主イエスはマタイ8章11節で異邦人の百人隊長の信仰を称賛され、アブラハムやイサクやヤコブと天国の福楽を共にする時が来ると仰せになった。アブラハムとイサクとヤコブはマタイ22章では、「生きている者」すなわち永遠の命が約束されている人々の代表として出エジプト3章同様に言及されている。
(注)別エントリー「試論:『サドカイ派』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:新しい天・地・エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
バビロン捕囚からの解放後、ユダヤ人は引き続きペルシアの統治下に組み込まれたが、エステル1章にある通り、ペルシア王は自分の莫大な富と権力を誇示するため都に住む民を皆、身分の上下を問わず宴に招いた(6節)。マタイ22章の「婚宴」とは、神が民を天の国に招かれて喜びを共にすることである。
(注)別エントリー「『婚宴帰りの主人』=『御復活の主』」も参照のこと。
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マタイ8章で異邦人の百人隊長は「行けと言われれば行きます。来いと言われれば来ます。やれと言われればやります」と答え主は「イスラエルでもこれほどの信仰はない」と感心された。マルコ7章の通り、当時のイスラエルでは元々の指示がないがしろにされ指示とは違うことが実行されていたからである。
(注)別エントリー「試論:マルコ7章のファリサイ派を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ8章で異邦人の百人隊長は、「行け」「来い」「これをしろ」と仰せられた事柄がその通り実現されていくことが信仰の本質であるという趣旨の答えをして、主イエスを感心させた。マタイ1章から2章でヨセフは、幼子イエスとマリアに対して、全てをまさに仰せの通りに実現させたのではなかったか?
(注)別エントリー「試論:『三人家族の三番目』を140文字以内で」も参照のこと。
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