旧約聖書に現代の世界情勢は預言されてはいない」カテゴリーアーカイブ

「秤」

ルカ6章38節で主は、「あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返される」と仰せになり、他人に厳しく自分に甘い人に対して神が厳しい態度で臨まれることを宣言された。それゆえ、主は「人を裁くな」「人を罪人と決めるな」「赦しなさい」「与えなさい」「敵を愛しなさい」等々とお教えになった。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ6章14節〜15節「あなたがたが人を容赦するなら天の父もあなたがたを容赦されるが、あなたがたが人を容赦しないなら天の父もあなたがたを容赦されない」は同5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」などと、表現を変えながら福音書の随所に登場する、重要事項である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ2章23節以下「イエスは過越祭のエルサレムにおられ、その行われたしるしを見て多くの人々がイエスの名を信じたが、イエス御自身は各人の全てを御存知だったので人々を完全には信用をされなかった」マタイ7章21節「わたしに向かい『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」。

(注)別エントリー「試論:『主よ主よと呼びながら』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ6章46節「あなたたちはわたしを『主よ、主よ』と呼んでおきながら、なぜわたしが言っていることを、行わないのか?」ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結びついているのなら、愛の実践を伴う信仰こそ重要です」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ7章21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るのではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけ入る」ヨハネ13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら、愛の実践を伴う信仰こそ大切」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ14章15節で主は「わたしを愛しているのなら、わたしの掟を守りなさい」と仰せになり御自身が教えられた掟を守ることをもって御自身への愛を判断すると宣言された。従って、「私はあなたの掟を守れてはいませんが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。

「善い盗賊」はルカ23章で、「悪い盗賊」の罵りから主イエスを擁護し(40節)、自分のこれまでの悪事を素直に認める一方(41節)、主には悪いものは一つもないと宣言し(同節)、最後に自分は主によって救われたいと、真摯に希望した(42節)。主は「善い盗賊」に、永遠の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『善き盗賊』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ18章9節以下で「他人を裁くな」をたとえで教えられた。他人を引き合いに出して自分の正しさを並べ立てた人の「祈り」は単なる自画自賛の連続に過ぎず、そこにへりくだりはなく、全く「祈り」として体を成さなかった。神の御前で何の言い訳も一切せずにひたすらへりくだった人が義とされた。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
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主はマタイ22章で律法中の最も重要な掟の第一は神への愛、第二は隣人愛と仰せになった。申命記10章でモーセへの戒めの再授与の際、12節以下では神への愛が命じられ、19節では「遠くからやって来た者(寄留者、新参者、改宗者)」という表現で隣人愛(レビ19章18節、34節)が命じられた。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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マタイ22章36節以下の「律法の中で最も重要な掟はどれか」の答えと、ルカ10章25節以下の「永遠の命を得るために何をすればよいか」の答えは一致する。またマルコ12章32節は「神は唯一であり、他に神はない」という事柄をギリシア語本文でアレテイアすなわち真理と表現してこれを強調する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

箴言26章19節は日本語で「悪乗り」と呼ばれる行為を戒め、「親しき仲にも礼儀あり」という事柄を想起させる(詩編15編3節参照)。箴言26章18節は「死の矢」という表現を用いるが、旧約聖書の「剣」と「矢」は《心に刺さる言葉》の比喩(詩編64編4(3)節等)で、隣人への暴言を戒める。

(注)別エントリー「試論:『言葉』と『心の傷』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言葉の刃』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
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レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛する」という隣人愛を命じ、同章ではその隣人愛の対極にある様々な行為を禁じる。17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」と悪意を秘めたまま隣人に接することを禁じて「出来心(ふざけただけ)」という言い訳も認めない(箴言26章19節)。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
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レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」ゼカリヤ7章9節は「互いにいたわり合い憐れみ深くありなさい」10節は「互いに災いを心にたくらんではならない」と教える。「心の中で憎む」とは相手の不幸を心の中で望むことを意味する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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