ルカ10章24節で主イエスは弟子たちに「今あなたたちが目にしているものを多くの預言者たちが目にしたいと思っていたが、実際に見ることは、なかった」と仰せになった。旧約の預言者たちが見たものはあくまでも、いわば「予告編」に過ぎなかったが、弟子たちが実際に見ているものは「本編」である。
【追記】
マルコ12章における律法学者との対話において主は、旧約聖書の中の多くの掟について、重要性における順序があることを再確認された。またヨハネ5章39節で、旧約聖書とは御自分について証しするものだと主は御説明され、旧約聖書を調べる目的は御自分へと到達するためであるべきだと仰せになった。
旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。
ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。
ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。
モーセはレビ記26章で、イスラエル人が神に忠実であり続ける場合の幸福を説き、11節と12節では主が人々の間に住まわれ、人々の間を巡られると預言した。ヨハネ1章14節は、「神の御言葉」すなわち人々に直接語り掛けられる主イエス・キリストが、「肉」すなわち人間になられたことを説明する。
モーセの時代、臨在の幕屋を囲むようにイスラエルの民は陣営を形成した。福音書の時代には神殿が臨在の幕屋の後身である以上は、神殿を囲むエルサレムの都自体が自分たちの時代の「陣営」だと考えられた。だとすれば主イエス・キリストが都の中を歩まれるのは申命記23章15(14)節の通りである。