ヘブライ人への手紙」カテゴリーアーカイブ

救い主の母

ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女性」の発言を否定しておらず逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに(母に関して)言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。

(注)別エントリー「試論:ヨセフが妻を畏敬する理由を140文字以内で」も参照のこと。
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御自分の母を称える女性の言葉に対し主はルカ11章で神の言葉を守る人こそ幸いと答えられた。ヨハネ14章で主は「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と仰せになられたが、マリアが母として主を誰よりも愛しておられたことには疑う余地がなく、マリアが神の言葉を守らないことも当然ありえない。

(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。

(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ1章には「マリアの賛歌」があるが、内容は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と一致する。主の周囲でへりくだりがどれほど重視されていたかを、「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)という言葉が象徴する。

(注)別エントリー「試論:『主のはしため』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ2章5節は、まさに御子イエスの「時」が近づき自分の許からいよいよ世に御子を送り出すに当たっての、この世の人々に対する、母マリアの強い願いと最後の伝言を記す。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。これを最後に新約聖書には、母が発した言葉は記録されてはいない。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
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