月別アーカイブ: 2014年7月

マリアがベツレヘムの宿屋で拒まれた理由

◯ルカによる福音書2章7節(新共同訳)
「宿屋には、彼らの泊まる場所がなかったからである。」

◯ルカによる福音書2章7節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「宿屋には、彼らのために場所がなかったからである。」

◯レビ記12章2節〜4節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「女が身籠って、男の子を産んだ場合、七日の間汚れる。つまり、月経による汚れの日数だけ汚れる。八日目にその子は包皮の割礼を施される。産婦は血の清めのために三十三日の間籠り、清めの期間が満了するまで、聖なるものにいっさい触れてはならず、神殿に入ってもならない。」

◯レビ記15章19節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「その女に触れる人はみな夕方まで汚れる。」

◯レビ記15章20節〜23節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「その女が寝たものはすべて汚れる。また座ったものもすべて汚れる。その女の寝床に触れた人はその衣服を洗い清め、水で身を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。その女が座ったものが何であっても、それに触れた者はみなその衣服を洗い清め、水で身を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。もしその寝床の上、あるいはその女が座ったものの上にあったものに触るなら、その人は夕方まで汚れる。」

【1】ベツレヘムにヨセフの実家は存在したのか

……さて、本田哲郎神父は、『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)で次のように書いています。

・「イエスは家柄の良い家に生まれましたか。そうではなかったわけです。しかも、家畜小屋で生まれたらしい。なぜ家畜小屋だったのか? あのルカ福音書とマタイ福音書の、イエスの誕生物語をていねいに見ればわかります。すごく厳しい、本当につらい、マリアにとっても養い親となったヨセフにとっても、耐えられないくらいの差別と排斥がそこには物語られています。きれいな星を飾った馬小屋で、羊たちに囲まれて、といったロマンチックなクリスマス・メッセージではないのですよ。だってヨセフといいなづけのマリアは、人口調査、住民登録のためにヨセフの生まれ故郷ベツレヘムに、つまり実家の村に帰ってきた。実家の村だから、とうぜん本家がそこにあるはずです。本家の家長を通じてローマ総督に、『うちの家系は、何歳以上の男子が何人、女子が何人、子どもが何人、羊が何頭』という具合に、登録するわけですから。だから本家があるだけではなく、その親族、一族の家も、その小さなダビデの村にいっぱいあったはずです。なのになぜ、マリアが出産間近であるにもかかわらず、親戚の家のどこにも入れてもらえなかったのか。それだけではなくて、宿屋でもこのカップルは断られています。」(127~128ページ)〔岩波現代文庫版『釜ヶ崎と福音』では139ページ〕

さて本田神父は上記のように、イエスの養父ヨセフの実家やその「本家」がベツレヘムにあったかのように発言していますが、実際にはルカ福音書は「自分の町」(2章3節)また「ダビデの町」(2章4節)としてだけベツレヘムを紹介しており、また「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、」(同節)とまでは書いているものの、そこベツレヘムにヨセフの実家があったなどとは書いていません。
そもそも、単に「自分の町」というくだりだけでヨセフの実家がベツレヘムにあったと判断できるのならば、「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、」と続く説明のくだりは全く必要ないということになります。

あえて「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、」という説明がなされているということは、むしろ、ベツレヘムという場所は本当のところヨセフの実家の所在地ではなかったけれども先祖ダビデの出身地であるためそこで住民登録を行なうことになった、という可能性を強く示唆しています。

ベツレヘムは確かにルカ福音書では「ダビデの町」として紹介されてはいますが、実際にはダビデがベツレヘムに住んでいたのは若者時代までのことであって、その後イスラエルの王となってからはヘブロン次いでエルサレムに居を定めており(サムエル記下5章4節~5節)以後、王としてベツレヘムに住んだなどとは旧約聖書のどこにも書いてありません。
旧約聖書とりわけ列王記では、ダビデの子孫の王たちが葬られた場所として「ダビデの町」という表現がしばしば登場しますが、列王記下14章20節ではその「ダビデの町」とはエルサレムであることが明らかにされています。つまり旧約聖書では「ダビデの町」とはむしろどちらかというとエルサレムを指していることが多いのです。

ルカ福音書2章39節は聖家族に関して「自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。」と書いていますが、このことからも、「自分の町」というのが必ずしも実家の所在地を指しているわけではないというのは明白でしょう。

ところで、ダビデがエルサレムに居を定めて以降、バビロン捕囚に至るまでの間、旧約聖書にベツレヘムという地名が登場すること自体、稀少になってしまいます。
マタイ福音書2章6節に引用されたミカ書5章の有名な預言を除けば、かろうじてレハブアム王(ダビデの孫、ソロモンの子)の時代にベツレヘムを含む15の町々(「砦の町」)の守りを非常に堅固なものにしたことが、歴代誌下11章6節以下に書かれてあるくらいです。しかもこの時レハブアムはエルサレムにとどまったことがその直前に明記されています(同11章5節)。

レハブアム王については、「彼は賢明に行動し、その息子たちの何人かをユダとベニヤミンの全土に、すなわちそのすべての砦の町々に配置し」と歴代誌下11章23節に書かれてありますので、レハブアムの息子の少なくとも一人はベツレヘムに住んだものと考えられますが、ヨセフの直系の先祖であるアビヤ(マタイ福音書1章7節)に関しては「アビヤがユダの王となり、エルサレムで三年間王位にあった。」(歴代誌下13章1節~2節)と書かれてありますので、ベツレヘムには住まなかったと考えられます。

そこで次に、バビロン捕囚からユダヤに戻った後で、イエスの養父ヨセフの直系の先祖がいったいどこに居を定めたのかが最も重要になりますが、ここで問題の鍵となるのがゼルバベルという人物です。ゼルバベルはヨセフの先祖の中でマタイ福音書の系図(1章12節~13節)とルカ福音書の系図(3章27節)との両方に登場します。

ゼルバベルの住んだ場所がエルサレムであってベツレヘムではなかったことは、簡単に確かめることができます。なぜなら、「イスラエル人は皆それぞれ、自分たちの町に住んだ。」(エズラ記2章70節)と書いてある一方、ゼルバベルは「ユダの総督」(ハガイ書2章21節)であり「民の長たちはエルサレムに住んでいた。」(ネヘミヤ記11章1節)と書いてあるからです。

以上から、ゼルバベルが居を定めた場所がエルサレムであることは、明白です。

ということは、ゼルバベルがヨセフの直系の先祖であることから、ガリラヤのナザレ以前にヨセフの実家やその「本家」があったとすれば、その場所はベツレヘムではなくエルサレムであったと考える方が自然ですが、ならばなぜルカ福音書の中の住民登録の場所がエルサレムではなくベツレヘムになったかと考えると、それはやはりヨシュア記にあるイスラエルとしての最初の領地配分に基づく居住地(ヨシュア記15章59節)である先祖ダビデの出身地を尊重したためであろうと思われます。
ルカ福音書2章3節の「自分の町」という表現は、あくまでもその意味合い(ベツレヘムという場所は本当のところヨセフの実家の所在地ではなかったけれども、先祖ダビデの出身地であったためそこで住民登録を行なうことになった)で解釈すべきでしょう。

結局のところ、ダビデが若くして故郷のベツレヘムを離れて以来、ヨセフに至るまでの代々の直系の子孫でベツレヘムに住んだ人物を旧約聖書で確認できない一方で、エルサレムに住んでいた人物ならば容易に確認できるという事実は、ヨセフの実家あるいはその「本家」がベツレヘムではなくエルサレムにあったことの裏付けと考えられるでしょう。

また、エズラ記2章では「ゼルバベル」(2節)と「ベツレヘムの男子」(21節)とを別々に記述しており、また同様にネヘミヤ記7章でも「ゼルバベル」(7節)と「ベツレヘムとネトファの男子」(26節)とを別々に記述しているという事実も、ゼルバベルの直系の子孫であるヨセフの実家あるいはその「本家」が、ベツレヘムではなくエルサレムにあったことの裏付けとなりうるでしょう。

古代ギリシアの歴史家ヘロドトスはその著書『歴史』の第三巻において、ペルシア人が支配下の諸民族をどのように統治していたかを、次のように書き記しています。

・「それというのもペルシア人には王家の後裔を尊重する気風があって、ペルシアに反旗を翻したような場合でも、その子孫にはいつも主権を返還しているからである。」(ヘロドトス『歴史(上)』(岩波文庫、松平千秋訳)335ページ)

この場合の「その子孫にはいつも主権を返還」という意味はつまりその子孫に「総督として統治」(前掲書同ページ)させるということでした。

ゼルバベルは当時のペルシア人によって、ダビデの子孫たちの生き残りの中で最も統治者にふさわしいと評価されたわけです。そういうわけでゼルバベルはバビロン捕囚以前にダビデの子孫の王たちがそうしていたように、今度は「ユダの総督」としてエルサレムにあって統治を行なっていたということです。

ところでネヘミヤ記11章3節~5節によれば、「聖なる都エルサレム」(ネヘミヤ記11章1節)にはイスラエルの中でもユダ族とベニヤミン族が優先して住むことが認められ、それ以外の人々は「ユダの町々」に住むことが定められたとあります。
バビロン捕囚からユダヤに戻ってエルサレム神殿が再建された後、イスラエル人はだれもが神殿のある「聖なる都」エルサレムに住むことを希望したのですが、結局イスラエルが北王国の一〇部族と南王国の二部族(ユダとベニヤミン)に分裂していた過去の歴史を考慮してでしょうか、ユダとベニヤミンにエルサレム居住の優先権が与えられたのです。

ダビデの子孫は当然、ユダ族でした。一方、「ユダの町々」の一つであるベツレヘムには、ユダ族とベニヤミン族を除いたそれ以外のイスラエルの人々が住むことになったのです。

ネヘミヤ記11章25節~30節にはエルサレムに住まなかったユダの一族が住んだ地域について書かれていますが、その中にベツレヘムは含まれてはいません。
これらもまた、ヨセフの先祖の実家がベツレヘムではなくエルサレムにあったという、もう一つの証明でしょう。ネヘミヤ記11章の記述に基づく限り、ヨセフの実家がベツレヘムにあったと想定するのは極めて不自然なのです。

本田神父はヨセフの実家がベツレヘムにあったという前提で、『釜ヶ崎と福音』128~129ページ〔岩波現代文庫版『釜ヶ崎と福音』では140〜141ページ〕でマリアに対する冒涜説を展開していきますが、その前提が誤りである以上は、本田神父の説とは結局すべてが空理空論に過ぎないということになります。

最後に、ネヘミヤ記の時代から福音書の時代までのあいだに、ヨセフの何代か前の先祖のだれかがエルサレムからガリラヤのナザレに移住していたはずであるということになりますが、このことについては聖書の中に記述がありません。参考までに、その辺の事情についてヘブライ大学教授のS・サフライ氏の講演録をまとめた『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』(サンパウロ)179~180ページから引用します。

・「会場の皆さんはよくご存じと思いますが、イスラエルの地は北にガリラヤ、中ほどにサマリアの地、そして南にユダヤと三つに分かれています。ガリラヤとユダヤの中間にサマリアがあって、ユダヤ人の二大居住地を隔てています。イスラエルの子らが捕囚から帰ったとき、ユダヤだけに帰ってきたこともよく知られています。」

・「それから四〇〇年間近く、ユダヤ人が生活したのはエルサレムの周辺と、ユダヤ地方ぐらいなものでした。当時、ガリラヤはユダヤ州には属していませんでした。パルティア、ペルシアあるいはヘレニズム時代、ローマ時代でもそうでした。紀元前一六七年まで、ガリラヤの地に住んだユダヤ人はごくごく少数でした。ハスモン王朝の王たちがガリラヤの地を征服して後彼らの王国に加えました。ガリラヤのほとんどの町々は、紀元前二世紀の終わりになって建設されました。」

・「以上のことをひと言で申し上げますと、第二神殿時代のかなり後期になって、ガリラヤはユダヤ人の居住地になったということです。」

要するに、ヨセフの何代か前の先祖がエルサレムからガリラヤに移住したのは主イエス・キリストがベツレヘムでお生まれになる一〇〇年くらい前、と考えるのが妥当のようです。

ちなみに、S・サフライ氏の前掲書『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』には、次のように書かれています。

・「残念なことですが、ほとんどの学者は、ガリラヤにはファリサイ派の人々が少なかったとか、律法の掟があまり守られていなかったとか、ガリラヤは無知な人々の地であるなどと、ひどい言い方をしてきました。しかし、これが全くの誤りであるということを指摘したいと思います。つまり、イエスは律法を知らなかったり、掟を守らなかった学のない人々の代表ではありません。実際はその反対で、ユダヤ教が生きていたという点では、ガリラヤはユダヤ以上にユダヤ教的でした。」(14~15ページ)

・「エルサレムとその周辺のユダヤ地方との関係と、エルサレムとガリラヤ地方との関係を比較検討してみますと、次のように結論されます。ユダヤ地方よりもガリラヤ地方のほうが神殿とエルサレムの良い教えにずっと近かったのです。」(182ページ)

・「エルサレムの住民とユダヤの住民の違いを集めれば、長い個条書きの例ができます。この点についていつでもエルサレムの住民はユダヤの住民より高度に宗教的であり、家族関係も高い水準にあります。ガリラヤの住民もまた同様に、ユダヤの住民よりは高い水準にありました。エルサレムの住民の場合、婚約後新郎になる人が新婦となる人を訪れても、彼は決して性的交渉を持ちませんでした。しかしユダヤではこのことについてあいまいでした。この点でも、ガリラヤの人々はエルサレムの住民のようにふるまいました。すべての例は、倫理的、社会的にユダヤの住民よりエルサレムの住民の水準が高かったことを示しています。エルサレムはユダヤ教文化の中心地でした。そしていつでも『ガリラヤはエルサレムのようである』という言葉が加えられています。」(183~184ページ)

……よって、「エルサレムの住民の場合、婚約後新郎になる人が新婦となる人を訪れても、彼は決して性的交渉を持ちませんでした。」というサフライ氏の発言と、婚約中にヨセフはマリアとは関係を持たなかったというマタイ福音書1章25節の記述とを比較しても、ヨセフの先祖はエルサレムからガリラヤに来たという可能性の方が、はるかに有力です。

ベツレヘムに実家も本家も親戚もなかった以上、ヨセフはマリアのための場所を、自分で見つけるしかなかったのです。

(以上の聖書の日本語訳は、日本聖書協会の新共同訳『聖書』によりました)

【2】ベツレヘムの宿屋がマリアを拒む理由

ここまでの議論から、ヨセフの実家はベツレヘム云々の本田神父の主張が成立しないことは明らかですが、しかし、ルカ福音書2章7節の「宿屋には、彼らのために場所がなかったからである。」(フランシスコ会聖書研究所訳注。新共同訳では「宿屋には、彼らの泊まる場所がなかったからである。」)という記述は、厳然として残ります。

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351

もちろん、ダビデ王をはじめ、レハブアム王もアビヤ王も皆かなりの子だくさんであった(歴代誌上3章1節~9節、歴代誌下11章21節、同13章21節)ことを考えると、福音書の時代には浜の真砂のようにおびただしい人数となっていたダビデの子孫たちが、大都会エルサレムではなく小さな町ベツレヘムにいっせいに集まったとすれば、それは宿屋からあぶれてそこに泊まることができなかった人々が大勢いたとしても当然、という説明もつくことはつきます。

しかし、なにかもっと他の特別な理由がなかったかどうか、さらに調べてみます。

本田哲郎神父は『釜ヶ崎と福音』において、次のように書いています。

・「それなのに、出産をひかえるヨセフとマリアはどの親戚の家にも入れてもらえず、宿屋にも断られた。これは何かあるわけなのです。実は、『マリアの妊娠がヨセフのあずかり知らぬことだった』というのがバレバレになっていたということのようです。」(128ページ)〔岩波現代文庫版『釜ヶ崎と福音』では140ページ〕

・「つまりイエスは父親のわからない子どもだと、当時の人たちは気づいていたということです。まして伝統色の強いベツレヘムの村は、律法に違反したカップルを、いくら親戚とはいえ許し難い、ということで排斥したわけです。その結果が家畜小屋だったのです。だから、マリアもヨセフも罪人というレッテルを貼られた状態だった。」(129ページ)〔岩波現代文庫版『釜ヶ崎と福音』では141ページ〕

そこでこの本田神父の主張を検証するために、さらにルカ福音書を読み進めていくと、2章22節に「清めの日数が満ちると」という表現が登場します。
レビ記12章2節~4節に「女が身籠って、男の子を産んだ場合、七日の間汚れる。つまり、月経による汚れの日数だけ汚れる。八日目にその子は包皮の割礼を施される。産婦は血の清めのために三十三日の間籠り、清めの期間が満了するまで、聖なるものにいっさい触れてはならず、神殿に入ってもならない。」(フランシスコ会聖書研究所訳)という律法の規定があるからです。

フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』のレビ記12章の欄外の注には、「2節で、産後の婦人が、月経や子宮出血病の場合(15・19ー30)と同様に、不浄のものとみなされている。」とあります。
つまりモーセの律法上、女性の出産は、月経や子宮出血病の場合(レビ記15章19節~30節)と同様に不浄が生じる機会と見なされていたのです。

ルカ福音書2章22節の「清めの日数」という記述は、本田神父の主張を否定する決定的な根拠となります。
モーセの律法に、本田哲郎神父が主張するような事情、つまり姦淫による「汚れ」に対する「清めの日数」の規定など、どこにも存在しません。

もしマリアとヨセフが本田神父の主張する理由によってベツレヘムの人々から排斥(忌避・拒絶)されたというのが事実であったとするなら、当然エルサレムの神殿からも同じ理由によってマリアとヨセフそして生まれた子イエスも排斥(忌避・拒絶)されていなければなりません。
当時のユダヤ世界の中で、最も律法が厳格に適用されていた場所は、ベツレヘムよりもどこよりも、それはもうエルサレムの神殿に他ならないからです。

そもそも、申命記には「主の会衆」から排除されるべき人々として、次の律法の規定があります。

混血の人は、主の会衆に加わってはならない。
(申命記23章3節:フランシスコ会聖書研究所訳)

フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』の該当箇所の欄外の注には、この「混血の人」の説明として「不法な近親結婚、あるいは姦通による私生児を指すと思われる」とあります。
また「会衆」については、「幕屋で、後代には神殿で、礼拝のために集まる人々のこと。」であると、同じく欄外の注にあります。

バルバロ訳聖書(講談社)では、この「混血の人」の部分を「マンゼル」と表現しています。
この「マンゼル」について、バルバロ訳聖書の欄外の注には、「これは意味不明なことばの一つで、私生児、あるいはヘブライ人とペリシテ人の混血児、または偶像と何かかかわりのある者などの意味であろうと言われる。」とあります。

これらの欄外の注の説明は、ユダヤ教の多くの伝承や、アラマイ語のタルグム(本文に短い注釈を加えた翻訳)それにギリシア語七十人訳・ラテン語ヴルガタ訳・シリア語ペシッタ訳などの古代訳聖書を踏まえていますが、これらの伝承や翻訳の多くは「マンゼル」を「売春婦の子・姦婦の子・私生児」という意味で捉えています。

他の日本語訳聖書ではこの箇所がどう翻訳されているかをさらに調べると、日本聖書協会の新共同訳聖書では「混血の人」という訳ですが、同協会の口語訳聖書では「私生児」と訳されています。

多くの翻訳から分かることは、この「マンゼル(ממזר – mamzer)」というヘブライ語は単に文字通りの「混血の人」という意味の他にも、多様な意味を含んでいて、その厳密な定義付けについては細部では諸説があるものの、律法の規定という見地で「不法、非合法的、不適切」な性関係から生まれた子は「マンゼル」というこの範疇に該当する、と見なす点では一致しているわけです。

つまり、本田哲郎神父が主張するように、マリアとヨセフが「律法に違反したカップル」「罪人というレッテルを貼られた状態」であったとすれば、生まれた子イエスを献げようとしてエルサレムの神殿に入ることは許されなかったはずです。
もし本田神父の主張するような状況であったならば、生まれた子は「マンゼル」として見なされ、「主の会衆に加わってはならない」存在として扱われることになるからです。
そもそも、エルサレムの神殿は、「律法に違反した」「罪人」たちが中に入ることを厳しく禁じていましたし、姦淫による「汚れ」は無期限で、「清めの日数」などは存在しなかったからです。

(注)別エントリー「『聖母マリアの終生童貞』の聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2754

それでは話を戻し、もしもマリアがベツレヘムの宿屋に滞在できたと仮定すると、滞在中に宿屋で出産した場合に何が起こりうるか想像してみましょう。

重ねて強調しますが、フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』のレビ記12章の欄外の注に「2節で、産後の婦人が、月経や子宮出血病の場合(15・19ー30)と同様に、不浄のものとみなされている。」とあることを踏まえてここは考えるべきです。
モーセの律法上、女性の出産は、月経や子宮出血病の場合と同様に不浄が生じる機会と見なされていたのです。

レビ記15章から、マリアと周囲の人々に適用される可能性が大きかった掟を列挙していきます(この部分はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によります)。

「その女に触れる人はみな夕方まで汚れる。」(19節)

「その女が寝たものはすべて汚れる。また座ったものもすべて汚れる。その女の寝床に触れた人はその衣服を洗い清め、水で身を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。その女が座ったものが何であっても、それに触れた者はみなその衣服を洗い清め、水で身を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。もしその寝床の上、あるいはその女が座ったものの上にあったものに触るなら、その人は夕方まで汚れる。」(20節~23節)

本田神父も『釜ヶ崎と福音』108ページ〔岩波現代文庫版『釜ヶ崎と福音』では117ページ〕では、「女性の出産時の大量の出血、それも穢れと見なされた──いまでいえば、とんでもない差別ですけれども。」と書いています。

福音書の時代に旅人が泊まった宿屋は、現代でも山小屋や最も安い料金の船室などに見られるような形態、つまり大部屋に昼間の旅装のままで雑魚寝するような構造であったと考えられます。
もちろん二千年前の旅とは、現代人の旅のように着替えをたくさん持ち運んだり入浴やシャワーが当たり前だったりしていたわけでは、全くありませんでした。しかも季節は寒い冬だったのです。

着替えも体を洗うのもままならない状態のそんな宿屋の中でマリアが出産し、そこにレビ記15章の掟が適用された場合、出産したマリアと同じその部屋にいた人々もまた自ずと「汚れ」の状態と見なされてしまうことにもなりうるため、その宿屋が大騒ぎになってしまうことは容易に想像できます。
まさにそれゆえにこそ、一目見て明らかに出産間近の状態であったマリアはベツレヘムのどの宿屋からも宿泊を断られたのでしょう。

「もうすぐ出産しようとしている女性に対して、そんな杓子定規な対応を?」と現代人はだれしもそう思いますが、しかし当時はファリサイ派とか律法学者とか呼ばれる人々がモーセの律法を杓子定規に適用していた時代だったのです。だからこそ公生活中の主イエス・キリストはファリサイ派や律法学者たちを度々とがめられました。

つまり、マリアがベツレヘムで泊まる場所をどこにも見つけられなかった理由は、本田哲郎神父が邪推するようなものではなく、既にマリアが誰の目にも明らかに出産間近と分かるくらいまでお腹が大きくなっていた女性(妊婦)だったから、ということです。

(注)別エントリー「主の御降誕に助産婦が介在しなかった意味とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2544