ヨハネ1章で洗礼者は、主イエスを「神の小羊」と呼んで、自分の弟子の中からアンデレとヨハネを主イエスへ導いた。マタイ11章では死期が迫ったと覚悟した獄中の洗礼者が、残りの弟子たちにイエスへ質問させることによってイエスに導き、自分に義理立てして最後まで従って来た人々をイエスに託した。
(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
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イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。
(注)別エントリー「試論:『花婿と花嫁』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは使徒をお選びになる際、既存の教派に属したことのない者か属したことがあっても以前の流儀や特色に固執せず頭を切り替えた者を選ばれた。例えば初めは洗礼者の弟子だったが、洗礼者の言葉に従ってイエスの弟子となり、主に従うことこそ洗礼者にも忠実であることと割り切ったアンデレである。
(注)別エントリー「試論:『履物のひもを解く』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】主イエスのマタイ17章11節の仰せ「エリヤ(=洗礼者ヨハネ)が来て、全てを元通りにする」の意味とは?
【答】ルカ1章16節以下「彼はイスラエルの多くの人々を、人々の神である主の許へと立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と権威と共に救い主に先立って歩み、救い主のために民を準備させる」。
主イエスはマタイ9章35節の通り「町や村を残らず回って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や患いを癒やされた」。洗礼者はアンデレとヨハネとを主イエスに導いた際(ヨハネ1章)等を除けば、基本的には「ヨルダン川の向こう側」にとどまり、しるしは行わなかった(同10章41節)。
ルカ福音書の「ヘロデ」は、マタイ2章に登場するヘロデ大王の息子の、ヘロデ・アンティパスである。マルコ6章によれば彼は洗礼者の教えに耳を傾けてはいたが、多分に好奇心によるもので、悔い改める気などなかった。後に御受難の日の主イエスに会っても、思い通りにならないと直ちに嘲弄し侮辱した。
ヘロデ・アンティパスは洗礼者の言葉に喜んで耳を傾けたが単なる好奇心からで、自分の兄弟がお人好しであることにつけ込んで、その妻と親密になり、やがて彼女を奪い取った。根はやはり悪人の彼はイエスの逮捕後、イエスにも興味を抱いたが、興味を失うと洗礼者の時と同様に、イエスを平気で見捨てた。
申命記25章には跡取りを産む前に夫に先立たれた女性に、家名を存続させる目的で亡夫の「兄弟(親族の男性全般)」との再婚を求める規定がある。しかしマタイ14章のヘロデは兄弟フィリポが存命中なのに、その妻と親密になり兄弟から妻を奪い取った。この件で洗礼者ヨハネはヘロデを厳しく叱責した。
(注)別エントリー「試論:『洗礼者ヨハネの死』を140文字以内で」も参照のこと。
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兄弟に妻を奪われたフィリポは、ヘロデ大王の息子たちの中ではへりくだりを知る常識人だった。ただ、癖の強い猛々しい悪人が揃うヘロデ王家の中にあっては、フィリポのこの態度は物足りなくも弱々しい「お人好し」として周囲に映ったようで、そこにつけ込んだ妻と兄弟によって小馬鹿にされてしまった。