試論:詩編12編の意義を140文字以内で

詩編12編でダビデが歌った通り旧約の民は原則として、裏表(嘘偽り)のある人や言行不一致の人の中に信仰の存在を認めていなかった。マタイ7章21節の主イエスの仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入れるわけではない。わたしの天の御父の御心を行う人々だけが入れる」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はそこに「まこと」と平仮名を振る。ヘブライ語の「まこと」に対応しているためであり、主なる神が裏表や嘘偽りのない心を重視される方だからである。従って信仰とは疑う余地のない確信を指す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、

《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、

《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。

人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。

(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
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ローマ3章28節は「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」と記すが、30節では「神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とされ、割礼のない者をも、信仰のゆえに義とされる」と説く。つまり《人が義とされるのは割礼〔の有無〕によるのではなく、信仰による》の意味合いである。

【問】パウロは「人が義とされるのは、律法の行いによってではなく信仰によると、わたしたちは考える」と記しますが、どういう意味ですか?【答】「わたしが求めるのは憐れみでありいけにえではない」に従い、形式的な行為でなく、日々の具体的な憐れみの業(隣人愛)を神に献げなさいという意味です。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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