【問】エゼキエルもダニエルも、「人の子よ」と呼ばれますが、「天から降(くだ)って来た者、すなわち人の子」とヨハネ3章13節は記します。
【答】古代のヘブライ語の「人の子」は単に「〔一人の〕人間」の意味でしたが、人となられた神の御独り子イエスが自称されたことで特別な意味が生じました。
【追記】
エゼキエルやダニエルが「人の子よ」と呼びかけられる時「人の子」は「人間(人類の一員)」という一般的な意味である。「人となられた神」が自称される時だけ「人の子」は神の称号としての意味を持つ。マタイ12章では「人の子」は主の人間としての側面を指し、「聖霊《神の霊》」の比較対象である。
ヨハネ1章14章は「言(ことば)は肉となって」と記し《人々と直にお話しになる、御子である神》主イエス・キリストが人間となられたことを記すが、10章30節では「わたしと父は一つ」と主は仰せになり、たとえ自分は人間(「人の子」)となっても同時に神は神のままであり続けることも示された。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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ダニエル7章は、天において《御父である神》が《御子である神》に全権を委任する光景(13節〜14節)を啓示する。このことを主イエスは四福音書の随所で繰り返し強調され(マタイ11章27節、同28章18節、ルカ10章22節、ヨハネ3章35節、同13章3節等)、「真理」とお呼びになった。
(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ12章32節で、御自分の人間としての側面(ガリラヤ人、大工など)に関して同時代の人々からとやかく言われてもそれは看過すると仰せになったが、神としての側面に関して難癖をつける(悪霊を追い出した神の霊つまり聖霊を、ベルゼブル呼ばわりするなど)なら看過されないと仰せになった。
(注)別エントリー「試論:『聖霊に対する冒涜』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ12章27節「わたしはまさにこの時(=御自身がゴルゴタにおいて十字架上に『上げられる《高い所に掲げられて顕示される》』御受難の時)のために来た」マタイ20章28節、マルコ10章45節「人の子は、多くの人々の身代金(=あがない)として、自分の命を献(ささ)げるために、来た」。
主はヨハネ3章14節で、モーセが荒れ野で「青銅の蛇」(民数記21章8節以下)を上げた(=高く掲げて顕示した)ことに言及された。御自身もやがて十字架上に上げられるが、それは旧約の民が「青銅の蛇」によって命を得たように、御自分の民が永遠の命を得るためである(コロサイ1章20節参照)。
(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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