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エルサレムがバビロンと呼ばれた理由

(以下、聖書の日本語訳は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によりますが、別の訳語を提示する場合は適宜説明を加えます)

【1】主イエス・キリストは、その公生活において、ある「都」の滅亡について幾度も予告されていた。それらは福音書に収録されている。いうまでもなく、その「都」とはエルサレムである。主イエス・キリストのエルサレム滅亡に関する予告は紀元七〇年に成就した。そしてヨハネの黙示録では「大淫婦」あるいは「大バビロン」と呼ばれる「都」の滅亡について預言されているが、その冒頭に「イエス・キリストの黙示」と書かれている以上、「大バビロン」また「大淫婦」と黙示録に言及されている「都」が福音書のエルサレムと重なるのは、当然である。逆にいうなら福音書において主イエス・キリストは、エルサレム以外の「都」の滅亡を予告されてはいない。だとすれば「大淫婦」「大バビロン」の候補筆頭は当然、福音書のエルサレムである。

【2】黙示録で「大淫婦」にたとえられた「都」が「大バビロン」とも呼ばれるのは、エレミヤ書50章と51章とでバビロンについて預言されている通りに、黙示録に登場するその「都」(ルカ福音書19章41節及び黙示録17章18節参照)が滅亡する定めだからである。黙示録11章8節には「その都は、比喩的にソドムとかエジプトとか呼ばれており、彼らの主もまた、そこで十字架につけられたのである」と書かれているが、「出エジプト」を成し遂げた人々が辿り着いて最終的に神殿(第一神殿)を築いた都がエジプトにたとえられるならば、その後「バビロン捕囚」から帰還した人々が神殿(第二神殿)を築いた都のことをバビロンにたとえることも不可能ではない。いうまでもなく主イエス・キリストが十字架につけられた「都」とは福音書のエルサレムに他ならない。なおゼカリヤ書2章11節においては、エルサレムの住民は「バビロンの娘」という表現を用いて呼び掛けられている。

【3】マタイ福音書6章24節「あなた方は神と富に仕えることはできない」あるいはルカ福音書16章13節「あなた方は神と富に兼ね仕えることはできない」の「富」を表現しているギリシア語(μαμωνᾶς – mamōnas)は、アラム語の「マンモン」を音訳(転写)したものだが、聖ヒエロニムスはアラム語のことを「カルデア語」と表現しており、カルデア人の首都がバビロンだった。そして「マンモン」に心奪われてしまった人々の都を黙示録はバビロンにたとえている。ローマ人の歴史家タキトゥスは二世紀初めの著作“Historiae”の第5巻8節において、紀元七〇年の滅亡以前にエルサレムの神殿が所有していた財産 ──つまり、「富」に関して、“immensae”(計測不能な)というラテン語で表現している(タキトゥス『同時代史』國原吉之助訳(ちくま学芸文庫)388ページでは「莫大な」)。黙示録18章3節では「大淫婦」「大バビロン」にたとえられる都に関連して「彼女の途方もない贅沢(ぜいたく)」という表現を用いている。

【4】黙示録16章19節には「あの大きな都は三つに割れ、諸国の民の町々は倒壊した。神は大バビロンを思い起こされた。ご自分の激しい怒りのぶどう酒の杯(さかずき)を飲ませるためであった」とあるが、紀元七〇年のローマ帝国による攻略を迎え撃つエルサレム市内は、三派が割拠した武装勢力によって支配され、市民たちをも巻き込み三派による血で血を洗う抗争が展開されていた。三派の指導者はそれぞれギスカラのヨハネ、シモン・バル・ギオラ、エレアザルであった。一方で、ユダヤ人の住む他の諸都市はローマ軍によって次々に陥落させられていた。また「神は大バビロンを思い起こされた」以降の部分は、「大淫婦」の末路が書かれた同じ黙示録の18章5節から8節においてより詳しく再現されている。黙示録16章19節に関連して、詩編60(59)編5節には、「あなたはご自分の民をつらい目に遭わせ、足をふらつかせる酒をわたしたちに飲ませられました」とある。この場合「ご自分の民」とは旧約の民のことである。

【5】続く黙示録16章21節には、「そして、一タラントンほどの重さの大きな雹(ひょう)が天から人々の上に降ってきた。人々は雹の災いのために神を冒瀆した。この災いがあまりにもひどかったからである」と書かれているが、紀元七〇年のエルサレム攻略戦において、難攻不落の要塞都市と化していた都を攻めあぐねたローマ帝国軍は事態を打開するため、城壁外から重さ一タラントン(約二五キログラム)もの石弾をエルサレム市内に向けて発射する投石機を使用し、降り注ぐ石弾は、都の人々に尋常ではない恐怖を与えた。知恵の書5章22節には「投石機からは怒りに満ちた雹(ひょう)が投げ打たれ」とあり、まさに投石機が発射する石弾を「雹」にたとえている。ここでもエルサレムと「大バビロン」そして「大淫婦」のイメージは重なるが、知恵の書5章では「雹」や「投石機」は、「正気を失った者たち」(20節)に対する主の「戦い」「復讐」のための「武装」(17節)に含まれている。

【6】エレミヤ書51章53節にはバビロンに関して「彼女がその高い要塞を強化しても」という記述があるが、前述のタキトゥスやユダヤ人の歴史家ヨセフスは紀元七〇年に滅亡したエルサレムが難攻不落の要塞都市と化していたことを書き残している。また同じ章の64節には「バビロンは沈み、二度と浮かび上がれない。わたしが下す災いのためである」とあるのを踏まえるならば、「大淫婦」と呼ばれた都が「バビロン」とも呼ばれた意味または理由として、一つはその都がもう二度と往時の繁栄を取り戻せないこと、またもう一つは同じ章の56節にある通りその都が神からの災い、言い換えれば神の「報復」のために滅亡すること、という二つの事柄が暗示されている。黙示録18章21節には「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはや決して見出されることはない」と書かれており、また同じ章の10節には「堅固な都バビロン」という表現が登場する(日本聖書協会新共同訳では「強大な都バビロン」)。

【7】イザヤ書47章でバビロンに対して使われたのと同じような表現が、哀歌ではエルサレムに対して使われている。また黙示録18章では「大淫婦」「大バビロン」に対しても用いられているが、黙示録の「わたしは、この女が、聖なる人々の血とイエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た」(17章6節)そして「預言者たちや聖なる人々の血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」(18章24節)等の記述からは「大淫婦」「大バビロン」と比喩的に呼ばれるその都では、旧約と新約の両時代で神から遣わされた人々が迫害され続けて来たということがうかがえる。それと同時に、黙示録17章4節の「黄金」「宝石」「真珠」「金の杯」などからは、「大淫婦」の「姦淫」が「富」への執着心と強く関連していることが暗示されている。たとえ神に選ばれた民であっても神に対する背信の度が過ぎれば滅亡する定めにある。旧約の民はバビロン捕囚すなわち第一神殿の滅亡の際、既にそれを一度、切実に経験している。

【8】創世記11章9節の「バベル」は、同10章10節にも登場する言葉だが、10章10節の「バベル(בבל – Babel)」は七十人訳ギリシア語聖書では「バビロン(Βαβυλὼν – Babulōn)」で、黙示録のギリシア語本文に登場する「バビロン(Βαβυλὼν – Babulōn)」と同じである。黙示録の「バビロン」のルーツは、創世記10章~11章の「バベル」ということになる。バルバロ訳聖書の注では11章9節の「バベル」について、「セム語の『混乱』に似た言葉であるが、語源は『神の門』ということばである。」と説明している。つまり黙示録における「バビロン」という大淫婦に対する表現は、それが元来は神のために選ばれた場所であったが最終的に混乱の都と化して滅亡することを、暗示している(「門」という言葉は、イザヤ書14章31節や詩編87(86)編2節またミカ書1章9節や哀歌4章12節あるいは創世記24章60節でも示唆されているように、門の存在する場所としての都市──すなわち都市そのものを連想的に表現する語としても用いられている)。神の住まわれる場所(神殿)はエルサレムにかつて存在した。

【9】黙示録17章5節「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」という表現と、18章7節「やもめではなく」という表現とは、イザヤ書50章1節「わたしが追い出したという、お前たちの母親への離縁状はどこにあるのか」という表現に対応する。「都」とそこに住む人々との関係が母子関係にたとえられているわけである。福音書では、しばしばキリストが「花婿」にたとえられ、それに対しキリストを待ち望む神の民が「花嫁」にたとえられるが、莫大な富と繁栄に酔い痴(し)れて「花婿」キリストを拒絶した「都」こそ、「大淫婦」と呼ばれるのに相応しい。黙示録18章23節にも「花婿」「花嫁」が登場し、24節には「預言者たちや聖なる人々の血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」とあるが、一方でルカ福音書13章33節には「預言者がエルサレム以外の地で死ぬことはありえないからである」と書かれている。ここでもまた「大淫婦」「大バビロン」とエルサレムが重なる。神と神の民との関係が「花婿」「花嫁」の関係にたとえられるからこそ、神に対する背信もまた「姦淫」「淫行」にたとえられるわけである。

【10】黙示録17章9節では「大淫婦」「大バビロン」に関連して「七つの山(山々)」という表現が登場する。この箇所は広く「七つの丘」と誤解されているが、原文のギリシア語表現や伝統的なヴルガタ訳のラテン語表現を確認しても、正しくは「七つの山(山々)」であって、「七つの丘」ではない。ルカ福音書3章5節や同23章30節では、「山」と「丘」とは明確に区別されており、また旧約聖書でも詩編・ヨエル書・アモス書・ナホム書・ハバクク書そしてイザヤ書では、ギリシア語七十人訳においてもラテン語ヴルガタ訳においてでも、「山」と「丘」とは明確に区別されている。詩編125(124)編2節からは古代のエルサレムが山々に囲まれて(守られて)いた都だったことが理解されるが、アポクリファのエズラ記(ラテン語)2章19節では、その山々の数が七つであったことが示唆されている。つまり、ヨハネの黙示録が書かれる以前のユダヤ教世界において「七つの山(山々)の都エルサレム」という認識が既に存在していたことが、この記述から明らかである。黙示録16章20節「山々は消え失せた」は、その箇所で語られている都が特権的に享受して来た神からの庇護が、滅亡の前には失われたことを暗示している。

【11】ルカ福音書21章20節以下では、紀元七〇年のエルサレム滅亡について語られているが、22節の「報復」はエゼキエル書16章38節の「(お前に)報いる」に対応し、「書き記されていることがすべて成就される、報復の時」という箇所が意味することとは、(紀元七〇年の)エルサレム滅亡をもって旧約聖書の全ての預言が成就し旧約時代が完全に終わりを迎える、ということである。そしてこの場合の「報復」は、黙示録19章2節の「神は、地上を姦淫で堕落させたあの大淫婦を裁き、僕(しもべ)たちの血の復讐を彼女にされたからである」という箇所とも対応している。ルカ21章21節において主イエス・キリストは、都エルサレムが包囲されようとしている時には都を脱出すべきであると警告され、また地方にいる人々は山に逃げるべきでエルサレムがいかに堅固な都であろうともそこに入って籠城すべきではないとも警告された。黙示録の18章4節ではその警告が繰り返されている(「わたしの民よ、彼女から逃げ去れ。それは、その罪に与(くみ)せず、その災いに巻き込まれないためである」)。「彼女」=「大淫婦(大バビロン)」とエルサレムとが、ここでも重なる。黙示録18章8節の「死と悲しみと飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされる」という「大淫婦」「大バビロン」の末路は、紀元七〇年のエルサレム滅亡の歴史的光景そのものであり、ルカ福音書の主イエス・キリストの御言葉ともよく符合している。

【12】黙示録21章には「新しいエルサレム」が神の栄光を帯びて現われることが書かれているが、それは必然的に「古いエルサレム」がその栄光を失って消え去ることを前提にしている。黙示録11章8節には「その屍は、大きな都の大通りにさらされる。その都は、比喩的にソドムとかエジプトとか呼ばれており、彼らの主もまた、そこで十字架につけられたのである。」とあるので、「そこ」つまり同節の「比喩的にソドムとかエジプトとか呼ばれ」ている都こそが、まさにその「古いエルサレム」のことだと同定できる。この「大きな都」という言い回しは、黙示録では11章8節のほか、16章19節、17章18節にも登場し、16章19節においては「あの大きな都」は「大バビロン」と重なるイメージであることが示され、また17章18節では大淫婦のことを「地上の王たちを支配する大きな都」と表現している。「古いエルサレム」すなわち紀元七〇年に滅亡したエルサレムと「大淫婦」とは、ここでもまたイメージが重なる。主イエス・キリストが十字架につけられた都エルサレムに対し、既にイザヤ書の1章と3章では比喩的にソドムと呼んでおり、エゼキエル書23章では「オホリバ」(4節)すなわちエルサレムに対し、「お前の不貞、エジプト以来の淫行」(27節)などと表現されている。そして同じエゼキエル書の16章の預言には、エルサレムの淫行がその来歴に遡って詳述されている。またイザヤ書1章やエレミヤ書2章と13章でもエルサレムの神に対する背信は淫行にたとえられ、滅亡に至る「古いエルサレム」と「大淫婦」すなわち「大バビロン」との共通点は枚挙にいとまがない。黙示録21章で「夫のために着飾った花嫁」(2節)と呼ばれた「小羊の妻である花嫁」(9節)である新しいエルサレムについて、「わたしは、この都の中に神殿を見なかった」(22節)と特筆されていること自体が、「大淫婦」そして「大バビロン」とまで呼ばれた都が以前に存在した神殿の所在地に他ならぬことを暗示している。なお、黙示録における「地上」という表現の「地」とは、20章でキリストの一千年間の統治が始まる以前は(つまり19章以前の記述においては)、ルカ福音書4章25節や同21章23節そしてローマ9章28節やヤコブ5章17節などの場合と同様、古い契約(旧約)における神の民の居住地(居住範囲、居住領域)すなわちユダヤ世界を指す(ダニエル書9章6節やバルク書1章9節も参照)。黙示録18章24節の「預言者たちや聖なる人々の血、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」の「この都で」と日本語訳されている箇所のギリシア語原文は「彼女において(εν αυτη – en autē)」という表現であるが、この場合の「〜において」は地理的な所在地というよりは、責任の所在(マタイ福音書23章35節〜37節やルカ福音書11章50節〜51節また黙示録16章6節などを参照)を意味している。黙示録17章5節には、「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」という表現があるが、既にゼカリヤ書2章11節ではエルサレムの住民は「バビロンの娘」という表現を用いて呼び掛けられている。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859