コリントの信徒への手紙二」カテゴリーアーカイブ

試論:「放縦や深酒」を140文字以内で

ルカ21章34節「放縦や深酒や生活の煩いで心が鈍らぬように注意しなさい」イザヤ5章11節から13節「朝から晩まで酒浸りの者は不幸だ。彼らは享楽のためには心を砕くが、主の御旨には思いを致すことがない。挙句に身分の高い者も低い者も等しく飢えて渇き、為す術もなく捕囚の身に成り果てる」。

(注)別エントリー「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19893

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

【追記】

【問】主イエスはルカ21章でエルサレム滅亡を予告されましたが、この滅亡が現代のキリストの信者に与える教訓とは何ですか?
【答】申命記29章18(19)節は「自分自身で自分を祝福して『自分のわがままの通り生きていても自分だけは問題ない』と心の中で言う者は皆、滅びる」と教えていました。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

ルカ16章13節「神と富の両方に仕えることはできない」黙示録18章7節「わたしは女王の座に着いており、やもめではなく、決して悲しい目には遭わない」同3節「彼女の豪勢な贅沢により地上の商人たちは、富を築いた」哀歌1章1節「やもめとなってしまったのか、多くの民の女王であるこの都が」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

ルカ19章9節以下「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来た」二ペトロ3章15節「わたしたちの主の忍耐深さを救いと考えなさい」同9節「主は救いの約束を遅らせているのではなく、一人も滅びずに皆が悔い改めるように、あなたたちのために忍耐されています」。

(注)別エントリー「『罪人を招く』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19089

【問】神は人間の不幸を望んでおられますか?
【答】いいえ、断じて望んでおられません。間違った終末思想に陥り始めると「望んでおられる」などと錯覚するのでしょうが、神なる主はエゼキエル18章で「あなたたちは〔わたしに〕立ち帰って、生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになっています。

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477