月別アーカイブ: 2025年1月

試論:ヘブライ10章37節を140文字以内で

ヘブライ10章37節は「しばらくすると来るべき方がおいでになる」とハバクク2章3節を引用する。この節はイザヤ26章20節とも関連し、イザヤは「激しい憤りが過ぎ去るまで、しばらくの間、隠れよ」と預言しており、これが「主の再臨」ではなく、「主の日の到来」を意味することを示唆している。

(注)別エントリー「試論:『主の日』二つの意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12894

【追記】

旧約時代より、民が道を踏み外した結果として蒙る大災厄の到来を「主の日」と表現した(アモス5章18節)。他方、主の御復活が安息日の翌朝に起こったことからキリスト教では記念として、信者が集って祝うべき日を安息日の翌日(日曜日)に移動し、その日をも「主の日」と呼ぶ(黙示録1章10節)。

詩編78編69節の通り、古代のヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天」あるいは「天地」に喩えた。しかしヘブライ9章24節では神殿の聖所を「まことのものの写し(模型)に過ぎない、人間の手で造られた聖所」と呼び、それを「天そのもの」と対比し、エルサレム神殿の滅亡が近いことを暗示する。

(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

主イエスはルカ13章33節で「預言者がエルサレム以外の場所で死ぬことはあり得ない」と断言され、黙示録18章24節は大淫婦・大バビロンと呼ばれる都が滅ぶ理由を「彼女において預言者たちの血が流された」と啓示する。ルカ13章33節以下の記述と黙示録18章21節以下の記述は符合している。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

(注)別エントリー「試論;『天地が消え失せるまで』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11358

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。