月別アーカイブ: 2021年10月

ユダヤ教はダニエル書を預言書扱いしない

(以下、聖書の日本語訳は、特に注釈が加えられた場合を除き、基本的にフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によります)

バルバロ訳『聖書』(講談社)の「ダニエルの書解説」の中に、非常に興味深い箇所がある。

「ダニエルの書は、第一正典書であるが、ギリシア語訳とブルガタ訳には、第二正典に属する一部がついている。すなわち、 3・24ー90と13章、14章である。なお、ヘブライ語聖書では、エステルの書と、エズラの書との間に置かれているが、ギリシア語とラテン語の聖書では、預言書の中に入れられている。」

つまり、古代のギリシア語訳旧約聖書である七十人訳聖書や、同じく古代のラテン語訳聖書であるヴルガタ訳聖書においては、ダニエル書は「預言書」というカテゴリーの中に含まれており、当然キリスト教の側では、このダニエル書を預言書として扱っているわけであるが、(少なくとも中世以降の)ユダヤ教の側のヘブライ語旧約聖書ではそうではなかった(「預言書」としては扱われていない、「預言書」のカテゴリーには含まれていない)、ということである。

現代における主要な各国語訳旧約聖書が底本としているのはヘブライ語旧約聖書『ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア』だが、さらにその底本であるレニングラード写本が成立したのは、主イエス・キリストの御降誕から実におよそ一〇〇〇年も後の中世のことであり、キリスト教側からすると、意外に時代が下っていると感じられる(むしろ比較的新しいとすら感じられる)。

キリスト教の側ではダニエル書を当然のこととして預言書と見なしているが、というのも、マタイ福音書24章15節においては主イエス・キリスト御自身が「預言者ダニエル」と呼び、次のようなあまりにも有名な御言葉を残されているからである。

◯マタイによる福音書24章15節~16節(フランシスコ会訳)
「預言者ダニエルによって言われた『荒廃をもたらす憎むべきもの』が聖なる場所に立つのを見たなら、──読者は悟れ──その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。」

(フランシスコ会聖書研究所訳「荒廃をもたらす憎むべきもの」は、新共同訳「憎むべき破壊者」バルバロ訳「<荒らす者のいとわしいもの>」ラゲ訳「『いと憎むべき荒廃』」日本聖書協会口語訳「荒らす憎むべき者」などの表現です)

この御言葉を御受難の数日前にエルサレムで口にされた際、主イエス・キリストの周囲には、揚げ足を取ろうと敵意や悪意を抱いている、多くの人々が絶えず存在していた。
にもかかわらず、主イエス・キリストが「預言者ダニエル」という言葉を発したことに対して、その場にいた当時のユダヤ人の中に「ダニエルは預言者なんかではないぞ」という反対論を唱えた人々がいたという記録は、存在してはいない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

また、一世紀後半のユダヤ人の歴史家フラヴィウス・ヨセフスは、ユダヤの歴史を叙述した著作において、預言者ダニエルについてまとまった比較的長い記述で言及し、さらにダニエル書の預言が成就したのは、歴史上、二度にわたっていることを、書き記した。
つまり一度目はユダ・マカバイの時代(アンティオコス・エピファネス王の時代)のことであり、二度目はローマ軍によるエルサレム(そして第二神殿)の滅亡の時であると、ヨセフスは説明している。

旧約聖書の第二正典であるマカバイ記一も、ダニエル書の記述を受けるように、アンティオコス・エピファネス王がエルサレム神殿に「荒廃をもたらす憎むべきもの」を立てさせたことを記述しているが、このマカバイ記一の記事は当然、ダニエル書が預言書であることを前提にしている。
このマカバイ記一は、主イエス・キリストの御受難より約二百年ほど古い時代を取り扱っている。

◯マカバイ記一1章54節~57節(フランシスコ会訳)
「さて、第百四十五年のキスレウの月の十五日に、王は焼き尽くす献(ささ)げ物の祭壇上に『荒廃をもたらす憎むべきもの』を築き、また周囲のユダの町々に異教の祭壇を築いた。人々は家々の戸口や通りで香をたき、見つけ出した数々の律法の書を、ばらばらに引き裂き、火で焼いた。誰であれ契約の書を持っていたり、律法を守っていることが分かると、王の命令に従って死刑に処せられた。」

マカバイ記一の記述に基づくならば、主イエス・キリストの到来以前には、当然ながらユダヤ教の側にも、「ダニエル書は預言書である」という認識が必ず存在したはずであると考えられる。

にもかかわらず、主イエス・キリストやユダヤ人の歴史家ヨセフスより後の時代には、つまり紀元二世紀以降のいつの時点からか、少なくとも中世以降のユダヤ教の側のヘブライ語旧約聖書では、ダニエル書は「預言書」のカテゴリーには入れられていないのである。

フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)の「ダニエル書解説」では、この辺の事情に関して、「正典における位置」という部分で次のように記述している。

「ユダヤ教ではギリシア語の部分を除いたものを正典と認めるのに対して、ローマ・カトリック教会はその部分をも正典と認める。ユダヤ教の正典では聖書の第三部の知恵文学とみなし、エステル記とエズラ記・ネヘミヤ記の間に入れるが、七十人訳は本書を預言書とみなし、大預言書の最後のものとしてエゼキエル書の後に置いている。」

つまり、キリスト教の側の「ダニエル書は、旧約聖書の中では当然『預言書』のカテゴリーの中に含まれている」という認識とは異なり、紀元二世紀以降のいつの時点からか、少なくとも中世以降のユダヤ教の側では、「ダニエル書は、聖書の中では『知恵文学』のカテゴリーの中に含まれる」という認識であった、ということになる。

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753