神の御独り子の母

聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方なのに、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と記した。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、どれほどであろうか?

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
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受胎告知に際し聖母マリアは「恵まれた方」と挨拶されたが、二ペトロ1章は信仰における神からの恵み(2節)の内容を5節以下で記し、信仰に始まり徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛に至るとして、恵みが加わるほど、「情欲に染まったこの世の退廃」(4節)や怠惰(8節)から遠くなると記す。

受胎告知の際マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは、

《〔神からの〕とめどもない好意を得た》

の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると比類のないこの《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する、恵みである。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の理由を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】無原罪の聖母マリアの祭日にエフェソ1章が朗読される理由は?
【答】ルカ1章28節では非常に特別な恵みを表すギリシア語が用いられますが、エフェソ1章6節では信者全般に同じ語が用いられます。聖母の場合と異なり、あくまで洗礼時の一度限りですが全信者は非常に大きな恵みを受けています。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:無原罪の御宿りを140文字以内で」も参照のこと。
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【問】マリアは受胎告知の時から「無原罪」になったのだと考えてはいけませんか?
【答】「無原罪」とは【存在の初めから常に悪魔の感化つまり罪や悪の影響とは全く無縁である】(創世記3章15節、黙示録12章)という意味ですので、生涯のある時点から「無原罪」になるという発想は意味がないです。

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど高慢心のかけらもない謙遜そのものの方であった。従って、高慢心との訣別こそが「聖母マリアへの真の信心」へと踏み出す最初の一歩であるのは、至極当然である。

主イエスはマタイ20章28節で御自分が人間となられた目的を「仕えられるためではなく仕えるため」と仰せになった。その三十年以上前、ルカ1章38節で救い主の母となることを告知された女性は「わたしは主のはしため」と答え、彼女が「救い主の母」という立場を的確に認識していることが記される。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないについて思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
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(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
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