であり、エゼキエル書で「大空」という表現が用いられる場合も、同様である。この言葉は、聖パウロが一テサロニケ4章17節で「空中」を表現する際に用いている「アエール(αηρ – aēr)」とは全く異なるものである。つまり一テサロニケ4章17節の「アエール」というギリシア語を「大空」の意味合いで捉えることには無理がある、ということになる。

【11】現代人なら当然「空中に」と表現する領域に関して、エゼキエル書8章3節(新共同訳)は「地と天の間に」と表現している。ところが同じエゼキエル書の10章1節には、フランシスコ会訳で「天空の彼方(かなた)に」、新共同訳では「大空の上に」と訳されている箇所があるが、古代のギリシア語旧約聖書では日本語の「天空」あるいは「大空」に対応する単語は、創世記1章と同様に、やはり「ステレオーマ(στερέωμα -stereōma)」であり、聖パウロが一テサロニケ4章17節で「空中」を表現する際に用いている、「アエール(αηρ – aēr)」とは全く異なる。そしてエゼキエル書1章には、フランシスコ会訳で「天空」また新共同訳で「大空」と表現される箇所がいくつか存在するが、古代のギリシア語訳では、同様に「ステレオーマ(στερέωμα -stereōma)」となっている。

【12】問題のギリシア語「アエール」には「霧」や「靄(もや)」などを意味する場合があり、「霧」や「靄(もや)」は光を遮る性質を持つことから、「光が届きにくい領域」という意味合いが「アエール」の概念にいくぶん含まれることも、場合によってはあり得た。ヨハネの第一の手紙1章5節には「わたしたちが、イエスから聞いたことで、あなた方に告げ知らせるのは、神は光で、神の中に闇(やみ)はまったくないということです」と書かれているが、「神は光」そして「神の中に闇はまったくない」という立場から見れば、比喩的に「アエール」は、「神からの光が届きにくい領域」すなわち「神を認めようとはしない俗世間」をも意味し得る。当然その種の否定的なニュアンスも考慮に入れながら、聖パウロはエフェソ2章で「アエール」という表現を用いたのであろう。気象学的には、「霧」は地表面に接する(地上で発生する)ものを指すのに対し、「雲」は地表面に接していないものを指すとされている。

〔考察〕

以上の点を踏まえると、「携挙」という問題に関して、次のように考えられる。

現代人は、18世紀後半に初めて有人飛行した熱気球どころか、航空機や飛行船、パラグライダーやハンググライダー、スカイダイビング、バンジージャンプ、また遊園地におけるアトラクション(観覧車やジェットコースターなど)、ヘリコプター、さらにロープウェイやケーブルカー等々の、さまざまな方法で、当たり前のように、「空中」を体験そして実感することが可能であるが、聖パウロ自身も含めて新約聖書における登場人物の誰一人として、現代人と同様の方法で「空中」を体験したことなどはなかった、という事実をあらためて指摘し、強調しておきたい。

カトリックにおいてもそれ以外の教派においても、長く権威を保つことになる英訳聖書は17世紀までには完成されていたが、18世紀後半以降の自然科学の急速な発達によって、英語の「エアー(air)」という単語も大きくニュアンスが変化し、その結果、もともとの由来であったギリシア語「アエール(αηρ – aēr)」とも決して小さくはない意味の隔たりが生じてしまったことは、いくら強調しても強調し過ぎではない。

1783年の熱気球有人飛行成功後、英語圏では「エアー」という言葉が画期的な新技術の象徴となり、この単語に「大空」「浮揚」「飛行」等の新しいニュアンスが加わった。こうして、熱気球発明後の英語圏の人々は一テサロニケ4章17節の「エアー」という表現から従来なかった意味を感じ取り始めた。

20世紀に入り飛行機が発明され、誰でも航空機で大空高くにまで到達することが可能になると、現代人にとって「エアー」は、いよいよ「大空」「浮揚」「航空」を強く連想させる単語となり、そのようなニュアンスで聖書を読むことについて現代人は当然と考え疑わなくなってしまった。

従って、聖パウロの表現する《空中》の概念と現代人のイメージする「空中」の概念とが最初から完全に一致すると決めてかかること自体に無理がある(大きな問題がある)、という出発点に立ち議論をあらためて始めるべきであろう。

ここまでの考察を踏まえて、「携挙」という概念に関連して問題となっている一テサロニケ4章の箇所を、あらためて日本語訳し直すのならば、

「主ご自身が天から降(くだ)って雲に包まれて来られるとき、キリストに結ばれている死者がまず復活して、復活した死者たちと生き残っているわたしたちとが一緒に召集され、わたしたちは下界において主を迎えることになるでしょう。」

と表現した方が、聖パウロの本来の意図を、より忠実に反映しているものと考えられる。

どこまでも忠実であり続けた信者たちが、天から降って来られる主イエス・キリストをお迎えする場所とは、「アエール」の領域──つまり(「アイテール(αιθηρ – aithēr)」に満たされている「天上界」の対立概念としての)「下界」「地上界」すなわち「人間世界」「人間の生活圏」に他ならず、使徒言行録1章において、昇天される主を使徒たちが地上から見上げて見送った時のように、信者たちはあくまでも「同じ有様で」──つまり地に足の着いた状態で(=地上で)主の来臨をお迎えすることになるであろう。

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753

一テサロニケ4章17節で実際に用いられている聖書ギリシア語「アエール」を検討する限り、「携挙」という概念はギリシア語聖書本文の記述とはむしろ矛盾しており、この誤った概念は近代に入ってから英訳聖書中の単語「エアー/エア」のニュアンスが誤解されて生じた産物である、と見なすことができる。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4584

エフェソ2章における用例からも理解できる通り、一テサロニケ4章17節において聖パウロが「アエール」と表現しているものの実体は、「神に逆らおうとする人間性」「不従順」という地上的・現世的な価値観が支配する、人間世界(地上界、下界)に他ならなかったのである。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297