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「無原罪の御宿り」の意味するところとは

【1】「無原罪の御宿り」という称号が端的に意味するところとは

主イエス・キリストの御母であられる聖母マリアは、「無原罪の御宿り」という称号で、呼ばれることがあります。

「無原罪の御宿り」という称号が端的に意味していることとは、

「聖母マリアはその存在の始まりから、つまり母親の胎内に宿ってその生命が始まった瞬間から、いついかなる瞬間においても、悪(悪魔、サタン)の影響からは完全に無縁な存在であり、そして聖母マリアは、絶えず悪(悪魔、サタン)とは決定的に対立している存在である」

という事柄です。

つまり、母親(カトリック教会の聖伝では聖アンナ)の胎内に宿ってその生命が始まった時から、いついかなる瞬間においても、聖母マリアは悪(悪魔、サタン)とは決定的に対立し続けており、それゆえ聖母マリアは悪(悪魔、サタン)の影響からは完全に無縁な存在なのです。

カトリック教会の聖伝はその聖書的根拠として主に、創世記3章15節と黙示録12章とを挙げていますが、その他にも聖書には、この「無原罪の御宿り」という称号の根拠となる箇所がいくつか存在します。

この「無原罪の御宿り」という称号と関連している聖書の箇所とはいったいどこなのか、これより以下において説明していきます。

(以下の聖書の日本語訳は、日本聖書協会の新共同訳『聖書』によります)

【2】「無原罪の御宿り」を聖書で根拠付けることは可能なのか

◯創世記3章15節
「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫との間に わたしは敵意を置く」

◯ヨハネの黙示録12章4節、5節
「そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。」
「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。」

◯マタイによる福音書4章9節、10節
「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」
「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

◯創世記4章7節
「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

◯ヨハネの手紙一3章10節、12節
「正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です。」
「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。」
「自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」

◯知恵の書10章3節
「かの悪人は怒りのうちに知恵から遠ざかり、憤って兄弟を殺し、滅び去った。」

【3】創世記3章15節の「女」はエバなのか、それとも別の女性なのか

カトリック教会の主張する「無原罪の御宿り」の教義については、確かに聖書全体の中で、直接的に言及して定義付けている箇所はありません。
しかし聖書のいくつかの箇所の記述を系統的に読み解いていくことで、「無原罪の御宿り」の教義の聖書的な根拠や意味合いを追究することは、かなりの程度まで可能です。

……さて、創世記3章(エバの物語)から4章(カインの物語)までを字句通りに読み進んでいくと、どうにも腑に落ちないことがあります。

「蛇」は、「ねたみ(知恵の書2章24節)」のためにエバとアダムをだまし、害を与えましたが、その後エバの長男のカインもまた、ねたみのために自分の弟のアベルを野原に連れ出し、殺害しました。
カインの犯した過ちは、エバのそれとは比較にならないほど、深刻で重大なものでした。

しかし、主なる神は創世記3章15節で、「蛇」に向かって、「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫との間に わたしは敵意を置く」と約束されたはずです。
それなのにエバの子孫は、その最初の一人であるカインからして兄弟殺し・隣人殺しという悪行に手を染め、「敵意」どころか「蛇」の行ないに倣う者、大罪を犯す者となってしまいました。

◯創世記3章16節
「お前は男を求め 彼はお前を支配する」

◯創世記4章7節
「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

該当箇所の「求める」「支配する」について実際のヘブライ語原文で用いられる動詞を比較すると、同じであることがわかります。

◯創世記3章16節
「求め」“tə·šū·qā·ṯêḵ” – “תשוקתך”
「支配する」“yim·šāl” – “ימשל”

◯創世記4章7節
「求める」“tə·šū·qā·ṯōw” – “תשוקתו”
「支配せねばならない」“tim·šāl” – “תמשל”

創世記の3章(エバの物語)と4章(カインの物語)を読み比べると、「お前は男を求め 彼はお前を支配する」(3章16節)と「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」(4章7節)とは、ともに「求める」「支配する」という動詞が用いられた主なる神の御言葉ですが、よく似た言い回しで対応関係にあることがわかります。
さらに、「求める」「支配する」でそれぞれ用いられているヘブライ語の動詞も同じです。

その他にも創世記3章と4章に共通する言い回しとして、「どこにいるのか。」(3章9節、4章9節)「何ということをしたのか。」(3章13節、4章10節)という主(主なる神)の御言葉があります。

これらの対応関係から、3章から4章は一連の物語であって3章は4章の伏線であることが、強く示唆されています。

ヨハネの第一の手紙(ヨハネの手紙一)はカインについて、「カインのようになってはなりません」(3章12節)と教え、続けて「彼は悪い者に属して」と書いています。
同書3章10節には「正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です」として、“神に属さない者”の例としてカインの名前を挙げており、また続く12節にはカインの兄弟殺しの理由として「自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」と説明があります。

知恵の書10章3節には、「かの悪人」すなわちカインは、「怒りのうちに」「憤って兄弟を殺し、滅び去った」とあります。
またユダの手紙11節では、「滅び」に至る道を「カインの道」と表現しています。

知恵の書2章24節には、「悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである」とあります。

ところで、ヨハネの黙示録の12章では「女」と「竜」が登場して決定的に対立しますが、「竜」とは、創世記に登場する「蛇」(「年を経た蛇」)であると示唆され、「悪魔」「サタン」のことだと説明されています。
カインは、ヨハネの第一の手紙のいうところの「悪い者」、すなわち「悪魔」「サタン」に「属」する存在になってしまったのです。

このカインの悪行と末路とは、創世記3章15節における主なる神の「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫との間に わたしは敵意を置く」という約束とは、明らかに矛盾しています。
創世記3章15節における、主なる神のこの約束にもかかわらず、しかもカインはその約束の後に誕生した最初の一人だったにもかかわらず、「敵意」どころか、カインは「蛇」すなわち「悪魔」「サタン」とともに、滅びに至る道を自分から選択し、進んでしまいました。

これほどの矛盾はありません。
主なる神の約束は、いったいどうなってしまったのでしょうか?
最初の一人であるカインからして、主なる神の約束とは正反対の結果となる存在になってしまったのです。
間違えるはずのない「主なる神」が、間違えてしまったのでしょうか??

……さて、ここまでの議論のいったいどこに、矛盾の原因となる解釈の間違いがあるのでしょうか???

やはり創世記3章15節の「女」をエバと考えるから、矛盾が生じるのです。

「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫との間に わたしは敵意を置く」の中の、この「女」とは、エバではなく、いずれ現われるであろう別のエバ以外の女性、と考えるべきということになります。
主なる神はこの部分で、「蛇」とは絶対に相容れることのない「女」、すなわち、「蛇」の影響を全く受けることのない一人の女性を、将来的にこの世界に登場させる──そう「蛇」に対して宣言しておられるのです。

とはいえ、創世記3章の時点では、いうまでもなく人類の中で存在する女性は、まだエバただ一人のみでした。そこで15節の「女」とは当然エバのことだろうと、読者は最初は誰しも思い込んでしまいますが、そこに落とし穴があったのです。

3章15節の「女」がエバであるなどとは、実は創世記は全く言ってはいません。
創世記は「女」の名前を挙げてはいません。
読者が、勝手にエバのことだと早合点して思い込んでしまっているというだけの話です。

しかし、この「女」をエバと考えてしまうと、エバの子孫のまさに最初の一人であるカインによる兄弟殺し・隣人殺しの大罪という、避けがたい巨大な矛盾に突き当たってしまいます。
カインは、「悪い者に属して」(ヨハネの手紙一3章12節)そして「滅び去った」(知恵の書10章3節)のです。
繰り返しますが、これは創世記3章15節の主なる神の御言葉とは明らかに矛盾します。

そもそも、創世記3章15節の「女」がもしもエバを指すのであれば、どうして「主なる神」は、「蛇」に向かって宣告されたこと(「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫との間に わたしは敵意を置く」)を、エバその人に対しては宣告されなかったのでしょうか?
もしも「女」に該当するのがエバだとすれば、主なる神は「おまえと蛇、おまえの子孫と蛇の子孫との間に わたしは敵意を置く」ということを、必ずエバその人に対しても宣告されたはずです。
しかし、「主なる神」のエバに対する宣告(16節)には、そのことは含まれていません。

まさにそれこそ、実際にはエバがその「女」には該当しなかった(その「女」が実はまだその場には存在していなかった)からではないでしょうか。

やはり、創世記3章15節の「女」とはエバのことではない、と考えるべきなのです。

【4】創世記3章15節の「女」がイエスの母マリアである理由

先に触れたヨハネの黙示録12章では、「女」と「竜」が登場して決定的に対立しますが、この「竜」とは、創世記に登場する「蛇」(「年を経た蛇」)であると示唆され、「悪魔」「サタン」そして「全人類を惑わす者」のことだと説明されています(9節)。
「女」は、「男の子を産んだ」とありますが、「この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた」と続けられています(3節)。
この「男の子」とは当然、主イエス・キリストのことでしょう。

マタイとルカの両福音書において、「産む」を意味するギリシア語の動詞“τίκτω(tiktō)”が用いられている場合、産まれる子が主イエス・キリストである文脈では、当然ながらその主語は聖母マリアということになります。
ならば、黙示録12章において同じ動詞“τίκτω(tiktō)”が五か所に用いられており、そして産まれる「男の子」(5節)が主イエス・キリストであるとするなら、主語となる「女」もまた聖母マリアであると解釈するのが最も自然です。

また、「神の掟を守り、イエスの掟を守りとおしている者たち」のことを、「その子孫の残りの者たち」とも呼んでいます(17節)。
「その」というのは、「『女』の」ということです。
このヨハネの黙示録12章が創世記3章15節をより詳しく説明するものだということは、「竜」とは「年を経た蛇」「悪魔」「サタン」であると書いていることからも明らかです。

ヨハネの黙示録12章17節には、「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして」とあります。
この部分と、創世記3章15節の「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫との間に わたしは敵意を置く」を読み比べれば、

“女”=【主イエス・キリストの母マリア】

“女の子孫”=【主イエス・キリスト】+【神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たち】

であると、おのずと明らかになります。

十字架上の主イエス・キリストは、母マリアに、「御覧なさい。あなたの子です」と言われ、また弟子に、「見なさい。あなたの母です」と言われました(ヨハネによる福音書19章26節から27節)。

ヨハネによる福音書1章12節には、「言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とありますが、この「言(ことば)」というのは、いうまでもなく主イエス・キリストのことです。
また続く13節には、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」とあります。

同じヨハネによる福音書の20章17節では、復活された主イエス・キリストから「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい」という伝言が、マグダラのマリアに託されました。
それに続く18節には、「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って」「主から言われたことを伝えた」とあります。

つまり主イエス・キリストにとっては、ご自分の弟子たちこそが「わたしの兄弟たち」なのです。

マタイによる福音書28章10節にも「わたしの兄弟たち」という同様の表現があり、文脈を辿ると、この「わたしの兄弟たち」とは16節の「十一人の弟子たち」のことを指していると明らかになりますが、なおヘブライ人への手紙2章11節には、「人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで」と、この辺りの事情がもう少し詳しく説明されています。

ところでヨハネの黙示録12章の「女」に関しては、これは教会のことだとする解釈がカトリック教会においても存在します。
確かに、教会はサタンと決定的に対立すべきです。また、主イエス・キリストに対する教会の信仰にあずかることによって、わたしたちは神の子となることができます(前述のヨハネによる福音書1章12節の他、ローマの信徒への手紙8章17節それに29節、ガラテヤの信徒への手紙4章5節、エフェソの信徒への手紙1章5節など)。

しかし主イエス・キリストは、教会から生まれたのではありません。それは絶対にありえません。
たとえ比喩的表現であれ、その考えは成立しません。
主イエス・キリストを「産んだ」のは、第一義的には当然ながら母マリアであって(マタイによる福音書1章16節、同1章21節、ルカによる福音書1章31節~33節、同2章6節~7節)、教会ではありえません。

ちなみに、ルカ福音書1章43節において、エリサベトは既にマリアのことを「わたしの主のお母さま」と呼んでいますが、この場合の「わたしの主」とは当然、「神」と同義語です。
ここに、カトリック教会がマリアを「神の母」と呼ぶ聖書的根拠があります。
エリサベトが自分勝手にこの言葉を口にしたのではなく、「聖霊に満たされて…言った」(ルカ1章41節~42節)ものであり、むしろ神がエリサベトに語らせたと見なしても差し支えない表現であって、まさに神からのお墨付きを得た(神への信仰に合致している)適切な言い回しであると判断できます。

そもそもエフェソの信徒への手紙1章22節には「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭(かしら)として教会にお与えになり」と書かれており、また続く23節には「教会はキリストの体」と書かれているのですから、教会が主イエス・キリストを生む(産む)という考え方はやはりどこか不自然で、本末転倒と言わざるをえません。

コロサイの信徒への手紙1章18節にも、「御子(みこ)はその体である教会の頭(かしら)」「御子は初めの者」「すべてのことにおいて第一の者となられた」と書かれています。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカによる福音書1章38節)というマリアの神に対する承諾の意思表示そして絶対的な従順がなければ、主イエス・キリストひいては教会そのものも、この世にはもたらされなかったのです。

よって、厳密に言えば、ヨハネの黙示録12章の「女」とは、「鉄の杖ですべての国民を治める」主イエス・キリストを「産んだ」その母マリア、聖母以外にはありえません。

聖母マリアは聖霊の花嫁であり、主イエス・キリストの花嫁が教会です。
また、聖母から主イエス・キリストがお生まれにならなければ、教会そのものもまた、この世にはもたらされなかったということを考えれば、聖母は主イエス・キリストの母であると同時に必然的に教会の母でもあるのです。

使徒言行録1章14節は「婦人たちやイエスの母マリア」と表現することで、キリストに従う人々の中で母マリアがおのずと別格の存在であることを、明らかにしています。
その意味では、黙示録12章の「女」とは教会というよりは救い主の母その人を指すと考えるべきでしょう。

ヨハネの黙示録12章の「女」が聖母であるならば、同様に創世記3章15節の「女」についてもやはり主イエス・キリストの母マリア、聖母以外にはありえないということになります。
なぜなら、前述した通り、ヨハネの黙示録12章とは創世記3章15節をより詳しく説明している内容のものだからです。

カトリック以外の人々から、「カトリックが創世記3章15節の『女』をイエスの母マリアにあてはめて論じようとするのはおかしい」と批判されることが、キリスト教の歴史において、たびたびありました。
けれども創世記の原罪の物語を、3章までだけでなく4章までを一連のものとして読み進めていけば、3章15節の主なる神の御言葉の中の「女」がエバには決してあてはまらないことは、おのずと明らかです。
「初子」カインという大罪人の存在が、「女」がエバではないということを証明しているのです。
ヨハネの手紙一の3章10節~12節そして知恵の書10章3節は、カインが最終的に“神に属する者”ではなく“悪に属する者”となってしまったことを、明らかにしています。

ちなみにヨハネの手紙一の2章29節には「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはず」と書かれてあり、同じ手紙の3章7節には「義を行う者は、御子と同じように、正しい人です」と書かれています。

それでは、繰り返すようですが、創世記3章15節の「女」がマリアに該当するということは、いったい何によって証明されるのでしょうか?

いうまでもなく、それは「初子」イエスの存在によってです(ルカによる福音書2章7節「初めての子」)。カインによって人類にもたらされた「兄弟殺し・隣人殺し」の大罪を、イエスは自らをアベルと同じ運命を辿らせることによって、あがなおうとされたのです。「兄弟殺し・隣人殺し」という大罪から人類が救われるためには、それは不可欠でした。

「最も重要な掟」(マタイによる福音書22章36節)のうち、第一の掟である神なる主への愛は、人類史上エバの不従順によって最初に損なわれ、そして第二の掟は、カインが兄弟にして隣人でもあるアベルを「怒り」に任せて殺害することによって、決定的に踏みにじられました。

「蛇」の誘惑に負けてしまったエバの主なる神に対する不従順(創世記3章6節)は、ややもすると取るに足らないものであるかのようにも感じられますが、このエバの不従順は、「罪」(創世記4章7節)の誘惑に負けてしまったカインの主に対する不従順と、それに続く兄弟殺しの大罪、という極めて深刻で重大な結果をもたらす契機となりました。
「誘惑」と「罪」と「死」の相関については、ヤコブの手紙1章13節以下で説明されています。
エバの不従順がなければ、アダムとエバは楽園を追い出されることもなく、カインやアベルなどの子孫たち──ひいては人類の歴史も大きく変わっていたかもしれません。

それに対して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカによる福音書1章38節)というマリアの神に対する絶対的な従順は、ややもすると取るに足らないものであるかのようにも感じられますが、このマリアの従順は、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ福音書22章42節)そして「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ福音書23章46節)という主イエス・キリストの御父に対する絶対的な従順と、それに基づいた十字架上の犠牲そして世界の救いの成就という空前絶後の結果(ヘブライ人への手紙9章26節)をもたらす契機となりました。

創世記では、エバの不従順が、より重大な意味を持つカインの不従順の伏線となっていましたが、ルカによる福音書では、マリアの従順が、より重大な意味を持つイエスの従順の伏線になっているのです。

エバからカインという母子が行なったこととは、全く正反対の事柄を、マリアからイエスという母子が行なうことによって世界の救いが成就(ヨハネ福音書19章28節)されたのです。まさに、マリアは人類に救いをもたらすための、新しいエバ、もう一人のエバなのです。

何度も繰り返しますが、創世記3章15節において、主なる神は、「蛇」とは絶対に相容れることのない「女」、すなわち「蛇」の影響を全く受けていない一人の女性を、もう一人のエバ、新しいエバとして、将来的にこの世界に登場させる──主なる神は「蛇」に対して、そのように宣言しておられるのです。

「蛇」とは絶対に相容れることのない、「蛇」の影響を全く受けてはいない、というのはすなわちアダムやエバが本来そうであったように原罪のない(無原罪の)状態でこの世界に生まれさせる、ということです。

その「女」は、いかなる意味においても(いかなる瞬間でも)「蛇」の悪しき影響が徹底して排除された存在であるべきだと、創世記3章15節で主なる神は宣言(予告)されているのです。

つまり、主なる神がまず創世記3章15節において宣言され次に黙示録12章の啓示においてさらに明らかにされた事柄について、それを端的に表現した称号が、「無原罪の御宿り」だということです。

さて、アダムもエバも、母親から生まれたわけではありませんでした。
けれども、モーセの律法が支配的だった旧約時代のイスラエルにおいては、「混血の人は主の会衆に加わることはできない」(申命記23章3節)という律法の規定からも明らかな通り、ヘブライ人としての出自に疑問が持たれている人が「主の会衆」に加わるのは困難でした。

また、ネヘミヤ記13章27節には、「わたしたちの神に逆らって異民族の女と結婚するという、この大きな罪悪」という表現があります。

よって時代的な制約として、「新しいエバ」となる、その女性は、必然的にヘブライ人の両親から誕生しなければなりませんでした。
「新しいエバ」には、一人の母親、一人のヘブライ人の母親がいたのです。
ここが、アダムやエバとの決定的な違いです。

【無原罪の状態で母親の胎内に宿る】(「無原罪の御宿り」)とは、主イエス・キリストをこの世にもたらされた「女」である聖母マリアに特典として与えられた、主なる神の恩寵だったのです。
ルカによる福音書1章28節の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」という天使の言葉は、そのことをも暗示しているように思われます。

エフェソの信徒への手紙1章6節では、洗礼を受けた信者が特別に受けることのできる恩恵を表現する際に、新約聖書では非常に稀にしか用いられない、極めて独特なギリシア語表現(χαριτόω – charitoō)が用いられて、説明されています。

それは、「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵み」という箇所です。

同じ章の4節には、「神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚(けが)れのない者にしようと」という表現もあります。

ところで、ルカ福音書1章28節においては、この同じ極めて特別なギリシア語表現(χαριτόω – charitoō)が、受胎告知の際のおとめマリアに対しても、用いられています。

それこそ、「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる」という箇所です。

この極めて特別なギリシア語表現(χαριτόω – charitoō)は、新約聖書においてはルカ1章28節とエフェソ1章6節の二か所のみで用いられています。

ただし、この表現が天使ガブリエルによって用いられた時点では、おとめマリアは神の御ひとり子の母親となることについて、承諾の返事を実はまだ済ませてはいませんし、個人としての自由意志において洗礼に相当する特別な儀式を済ませていたわけでも、もちろんありません。
「受胎告知以前のマリアは、それまでの人生のどこかの時点において、洗礼と同じ効果をもたらすような特別な儀式を経験していた」などとは新約聖書のどこにも具体的には記述されてありませんし、それを暗示する記述すら見当たりません。

救い主の受胎それ自体は、確かに、マリアの人生における決定的瞬間ではあります。しかし、受胎告知の場面において、神から遣わされた天使は(つまり神なる主は)、明らかに本人の自由意志によるマリアの承諾を求めています。
「救い主の母」になるか否かの判断は、あくまでも、おとめマリア本人に委ねられています。

この場面において、神から遣わされた天使は(つまり神ご自身も)、おとめマリアに対して少しも承諾を強制してはいません。
にもかかわらずおとめマリアが承諾の意思表示をする以前の段階において、神から遣わされた天使は(つまり神なる主は)、特別な恩恵を既にいただいた者のみに用いられる極めて独特なギリシア語表現を用いて、おとめマリアに語り掛けています。
つまり、マリアが「救い主の母」になることを承諾するかしないかにかかわらず、この特別な恩恵自体はおとめマリアに対して、それ以前の人生のどこか特別な瞬間において既に与えられていた、としか考えられません。

神から遣わされた天使ガブリエルは、マリアが承諾した返事の後で、去って行きました。
「受胎告知」とは、別に神からの一方的な通達(命令、強制)というわけではなく、あくまでも、おとめマリアの自由意志による承諾の返事をもって完結する事柄だったわけです。

ということは、おとめマリアは神から遣わされた天使に対して承諾の返事を済ませる以前に、その存在の始まりから既に、一般の信者が洗礼を受けることによって一生のうち一度だけ受けることができる特別な恩恵を、いついかなる時点においてもおとめマリアは一貫して受け続けていた(先天的にそして継続的に受けていた)、と解釈することができます。

最後にもう一度繰り返しますが、【無原罪の状態で母親の胎内に宿る】(「無原罪の御宿り」)とは、主イエス・キリストをこの世にもたらされた「女」である聖母マリアに特典として与えられた主なる神の恩寵だったのです。
ルカによる福音書1章28節の「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」という天使の言葉は、その事柄を暗示しているものと言えるでしょう。

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

そもそも、主イエス・キリストが「救い主(すくいぬし)」(ルカ福音書2章11節)として到来された理由そして目的は、「自分の民を罪から救う」(マタイ福音書1章21節)ためですから、「救い主の母」となるべき女性が罪とは徹底的に無縁であるべきという概念は、論理的に至極当然です。

(注)別エントリー「主の御降誕:救い主は何から人々を救うのだろうか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4445