試論:無原罪の御宿りって何??を140文字以内で

主イエス・キリストが救い主(ルカ福音書2章11節)として到来された理由(目的)とは「自分の民を罪から救う」(マタイ福音書1章21節)ためなので、「救い主の母」となるべき女性が、《彼女の存在の最初の瞬間から常に、罪や悪とは完全に無縁である》べきという概念は、論理的に当然の話である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

【問】マリアは受胎告知の時から「無原罪」になったのだと考えてはいけませんか?
【答】「無原罪」とは【存在の初めから常に悪魔の感化つまり罪や悪の影響とは全く無縁である】(創世記3章15節、黙示録12章)という意味ですので、生涯のある時点から「無原罪」になるという発想は意味がないです。

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、救い主の母となった女性がそれだと啓示された。救い主は、人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が、存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは、当然である。

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
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エバもアダムも蛇つまりサタンにだまされてしまったにせよ、神に創造された時点では当然サタンの感化を受けていなかった。同様にマリアも受胎告知の際もし少しでも「神のようになること」を望む下心があれば心の隙をサタンにつけ込まれていたはずだが、「主のはしため」を自称することで、難を逃れた。

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
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カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないに関して思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
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(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
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主は「いつでも戸を開けられるように目を覚ましていなさい」と仰せになり、普段から心の準備をすることが弟子としての心構えであると教えられた。主の母親となるべき女性がその少女期、当時最もしかるべき教育の場であった神殿の聖所で奉仕の日々を送ったという概念は、極めて蓋然性の高い話と言える。

(注)別エントリー「試論:『準備しなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】マラキ3章19節は高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章38節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ福音書1章の「受胎告知」の際、自由意志によるマリアの承諾を得た後に、み使いガブリエルは去った。おとめマリアの承諾がなければこの世界に救いはもたらされずマリアなくしてキリスト教自体も存在しないのだから当然、「救い主」を信じる人々全てが「救い主の母」マリアを崇敬すべきなのである。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
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聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど謙遜そのものの生涯であり、ただの一度も主イエスの前で出しゃばることがなかったゆえに「へりくだる者は高められる」(ルカ14章11節)の通りに崇敬を集めた。

主イエスはマタイ20章28節で御自分が人間となられた目的を「仕えられるためではなく仕えるため」と仰せになった。その三十年以上前、ルカ1章38節で救い主の母となることを告知された女性は「わたしは主のはしため」と答え、彼女が「救い主の母」という立場を的確に認識していることが記される。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823