試論:ダニエル書7章13節を140文字以内で

「日の老いたる者」は天地創造以前から存在しておられる《御父である神》を指す(ヨハネ1章1節参照)。また神の現存の象徴である天の雲を伴うことから、「人の子(=人間)のような者」は神性と人性の両方を有する存在と示唆され、人間の肉体と魂とを担われた(引き受けた)《御子である神》を指す。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
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【追記】

この節も日本語訳では「人の子が天の雲に乗って」と訳されるが、ヘブライ語本文も古代ギリシア語訳も「乗る」に相当する動詞は存在せず、あくまでも「天の雲」とは神の現存を象徴するものに過ぎず、『西遊記』の孫悟空の雲とは異なる。そもそも全能の神である主には移動のための乗り物など不要である。

ルカ21章27節は「人の子は雲に乗って」と訳されるが、ギリシア語本文には日本語の「乗る」に当たる動詞はない。全能の神なる主は移動の際に乗り物は当然不要で、「雲」は神の現存を象徴するに過ぎないが、『西遊記』が有名な日本では孫悟空の雲と変わらぬかの如き誤解を招いている可能性が大きい。

(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書の『見る』を140文字以内で」も参照のこと。
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神は本来、神以外の別物に変質(劣化)できない以上、「神が人となる」ためには神のままで人間としての全てを担う(引き受ける)必要があった。これをヨハネ1章14節は「〔神の〕御言葉は肉となる」として記し、ニケア・コンスタンチノープル信条は「おとめマリアよりからだを受け」として表現した。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神は劣化できない』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

現代人は「神が人となる」と聞くと、神がそのまま人に変化(変質)するとイメージしがちだが、そのイメージは古代のイスラエル人にはなかった。出エジプト記3章14節「わたしはある」とは《わたしは劣化しない》(詩編102編28(27)節参照)を意味し、神から人への劣化を認めないからである。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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聖書で「神が人となる」とある場合、それは「神が人に変質(劣化)し、人でいる期間は神でいることをやめている」を意味せず、「神は神のまま人間としての全てを担い、神でもあり人でもある存在となる」を意味する。「わたしはある」という神には、変質も劣化もない(詩編102編28(27)節等)。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編49編8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『《贖(あがな)い》と聖母』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。