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「真理(まこと)の神」

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
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プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

主なる神がシナイ山でモーセに多くの戒めや掟をお授けになっている間、民は金の子牛の像を造りこれを自分たちの新しい神とし、勝手なふるまいをしたが、モーセは怒って掟の板を投げつけた。人々は神からの恩恵だけ望んで戒めや掟には目もくれないが、実は主からの戒めや掟こそが恩恵だとは気付かない。

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは御自分が「王」(マタイ25章34節)である理由を、ヨハネ17章2節で「あなた(=御父である神)は『子』(=主イエス御自身)に全ての人々を支配する権能をお与えになりました。それゆえ『子』はあなたから委ねられた人々全てに永遠の命を与えることができるのです」とお話しになった。

(注)別エントリー「試論:『わたしは門である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『命に通じる狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『隅の親石』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
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詩編43編3節は「あなたの光とまこと(真理)を遣わしてください」と歌う。ヨハネ1章4節は「神の御言葉(=主イエス)の中に命があり、命は人間を照らす光」と記す。同14章6節で主は「わたしは道・真理・命」と仰せになり、まさに御自分こそが詩編の「光とまこと」に他ならないと、宣言された。

(注)別エントリー「試論:『わたしは世の光である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:あなたがたは世の光って?を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ14章6節で「真理(アレテイア)」と自称されたが、ギリシア語訳のエレミヤ9章4節は「人は隣人を惑わし、『まこと(アレテイア)』を語らない」であり、エレミヤ9章で「まこと」に対置されているのは姦淫する者・裏切る者・偽り・悪・中傷・惑わし・悪事・欺き・殺し等々である。

主イエスは「わたしは真理」と自称されたが、ギリシア語本文で「真理」に当たる語はアレテイアである。古代のギリシア語訳旧約聖書でもアレテイアは数多く登場するが、日本語訳旧約聖書ではそれに当たる表現は、「まこと」である場合が多い。詩編40編12(11)節「慈しみとまことによって」等々。

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味するギリシア語アレテイアを多用する。主イエスはピラトの問いに対し御自分のことを王だとも神だともお答えにならず、ただ「真理」すなわち信頼すべき者だと宣言された。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちが他人からしてもらいたいと思うことは全て、あなたたちから他人にしなさい」と《愛の掟》を教えられて、「これこそ律法と預言者」と宣言された。これをパウロも「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼びモーセの律法と対比した。