主は「いつでも戸を開けられるように目を覚ましていなさい」と仰せになり、普段から心の準備をすることが弟子としての心構えであると教えられた。主の母親となるべき女性がその少女期、当時最もしかるべき教育の場であった神殿の聖所で奉仕の日々を送ったという概念は、極めて蓋然性の高い話と言える。
(注)別エントリー「試論:『準備しなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12580
(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5239
(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539
(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4759
【追記】
「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。