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旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則

(以下、聖書の日本語訳は、特に注釈が加えられた場合を除き、基本的にフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によります)

ヨハネ福音書の5章には、主イエス・キリストの次のような御言葉が記述されている。

◯ヨハネによる福音書5章39節~40節
「あなた方は聖書を調べている。その中に永遠の命があると、思い込んでいるからである。だが、その聖書は、わたしについて証しするものである。それなのに、あなた方は、命を得るために、わたしの所に来ようとはしない」

この箇所の「聖書」とは、いわゆる《旧約聖書》を意味している。
なぜなら、この時点で《新約聖書》は全く存在していないからである。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

また、ルカ福音書24章には、次のように書かれている。

◯ルカによる福音書24章27節
「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたってご自分について書かれていることを、二人に説明された」

この箇所の「聖書」も同様に、いわゆる《旧約聖書》を意味している。

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

◯使徒言行録13章27節
「エルサレムに住む人たちとその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者たちの言葉をも理解せず、この方を罪に定めて、その預言を成就させました」

この箇所の聖パウロの発言は、ヨハネ5章やルカ24章における主イエス・キリストと同様の認識に基づいている。

◯ルカによる福音書24章44節
「そして、イエスは弟子たちに仰せになった、『まだ、あなた方とともにいたころに話したとおり、わたしについて、モーセの律法と預言者、そして詩編に書き記されたことは、すべて成就されねばならない』」

つまり、主イエス・キリストを信仰や礼拝の対象として考える立場であるならば、旧約聖書を解釈するに当たっては、なによりもまず、主イエス・キリストの御存在、そしてその御言葉を基準として行わなければならない。

◯ルカによる福音書21章20節~24節
「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいているのを悟りなさい。その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。また、都にいる人はそこを立ち去り、地方にいる人は都に入ってはならない。それは、書き記されていることがすべて成就される、報復の時だからである。それらの日に、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸である。地上には深い苦悩が、この民の上には神の怒りが臨むからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国に連れていかれる。そして、異邦人の期間が満たされるまで、エルサレムは異邦人に踏みにじられる」

フランシスコ会訳にて「書き記されていることがすべて成就される、報復の時」(22節)と表現されている部分は、日本聖書協会新共同訳では、「書かれていることがことごとく実現する報復の日」という表現になっている。

この箇所における「書き記されていること」とは、前掲のヨハネ5章やルカ24章27節と同様に、いわゆる《旧約聖書》を意味している。
なぜなら、この時点で《新約聖書》は全く存在していないからである。

ルカ福音書のこの箇所では、紀元七〇年のエルサレム滅亡について語られている。

まずルカ21章22節の「報復」はエゼキエル書16章38節の「(お前に)報いる」に対応し、「書き記されていることがすべて成就される、報復の時」という箇所が意味することとは、(紀元七〇年の)エルサレム滅亡をもって旧約聖書の全ての預言が成就し旧約時代が完全に終焉を迎えるということである。
(新共同訳では「書かれていることがことごとく実現する報復の日」、バルバロ訳では「書き記されているすべてのことの実現する報復の日」、ラゲ訳では「これ刑罰の日にして、書きしるされたること、すべて成就すべければなり」、日本聖書協会口語訳では「聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日」の表現となっている)

紀元七〇年のエルサレムの滅亡とは、主イエス・キリストの教えを信じる者にとっての旧約時代の終焉──すなわち、【旧約】(古い契約)との完全な訣別の時の到来をも、象徴していた。

逆に言うなら「紀元七〇年における第二神殿とエルサレムの滅亡」以降の歴史的出来事とは、旧約聖書の預言書は基本的には無関係である。

そしてこの場合の「報復」は、黙示録19章2節の「神は、地上を姦淫で堕落させたあの大淫婦を裁き、僕(しもべ)たちの血の復讐を彼女にされたからである」とも対応している。

このルカ21章21節において主イエス・キリストは、エルサレムが包囲されようとしている時にはその都を脱出すべきであると警告され、地方にいる人々は山に逃げるべきでエルサレムがいかに堅固な都だろうと、そこに入って籠城すべきではないとも警告された。
黙示録18章4節ではその警告が繰り返されている(「わたしの民よ、彼女から逃げ去れ。それは、その罪に与(くみ)せず、その災いに巻き込まれないためである」)。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

あえて重ねて強調しておくが、ルカ21章22節における主イエス・キリストの御言葉に基づいて判断する限り、

「旧約聖書の預言書は、『紀元七〇年における第二神殿とエルサレムの滅亡』以降の歴史的出来事とは、基本的には無関係である」

と結論せざるをえない。

(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22

言い換えれば、旧約聖書の預言書を21世紀の現代または近未来の世界情勢に当てはめて論じようと試みることは、ルカ21章22節における主イエス・キリストの御言葉を無にしてしまうことに等しい。
そのような試みはいやしくもキリスト教徒を自認する人間が取るべき態度ではありえないし、そのような態度はあらゆる間違いの元にしかなりえない。

ルカ21章23節には「地上には深い苦悩が、この民の上には神の怒りが臨む」という主イエス・キリストの御言葉があり、当然この箇所は、マタイ24章21節やマルコ13章19節に対応しているが、プロテスタントの文語訳聖書である『改訳 新約聖書』(1917年)においては、ルカ21章23節の同じ箇所を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳しており、ある人々がいわゆる「大艱難時代」「大患難時代」などと呼んでいる時期が実は第二神殿滅亡の前後に他ならないことを、既に暗示している。

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753

ルカ21章22節における主イエス・キリストの御言葉とは相容れないからには、旧約聖書の預言書を21世紀の現代または近未来の世界情勢に当てはめて論じようと試みることは、単純に時間の浪費であるばかりでなく、むしろ「百害あって一利なし」と表現すべき危険極まりない試みでしかなく、それはキリスト教の信仰とは全く無関係の行為である。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4584

同様に、どのような歴史的な出来事であっても、「20世紀に起こったある一つの歴史的出来事は旧約聖書の預言の成就である」と見なすことは、ルカ21章22節の主イエス・キリストの御言葉とは相違している。
ルカ21章22節において主イエス・キリストは、(紀元七〇年に実際に起こった)エルサレムの滅亡によって旧約聖書の預言は全て成就すると宣言しておられる。
従って、旧約聖書の預言は、20世紀や21世紀の歴史的出来事とは、もはや、基本的に無関係である。
それをあえて「関係がある」と判断することは、ルカ21章22節における主イエス・キリストの御言葉に背反する行為に他ならない。

これも非常に大切なことであるので、重ねて強調しておくが、主イエス・キリストを信仰や礼拝の対象として考える立場であるならば、旧約聖書の預言を解釈するに当たっては、なによりもまず、主イエス・キリストの御存在、そしてその御言葉を基準として行わなければならない。
もしもそうでなければ、それは出口のない迷宮で堂々巡りを延々繰り返すのに等しく、実に空しい行為であり、単純に無益であるばかりか実に有害極まりなく、それはキリスト教とは本来全く関係のない事柄である。