イザヤ63章の通り古代のイスラエルにおいて神と神の民との関係は父と子に喩えられた(8節、16節)。しかし9章5(6)節では、「永遠の父」であるはずの神なる主が一人の「みどりご」「男の子」として到来されると預言され、7章15節では人間の幼児食──凝乳と蜂蜜を食べるとまで預言される。
【追記】
旧約の民にとって神なる主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)だが、救い主(8節)がお生まれになり(9章5(6)節)、民の「永遠の父」である方は「みどりご」として来られた。養父とはいえ人間が「父」となるなどヨセフにとって太陽が西から昇るどころではなかったが彼は責務を全うした。
(注)別エントリー「試論:『神の養父』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、《御自分で御言葉をお話しになる神》つまり御子である神、主イエス・キリストを指し、「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の「初め」から既に御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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イザヤ7章14節で預言されたインマヌエルをヘブライ語マソラ本文は、「インマヌ」と「エル」の間に空白を置き二語で表記し、一語で表記される人名とは明確に区別する。マタイ1章23節のギリシア語本文とラテン語訳も、インマヌエルを「わたしたちと共におられる神」と解釈し、その神性を強調する。
(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
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【問】マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)と呼ばれる女性なのに、なぜ「主のはしため」と謙遜したのですか?
【答】もしも彼女が「自分は救い主の母だから息子と同じ扱いを受けたい」と思い上がったなら、神のようになりたいと思ってサタンにだまされた、エバの二の舞になるからです。
(注)別エントリー「試論:聖母の謙遜の理由を140文字以内で」も参照のこと。
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