マタイ福音書では「天の国は近づいた」と三度(3章2節、4章17節、10章7節)言われるが、6章10節(「主の祈り」)では「御国が来ますように」の次は「御心が行われますように」となる。だとすれば、「天の国は近づいた」の次に続く言葉は「天の父の御心が地の上で行われる時が来た」である。
(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16763
【追記】
主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427
(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433
(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334
主はマタイ4章17節で「天の国は近づいた」6章10節で「御国が来ますように」さらに12章28節で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ている」と教えられ、神の御心が天に行われる通り地上でも行われる状態そのものこそ神の国の到来だと説明された。
(注)別エントリー「試論:無千年王国説を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4675
マタイ11章12節「天の国は力ずくで襲われ」の本文で用いられた動詞は古代のギリシア語創世記33章11節「しきりに勧め」と同じで、「ヨハネの活動開始以後、天の国から地上の人々への積極的な働き掛けが目覚ましく、招きに積極的に応じた大勢の人が天の国に入ろうとしている」という意味である。
(注)別エントリー「試論:『選んだのは、どっち?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6623
(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296