ヤコブの手紙」カテゴリーアーカイブ

試論:マルコ4章25節を140文字以内で

【問】「持っていない人は、持っているはずのものまで取り上げられる」の意味は?
【答】マタイ18章33節〜34節「主君は怒って、『わたしがお前を憐れんだようにお前も仲間を憐れむべきではなかったか』と言い、主君からの憐れみは帳消しにされて、取り上げられた」。「主君」とは、神のことです。

【追記】

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じ道理である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ18章「仲間を赦さない家来のたとえ」には「牢役人」が登場し、5章でも人間関係がこじれて和解に至らない人が行く「牢」が登場するが、ここは「火の地獄」(22節)とは別物として扱われる。この牢は代償を払い続けることにより最終的に出ることができるが、ここをカトリックでは煉獄と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:黙示録の火の池を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ5章16節は「死に至らない罪」と「死に至る罪」があると説く。主イエスはルカ12章58節以下で「死に至らない罪」の人が行く期限付きの「牢獄」の存在を示唆された。この牢獄は主なる神が条件を満たしたと判断なさった時、そこから解放される。カトリックでは、この牢獄を《煉獄》と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:二種類の罪と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ12章32節は、主イエスの人間的属性だけを非難した者は赦されるが、主が聖霊によって悪霊を追い出したことを非難する者は赦されない、と記す。一ヨハネ5章16節以下も永遠の死に至る罪と死に至らない罪を分けて論じる。愛の掟に留まることを止める人(ヨハネ15章6節)が永遠の死に至る。

(注)別エントリー「試論:『ぶどうの木』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『聖霊に対する冒涜』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスがルカ11章で教えられた祈りの文言の中に「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも、自分に負い目のある人々を赦します」(4節)とあるが、その理由を主は、マタイ18章の「仲間を赦さない家来のたとえ」で御説明された。同章35節「あなたが心から兄弟を赦さないなら御父も〜」。

(注)別エントリー「試論:『仲間を容赦しない家来』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスのたとえには様々な人物が登場するが、他人を引き合いに出して自己正当化したり自分のことを棚に上げて他人を攻撃したりする「他人に厳しく自分に甘い人」に対しては、神からの視線は非常に厳しい。しかし他人に責任転嫁せず正直に自分で自分の非を認める人に対しては、神からの視線は優しい。

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヤコブ5章9節に「自分が裁きを受けないようにするには互いに不平を言い合わないことです」とあるが、これはマタイ7章1節〜2節「他人を裁くな。自分が裁かれないようにするためである。あなたがたは自分が他人を裁く流儀で裁かれる」とは同じ事柄であり、マタイ6章14節〜15節とも同じである。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ18章21節以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」で、一人一人が他人を裁くその同じ基準(了見)で、神もまた一人一人をそれぞれ裁かれることをお教えになった。これは、基本的には7章で既に仰せになった事柄であり、「あなた自身が裁かれないようにするためにも、他人を裁くな」。

(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『慈悲は裁きの上にある』を140文字以内で」も参照のこと。
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たとえ過失を犯した人が将来を案じ利己的な動機に基づいて他人の負い目を容赦したとしても、人が他人の負い目を容赦する行為それ自体には神は賛同される(ルカ16章1節以下)が、人が他人の負い目に厳しく臨むならば、神も一度与えた容赦を撤回してその人に厳しくされる(マタイ18章21節以下)。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ31章33節では救い主が「御自分の律法」をモーセの律法に替えて人々に授けると預言し、続く34節では救い主は人々に赦しを与える存在と預言する。主イエス・キリストは、ルカ7章48節に見られるように人々に赦しをお与えになり、また御自分の律法(マタイ7章12節)をお授けになった。

(注)別エントリー「試論:『主によって教えられる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:キリスト教の基礎を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『救い主と赦し』預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19009

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541