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隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ

(以下、聖書の日本語訳は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によりますが、別の訳語を提示する場合は適宜説明を加えます)

【1】律法全体は「隣人を自分のように愛せよ」という一句に要約される

◯ガラテヤの人々への手紙5章14節~15節
「律法全体は、『隣人を自分のように愛せよ』という一句を守ることによって果たされます。しかし、もし互いに嚙(か)み合(あ)い、食い合っているとするなら、互いに滅ぼされないように気をつけなさい」

◯マタイによる福音書22章34節〜40節
「サドカイ派の人々がイエスに言い込められたのを知って、ファリサイ派の人々は集まった。そのうちの一人で律法の専門家が、イエスを試みようとして尋ねた、『先生、律法の中でどの掟(おきて)がいちばん重要ですか』。イエスは答えて仰せになった、『《心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい》。これがいちばん重要な、第一の掟である。第二もこれに似ている。《隣人をあなた自身のように愛しなさい》。すべての律法と預言者は、この二つの掟に基づいている』」

◯ヨハネの第一の手紙4章19節~21節
「わたしたちが愛するのは、神がまず、わたしたちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら、自分の兄弟を憎むなら、その人は嘘(うそ)つきです。目に見える自分の兄弟を愛さない人は、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、自分の兄弟をも愛さなければなりません。これが、わたしたちが神から受けた掟です」

この箇所では、「愛する」と「憎む」とが明らかに対比されている。つまり、キリスト教的な愛は憎しみとは相容れない反対の事柄であることが語られている。

◯ルカによる14章25節~27節
「さて、大勢の群衆がイエスとともに歩いていたが、イエスは振り向いて、彼らに仰せになった、『わたしのもとに来ても、自分の父と母、妻や子、兄弟や姉妹、さらに自分の命までも憎まない者は、誰(だれ)もわたしの弟子となることはできない。また、自分の十字架を担って、わたしの後について来る者でなければ、わたしの弟子となることはできない』」

フランシスコ会聖書研究所訳の欄外の注には「『父と母……までも憎まない者は』と訳したが、このギリシア語の動詞は『憎む』の意味ではなく、『より少なく愛する』という意である。近東人は比較級を表すのにしばしば対立する概念(愛と憎しみ)を用いることがある。だからここでは『憎む』を文字どおりに解釈すべきではない。イエスが要求している『憎むこと』はマタ10・37ー39に基づいて解釈しなければならない。」と書かれている。
裏返して言えば、「より少なく愛する」という意味合いの聖書ギリシア語を「憎む」と現代の日本語聖書が訳している背景には、「愛と憎しみ」を「対立する概念」として捉えているという前提が存在していることである。
なお参考までに、講談社バルバロ訳のルカ14章26節の注には「『憎む』とは肉親の者への愛も神への愛以上に出るものではないとの意味である。また、自分に対する肉親の考えが、神の思召しに背くときは、彼らの歪んだ横暴な考えに反対しなければならない。これが弟子の心構えでなければならない。」とある。また、中央出版社E・ラゲ訳の注には「真に憎むのではない。神を愛することが厚いのに対して言っただけ。」とある。

◯マルコによる福音書12章28節~34節
「さて、この議論を聞いていた律法学者の一人は、イエスの巧みな答えぶりを見て、進み出て尋ねた、『すべての掟のうちで、どれが第一の掟ですか』。イエスはお答えになった、『第一の掟はこれである、《イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ》。第二の掟はこれである、《隣人をあなた自身のように愛せよ》」。この二つの掟よりも大事な掟はない』。そこで、その律法学者は言った、『先生、確かにそうです。主は唯一であり、主のほかに神はないとは、実に立派なお答えです。また、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、神を愛すること、および隣人を自分自身のように愛することは、どんな焼き尽くす献(ささ)げ物(もの)や犠牲(いけにえ)よりも、遥(はる)かに優れています』。イエスは、その律法学者の賢い受け答えを見て、仰せになった、『あなたは神の国から遠くない』。それ以後は、誰(だれ)もイエスにあえて尋ねようとしなかった」

マルコ12章31節の「第二の掟」つまり隣人愛の掟は、レビ記19章18節に書かれているものである。ただし、レビ記19章には、隣人愛とは反対の行為についても、具体的に書かれている。

◯レビ記19章16節~18節
「お前の身内を歩き回って、人を中傷してはならない。お前の隣人の命に関わるような偽証をしてはならない。わたしは主である」
「心のうちでお前の兄弟を憎んではならない。必要なら同胞を戒(いまし)めなければならない。そうすれば、彼のことで罪を負うことはないであろう。復讐(ふくしゅう)してはならない。お前の民の子らに恨みを抱いてはならない。お前の隣人をお前自身のように愛さなければならない。わたしは主である」

主イエス・キリストがマタイ22章で言及された隣人愛の掟(39節)は、このレビ記19章18節を引用されたものであるが、レビ記の同じ章には「中傷」「偽証」「心のうちで憎む」「復讐」「恨み」など、隣人愛の反対に該当する事柄が色々と列挙されている。

◯レビ記19章11節
「お前たちは盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない」

◯レビ記19章13節
「お前の友を虐(しいた)げてはならない。奪ってはならない。雇い人の賃金を翌朝(よくあさ)まで留(とど)めおいてはならない」

◯出エジプト記20章16節
「隣人について偽証してはならない」

◯申命記5章20節
「隣人について偽りの証言をしてはならない」

◯マタイによる福音書19章17節〜19節
「イエスは仰せになった、『なぜ、善いことについてわたしに尋ねるのか。善い方はただおひとりである。もし命に入りたいなら、掟を守りなさい』。彼が『どの掟ですか』と聞くと、イエスはお答えになった、『殺してはならない。姦淫(かんいん)してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。父母を敬いなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』」

【2】「殺してはならない」という掟は殺人だけを戒めているわけではない

◯出エジプト記20章13節
「殺してはならない」

◯申命記5章17節
「殺してはならない」

◯申命記27章24節
「『ひそかに隣人を打ち殺す者は呪(のろ)われる』。民はみな『アーメン』と言いなさい」

◯マタイによる福音書5章21節~24節
「あなた方も聞いている通り、昔の人々は、『殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられていた。しかし、わたしはあなた方に言っておく。兄弟に対して怒る者はみな裁きを受ける。また兄弟に『ばか者』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に落とされる」
「祭壇に供え物をささげる時、兄弟があなたに恨みを抱いているのを思い出したなら、供え物を祭壇の前に置き、行って、まず兄弟と和解しなさい。それから戻ってきて、供え物をささげなさい」

◯マタイによる福音書7章1節~2節
「裁いてはならない。裁かれないためである。あなた方が人を裁くように、あなた方は裁かれ、あなた方が量るその升(ます)で、あなた方にも量り与えられる」

◯ルカによる福音書6章34節~36節
「返してくれるあてのある人に貸したからといって、何の恵みがあるだろうか。返してもらえるのなら、罪人でさえ罪人に貸している。しかし、あなた方はあなた方の敵を愛しなさい。人に善を行いなさい。また、何もあてにしないで貸しなさい。そうすれば、あなた方の報いは大きく、あなた方は、いと高き方の子らとなる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い方だからである。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」

◯ローマの人々への手紙13章8節〜10節
「互いに愛し合うことのほかに、誰(だれ)に対しても負い目があってはなりません。他人を愛する者は、律法を完全に果たしているのです。『姦通してはならない。殺してはならない。盗んではならない。貪(むさぼ)ってはならない』など、また、ほかに何か掟があっても、それは、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。したがって、愛は律法を完全に果たすものです」

10節では、当然のことではあるが隣人に対して悪を行うことが隣人愛の反対に該当すると、示唆されている。

◯ヨハネの第一の手紙3章11節〜12節、15節
「わたしたちは互いに愛すべきであるということ、これこそ、あなた方が初めから聞いている教えです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属し、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。それは、彼の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」
「兄弟を憎む人はみな、人殺しです。あなた方も知っているように、すべて人殺しのうちには、永遠の命は留まりません」

◯ヨハネによる福音書11章45節〜53節
「さて、マリアの所に来ていて、イエスの行われたことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々の所に行き、イエスの行われたことを告げた人もいた。そこで、祭司長たちやファリサイ派の人々は、最高法院を召集して言った、『この人は多くの徴(しるし)を行っているが、われわれはどうしたらよいのか。このままにしておけば、みなが彼を信じるようになる。そうなると、ローマ人が来て、われわれの土地と国民とを征服してしまうだろう』。その中の一人で、その年の大祭司であったカイアファは言った、『あなた方は、何も分かっていない。一人の人間が民に代わって死に、国民全体が滅びないほうが、あなた方にとって得策であることを、考えていない』。カイアファは自分勝手にこう言ったのではない。その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死ぬようになること、いや、国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるために死ぬようになることを、預言したのである。そこで、彼らはこの日以来、イエスを殺そうと決めた」

【3】主イエス・キリストが与える「新しい掟」

◯ヨハネによる福音書13章34節~35節
「わたしは新しい掟をあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うなら、それによって人はみな、あなた方がわたしの弟子であることを、認めるようになる」

◯ヨハネによる福音書14章21節
「わたしの掟を自分のものとし、それを守る人、その人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現す」

◯ヨハネによる福音書15章9節〜10節
「父がわたしを愛してくださったように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛のうちに留まりなさい。あなた方がわたしの掟を守るなら、わたしの愛のうちに留まることになる。わたしが父の掟を守って、その愛のうちに留まっているのと同じである」

◯ヨハネによる福音書15章12節
「わたしがあなた方を愛したように、あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である」

◯ヨハネによる福音書15章14節
「わたしが命じることを行うなら、あなた方はわたしの友である」

◯ヨハネによる福音書15章17節
「あなた方が互いに愛し合うこと、これをわたしはあなた方に命じる」

◯ヨハネの第一の手紙2章3節〜4節
「もしわたしたちが神の掟を守るなら、そのことにおいて、わたしたちは神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、その掟を守らない人は、偽り者であり、その人の中に真理はありません」

◯ヨハネの第一の手紙5章3節
「神への愛とは、神の掟を守ることです。そして、その掟は難しいものではありません」

【4】悪がはびこるので、多くの人の愛が冷える

◯ヨハネによる福音書15章18節〜19節
「世があなた方を憎むなら、あなた方よりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。あなた方が世に属していたなら、世はあなた方を自分のものとして愛したことであろう。だが、あなた方は世に属しているのではない。わたしがあなた方をこの世から選び出したのである。だから、世はあなた方を憎むのである」

18節で用いられている「憎む」という動詞とは対照的な表現として、19節に「愛する」という動詞が用いられているが、19節の「愛する」という箇所に用いられている原文のギリシア語は、「フィレオー(φιλέω – philéō)」という動詞であり、いわゆる「フィリア(φιλία – philía)の愛」に該当している。

◯マタイによる福音書24章10節、12節
「その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合う」
「悪がはびこるので、多くの人の愛が冷える」

◯ローマの人々への手紙12章9節、14節、17節、21節
「愛には偽りがあってはなりません。悪を忌み嫌い、善から離れてはなりません」
「あなた方を迫害する者の上に祝福を願いなさい。祝福を願うのであって、呪(のろ)いを求めてはなりません」
「誰(だれ)に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善いことを行うよう心がけなさい」
「悪に負けてはなりません。むしろ善をもって悪に勝ちなさい」

◯ヨハネによる福音書15章23節~25節
「わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいるのである。ほかの誰も行わなかったような業を、わたしが彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今、彼らはその業を憎んでいる。しかし、これは、『人々は理由なしにわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれている言葉が成就するためである」

ヨハネ福音書では時として「律法」という表現で旧約聖書全体を指している場合があるが、25節の「人々は理由なしにわたしを憎んだ」と関連しているのは、詩編の35(34)編19節そして69(68)編5節である。

◯詩編35(34)編19節
「だまし打ちを仕掛ける敵を喜ばせず、故なくわたしを憎む者が、目くばせし合うことのないようにしてください」

「目くばせ」に関して、フランシスコ会聖書研究所訳の箴言6章の欄外の注には、「この悪者の身振りは他の人を罪に陥れるためのもの。」とある。

◯詩編69(68)編5節
「故なくわたしを憎む者は髪の毛よりも多く、わたしを欺く敵は頭の毛よりもおびただしい」

日本聖書協会新共同訳では「理由もなくわたしを憎む者は この頭の髪よりも数多く いわれなくわたしに敵意を抱く者 滅ぼそうとする者は力を増して行きます」となっている。

◯詩編109(108)編2節〜3節
「彼らはわたしに対して悪い口、欺(あざむ)きの口を開き、偽りの舌でわたしに語りました。憎しみの言葉でわたしを囲み、故なくわたしを攻め立てました」

◯ヨハネの第一の手紙2章9節~11節
「光の中にいると言いながら、自分の兄弟を憎む人は、今もなお闇の中にいるのです。兄弟を愛する人は、光の中に留(とど)まっており、つまずくことがありません。自分の兄弟を憎む人は、闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこに行くのか知りません。闇が彼の目を見えなくしたからです」

【5】互いに悪口を言い合ってはならない

◯ヤコブの手紙4章11節〜12節
「兄弟たちよ、互いに悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、裁いたりする者は、律法の悪口を言ったり、律法を裁いたりすることになります。もしあなたが律法を裁くなら、あなたは律法の実践者ではなくて、律法の裁き手です。律法を定め、かつ裁く方は、ただおひとりであり、その方は救うことも、滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」

◯テモテへの第二の手紙3章1節〜5節
「終わりの日には、困難な時が来ます。このことを悟りなさい。その時、人々は自分だけを愛し、金銭を貪(むさぼ)り、大言壮語し、高ぶり、ののしり、親に逆らい、恩を忘れ、神を汚(けが)すものとなるでしょう。また、非人情で、人と和解せず、中傷し、節度がなく、狂暴で善を好まないものとなり、人を裏切り、無謀で、驕(おご)り高ぶり、神よりも快楽を愛し、上辺(うわべ)は信心に熱心に見えるが、実際は信心の力を否定するものとなるでしょう。このような人々を避けなさい」

◯ローマの人々への手紙1章28節~32節
「彼らは、神を深く知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを価値のない考えのままに任せられました。そこで彼らはしてはならないことをしています。彼らはあらゆる邪(よこしま)なことと悪と貪欲(どんよく)と悪意に満ち、妬(ねた)みと殺意と争いと欺きと敵意に溢(あふ)れ、陰口を言い、謗(そし)り、神を憎み、人を侮り、高ぶり、自慢し、悪事を編み出し、親不孝で、弁(わきま)えがなく、約束を守らず、薄情で、無慈悲です。こういう者たちは死に値するという神の定めを、彼らはよく知りながら、自ら行うばかりでなく、そのようなことを行う人たちに賛同しています」

◯ガラテヤの人々への手紙5章19節~21節
「肉の業は明らかです。すなわち、姦淫、猥褻(わいせつ)、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間割れ、妬み、泥酔、度外れた遊興、その他このたぐいです。前にも警告したように、改めてあなた方に警告します。このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」

◯テサロニケの人々への第一の手紙5章15節
「誰も悪に悪を返すことがないようによく注意し、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう励みなさい」

◯ペトロの第一の手紙3章9節
「悪をもって悪に、ののしりをもってののしりに報いてはなりません。かえって、祝福をもって報いなさい。あなた方は祝福を受け継ぐために召されたのです」

◯マタイによる福音書5章43節〜45節、48節
「あなた方も聞いているとおり、『あなたの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、あなた方に言っておく。あなたの敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい。それは、天におられる父の子となるためである。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせて下さるからである」
「だから、天の父が完全であるように、あなた方も完全な者となりなさい」

◯レビ記19章2節
「イスラエルの子らの全会衆に告げよ、『お前たちの神、主であるわたしは聖であるから、お前たちも聖でなければならない』」

◯ペトロの第一の手紙1章14節〜16節
「かつて無知であった時のいろいろな欲望に従わず、素直な子供のように、あなた方を召された聖なる方に倣って、あなた方自身もあらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしは聖なる者である。あなた方も聖なる者となりなさい』と書かれています」

◯箴言20章22節
「『悪に報いてやろう』と言ってはならない。主を待ち望め。主がお前を救ってくださる」

【6】理由なき悪意(いわれのない悪意)を神は厳しく戒められる

◯ガラテヤの人々への手紙5章26節
「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、妬み合ったりしないようにしましょう」

◯申命記27章18節
「『目の見えない人を道に迷わせる者は呪われる』。民はみな『アーメン』と言いなさい」

◯レビ記19章14節
「耳の聞こえない人を呪ってはならない。目の見えない人の前につまずきとなる物を置いてはならない。お前の神を畏れなければならない。わたしは主である」

◯マタイによる福音書18章7節
「人をつまずかせるこの世は不幸である。つまずきは避けられない。しかし、人をつまずかせる者は不幸である」

◯ローマの人々への手紙14章13節
「したがって、もはや互いに裁き合わないようにしましょう。むしろ、妨げになるものや、つまずきになるものを、兄弟に対して置かないよう決心しなさい」

◯箴言28章10節
「正直な人を悪い道に迷わす者は自分の掘った穴に陥(おちい)る。しかし、心の清い人は幸せを継ぐ」

◯マタイによる福音書5章8節
「心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る」

◯創世記6章5節〜8節
「主は、人の悪が地上にはびこり、その心の思いが絶えず悪いことばかりに傾いているのをご覧になって、地上に人を造られたことを悔(く)やみ、心を痛められた。主は仰せになった、『わたしが創造した人をはじめ、家畜、地を這うもの、空の鳥までも、地の面(おもて)から滅ぼそう。それらを造ったことを悔いているから』。しかし、ノアは主の心にかなっていた」

◯ペトロの第一の手紙2章1節〜2節
「それ故、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、妬み、一切の悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、み言葉である清い乳を切に求めなさい。それによって、あなた方が成長し、救いに至るためです」

◯トビト記4章15節
「お前自身が嫌うことを他人にしてはならない」

新共同訳では「自分が嫌(いや)なことは、ほかのだれにもしてはならない」。

◯箴言24章28節
「理由もなく、お前の隣人に反対して証言するな。お前の唇で欺いてはならない」

◯レビ記25章17節
「お前たちは互いに隣人に害をもたらしてはならない。お前の神を畏(おそ)れなければならない。わたしはお前たちの神、主だからである」

新共同訳では「相手に損害を与えてはならない」と表現されている。

◯ゼカリヤ書7章9節〜10節
「万軍の主はこう仰せになる、『正しい裁きを行い、互いに慈しみをもって思いやり、やもめと孤児、在留する他国の者と貧しい者を虐(しいた)げてはならない。互いに心の中で悪を企(たくら)んではならない』」

◯ゼカリヤ書8章16節〜17節
「お前たちがなすべきことはこれである。互いに真実を語り、城門では真実と平和をもたらす正しい裁きを行え。互いに心の中で悪を謀(はか)るな。偽りの誓いを愛してはならない。これらのすべてをわたしは憎むからだ──主の言葉」

◯コリントの人々への第一の手紙14章20節
「兄弟たち、ものの判断においてあなた方は子供であってはなりません。悪事については幼い子供のように純真でありなさい。しかし、ものを判断することにおいては一人前の者となりなさい」

◯ローマの人々への手紙16章19節
「あなた方の信仰による従順は、すべての人に知られています。それ故、わたしはあなた方のことを喜んではいますが、わたしの願うところは、あなた方が善にはさとく、悪には疎(うと)くあってほしいことです」

◯ヤコブの手紙1章19節〜21節
「わたしの愛する兄弟たちよ、心に留めておきなさい。人はみな、聞くに早く、語るに遅く、怒るにも遅くなければなりません。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、あらゆる汚れや溢れ出る悪を捨てて、あなた方の心に植えつけられたみ言葉を素直に受け入れなさい。み言葉には、あなた方の魂を救う力があります」

【7】口から出てくるものは、心から出てくるもので、これが人を汚す

◯マタイによる福音書15章11節、17節〜20節
「口に入るものが人を汚(けが)すのではない。口から出るものが人を汚すのである」
「口に入るものはみな腹に入り、厠(かわや)に落ちることが分からないのか。しかし、口から出てくるものは、心から出てくるもので、これが人を汚す。悪い考えや、殺人、不品行、盗み、偽証、冒瀆(ぼうとく)は、心から出てくる。これこそが人を汚す。手を洗わずに食べることは人を汚さない」

主イエス・キリストの御言葉をレビ記19章と関連付けて比較すると、この箇所で主は神への愛と隣人愛の反対に該当する事柄について全般的にお話しになられていると、理解できる。

◯マルコによる福音書7章14節〜15節、20節〜23節
「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて仰せになった、『みな、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の中に入るもので、人を汚すことのできるものは何一つない。人の中から出てくるものが人を汚すのである』」
「さらにまた仰せになった、『人から出てくるもの、それが人を汚すのである。内部、すなわち人の心の中から邪念が出る。姦淫、盗み、殺人、姦通、貪欲、悪行、詐欺(さぎ)、卑猥(ひわい)、妬み、謗り、高慢、愚かさなど、これらの悪はすべて内部から出て、人を汚すのである」

フランシスコ会聖書研究所訳では21節で「邪念」と表現されている原文のギリシア語は、新共同訳では「悪い思い」、バルバロ訳(講談社)「悪い考え」、ラゲ訳(中央出版社)「悪念」などとそれぞれ表現されている。ここでも同じく、主は神への愛と隣人愛の反対に該当する事柄について全般的にお話しになられている。

◯詩編50(49)編16節〜19節
「しかし、神は悪い者に仰せになる、『なぜ、お前はわたしの掟を言い立て、わたしの契約を口にするのか。お前は戒めを嫌い、わたしの言葉を捨て去ったのに。お前は盗人を見れば競い合い、姦通を行う者の仲間となった。口で悪を紡ぎ出し、舌で欺きを織りなす。座して兄弟の悪口を言い、母の子のうわさをまき散らす」

◯ルカによる福音書6章45節
「善い人は、心にある善い倉から善い物を出し、悪い人は、心にある悪い倉から悪い物を出す。口は心に溢れることを語るものである」

◯マタイによる福音書12章33節〜35節
「木が善ければその実も善く、木が悪ければその実も悪いと思いなさい。木はその実によって分かる。蝮(まむし)の子らよ、悪人でありながら、どうしてお前たちが善いことを語ることができるのか。口は心に溢れることを語るものである。善い人は、善い物を入れた倉から善い物を取り出し、悪い人は悪い物を入れた倉から悪い物を取り出す」

◯箴言18章21節
「死と生は舌の力によって左右される。これを愛する者は、その実を食す」

フランシスコ会聖書研究所訳の欄外の注には、「本節では話すことに対する注意を喚起する。言葉によって人間は大きな幸福である長寿と繁栄を得ることも、最大の不幸である短命をもたらすこともある」と記されている。

◯箴言12章18節
「軽々しく話す人は傷を与える剣(つるぎ)のようなもの。しかし、知恵ある者の舌は人を癒(い)やす」

◯コロサイの人々への手紙3章8節〜9節
「しかし、今はもう、これらすべてのこと、すなわち怒り、憤(いきどお)り、悪意を捨て去り、ののしりや顔を赤らめるような言葉を口にしてはなりません。」

◯エフェソの人々への手紙4章31節
「すべての苦々しい思い、憤り、怒り、刺々(とげとげ)しい声、ののしりを、すべての悪意と共に除き去りなさい」

◯箴言6章12節〜15節
「ならず者や無法の者は、ひねくれた言葉を言って歩き回り、目配せをし、足で合図し、指でさす。そのひねくれた心は絶えず悪を企(たくら)み、不和をまき散らす。それ故、滅びが突然、彼を襲い、たちまち打ち砕かれて、彼は救われることがない」

この箇所に関して、フランシスコ会聖書研究所訳の欄外の注には、「この悪者の身振りは他の人を罪に陥れるためのもの。」とある。

◯箴言6章16節〜19節
「主の憎むものが六つある。いや、その忌み嫌うものが七つある。高慢な目、偽(いつわ)る舌、罪のない者の血を流す手、邪な計画を企む心、悪に走る速い足、偽りを吐く偽証人、兄弟の間に口喧嘩(くちげんか)の種を蒔(ま)く者が、これである」

箴言6章の引用箇所をレビ記19章と関連付けて比較すると、この箇所で語られているのは隣人愛の反対に該当する事柄であると容易に理解できる。

◯出エジプト記23章1節
「根も葉もないうわさを口にしてはならない。悪人に手を貸して暴虐(ぼうぎゃく)を助長(じょちょう)する証人となってはいけない」

◯箴言10章18節
「憎しみを隠す者は偽りの言葉を吐く。悪口を言いふらす者は愚か者」

◯箴言15章26節
「悪い企(くわだ)ては主の忌み嫌うもの。心地よい言葉は清い」

「悪い企て」は新共同訳では「悪意」。

◯箴言3章29節、32節
「信頼してお前と一緒に住んでいる隣人に、悪を企んではならない」
「主は邪(よこしま)な人を忌み嫌われる。しかし、まっすぐな人に親しくされる」

◯詩編15(14)編1節〜3節
「主よ、どのような人があなたの幕屋に留まれるのですか。どのような人があなたの聖なる山に住めるのですか。それは、咎(とが)なく歩み、義を行い、心からまことを語る人。舌に任せて人を傷つけず、友に悪を行わず、隣り人を辱(はずかし)めない者」

「隣り人を辱めない者」は、新共同訳では「親しい人を嘲(あざけ)らない人」、バルバロ訳では「ののしらぬ人」。

◯ルカによる福音書23章39節〜43節
「十字架にかけられた犯罪人の一人が、イエスを侮辱して言った、『お前はメシアではないか。自分とおれたちを救ってみろ』。すると、もう一人の犯罪人が彼をたしなめて言った、『お前は同じ刑罰を受けていながら、まだ神を畏れないのか。われわれは、自分のやったことの報いを受けているのだからあたりまえだが、この方は何も悪いことをなさっていない』。そして言った、『イエスよ、あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください』。すると、イエスは仰せになった、『あなたによく言っておく。今日(きょう)、あなたはわたしとともに楽園にいる』」

◯ヨハネの第一の手紙4章16節
「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知っており、また、信じているのです」
「神は愛です。愛のうちに留まる人は、神のうちに留まり、神もまた、その人のうちに留まっておられます」