1783年の有人気球飛行実験以前、人類にとって高度数百メートルの上空は「大空」であった。しかし有人気球で人類がそこに到達すると気球に乗っている人間にとって、そこは大空というよりむしろ「空中」となった。こうして18世紀後半以降、科学技術の発達とともに「空中」の領域は著しく拡大した。
(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:十分の一献金がNGの理由を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「ヘブライ語聖書は『空中』とは表現しない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
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【追記】
ヘブライ語旧約聖書本文には「空中」という表現が存在しない。現代人ならば「空中」と表現する領域に言及する際、ヘブライ語聖書は「地と天の間」(歴代誌上21章16節、エゼキエル8章3節、ゼカリヤ5章9節)等と表現する。ヘブライ人は創世記1章6節以下の記述に基づく世界観に立つためである。
(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
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一テサロニケ4章17節やエフェソ2章2節でパウロは、「空中」と一般的に訳されるギリシア語「アエール」という表現を用いているが、この古代の言葉は「地上界」を象徴する元素を意味し、「アエール」の英訳語「エアー」が現代人のイメージする「空中」を指すようになるのは18世紀後半以降である。
本来「空中」と「大空」は別物で、例えば父親と幼児が向かい合って立ち幼児がその場でジャンプした時、幼児は「空中」にいても地上に立つ父親の身長には届かない。熱気球の有人飛行成功まで「空中」は、地上から両足が離れたとしても高度はさほどない状態を指し、「大空」と混同されることはなかった。
17世紀までに成立した英訳聖書の一テサロニケ4章17節にある、
”in the air”
という表現が、現代人のイメージする「空中」の意味で用いられ始めるのは、18世紀後半の有人気球飛行実験成功以降のことで、この時系列を理解するなら19世紀以降に始まる「携挙」の概念には惑わされない。
ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。
紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子とともに奴隷とされて売り飛ばされた。こうして、「一人は連れて行かれ、一人は残される」は現実となった。
プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。
主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。
(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『十分の一献金』なる虚構を140文字以内で」も参照のこと。
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ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。
(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
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ヘブライ語聖書に「空中」という表現は存在せず、古代のヘブライの世界観には「空中」の概念がない。故に一テサロニケ4章17節を根拠に「〔空中〕携挙」の概念を受容するならばヘブライの世界観には立っておらず、逆にヘブライの世界観に立つならば「〔空中〕携挙」の概念を受容することはできない。