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イエス・キリスト石切説が否定される理由

(1)聖ヨセフや主イエス・キリストの職業は、マタイ福音書13章55節及びマルコ福音書6章3節ではテクトーンというギリシア語で表現されており、同じ単語は七十人訳ギリシア語旧約聖書のエレミヤ書10章3節にも登場するが、エレミヤ書10章3節にはそのテクトーンという職業が材料としているものは、森から切り出された木であることが書かれている。すなわちテクトーンはこの場合、木工を意味している。

(2)テクトーンと別に、「石切」を意味するギリシア語としてラトモスという単語が存在する。実はこのラトモスは「石」を意味する単語と「切る」を意味する単語とに由来する合成語であり、このラトモスという職業こそが、まさに本田哲郎神父が持論とする「石切」そのものである。七十人訳の歴代誌下24章12節ではラトモスとテクトーンが区別されて並記されており、両者は基本的に別の職業であると考えるのが自然であって、ラトモスという単語自体に「石」という意味合いが内包されている以上、「石」を専門に扱うラトモスと、エレミヤ書10章のように「木」を素材とするテクトーンとが混同されることはありえない。そして新約聖書全体を通して、このラトモスというギリシア語は一度たりとも登場せず、従って主イエス・キリストや聖ヨセフとは全く関係がない。

(3)七十人訳の歴代誌下34章11節の中では、テクトーン(新共同訳の「職人」)及びオイコドモス(新共同訳の「建築作業員」)が、神殿修理のための「切り石」を献金で買っている。この場合、テクトーンは自分たちでは「石切」の作業を行なっておらず、購入された「切り石」に関しては、その前に「石切」の作業を行なっていた人々がまた別に存在した、ということになる。同じ歴代誌下の中でそれを行なっていた職種の人々を探すと、歴代誌下2章の二か所で「石を切り出す労働者」がラトモスというギリシア語で登場することが分かる。すなわち、このラトモスこそが、「石切」を指す本当のギリシア語に他ならない。

(4)本田哲郎神父は著書『聖書を発見する』89ページにおいて、「採石労働者」を意味しているホツビームというヘブライ語を紹介しているが、旧約聖書中でこの表現が使われる八か所について、七十人訳聖書ではどのようなギリシア語に翻訳されているかを調べたところ、主イエス・キリストや聖ヨセフの職業であるテクトーンに訳されている箇所は実は一か所もなく、七か所でラトモス、残る一か所ではオイコドモイ・リトーン(石を扱う建築作業員)となっている。従って本田神父がヘブライ語のホツビーム(採石労働者)という単語をいくら持ち出したところで、それはテクトーンとは関係なく、イエス石切説の根拠には少しもならない。ギリシア語のテクトーンに対応しているヘブライ語は一般にハラシーム(職人)であリ、ホツビームではない。

(5)七十人訳聖書の歴代誌上22章15節では石を扱う建築労働者がオイコドモイ・リトーンと表現されているのに対し、木工職人だけはテクトネス・クシュローン(木を扱う職人)という表現で、テクトネスすなわちテクトーンという言葉が使われている。前後に登場する様々な職種の中でテクトーンと表現されるのが木工だけであるという事実は、言い換えればテクトーンという職業が「木」と関連が深いことを示している。つまり七十人訳の歴代誌上22章15節では石を扱う建築作業員をオイコドモスと表現している一方で、木工職人に対してはテクトーンと表現しているわけである。

(6)マタイ福音書やマルコ福音書にラトモスという単語自体は登場しないが、そこから派生した表現すなわち、ラトモスの動詞形のラトメオーを用いた表現が両方の福音書に登場する(マタイ27章60節「エラトメーセン(掘った)」、マルコ15章46節「レラトメーメノン(掘って作った)」)ことから、両福音書の著者たちは当然ラトモスという単語を知っていたと考えられ、イエスやヨセフが本当に石切であったとしたら、テクトーンではなくて、ラトモスという表現を使って福音書に書いていたはずであるが、にもかかわらず、実際にはテクトーンという表現が用いられている。

(7)七十人訳聖書の中で、テクトーンという表現はアポクリファを含めておよそ三〇か所に登場するが、「木のテクトーン(五か所)」「鉄のテクトーン(二か所)」「銅のテクトーン(一か所)」「石のテクトーン(一か所)」など、その職業が扱う材料は多様と考えられる一方で、「鉄」「銅」「石」に比べ、明らかに「木のテクトーン」が登場する回数が多く、それ以外にも、文脈から「木」を材料としていることが明らかな箇所が、前述のエレミヤ書10章3節を含めると少なくとも四か所あり、従来からの多くのギリシア語の辞書が記述している通り、このテクトーンという単語が第一義的に「木」と関連した職業であることは自明である。

(8)サムエル記下5章11節には「木のテクトーン」と「石のテクトーン」の両方が登場するが、「石のテクトーン」の元となったヘブライ語の表現を見ると、「石の壁のためのハラシーム(職人)」となっており、山の中の採石場で石材の調達のために働くホツビーム(採石労働者)と、神殿など実際の建設現場で調達された石材を使って建築に当たるハラシームとでは、働く場所も仕事の内容も明らかに異なる。ゆえに、「石のテクトーン」の記述は「石切」説を肯定する根拠にはなりえず、むしろ逆に否定する根拠となりうる。

(9)本田哲郎神父は「家を建てる人としてギリシア語にはオイコドモス(オイコ=家、ドモス=建てる)という単語が存在する」と主張するが、テクトーンはあくまでも第一義的には木工職人であり、当時のパレスチナの家の建材として主に煉瓦や石が用いられ木は稀であったことを考慮すると、テクトーンは木造建築(木造部分)だけに関与し、それ以外の建築はオイコドモスと呼ばれる人々が行なった、と考えるならば矛盾はない。七十人訳聖書のテクトーンに関する記述(特に前述の歴代誌上22章15節)もそれを裏付けている。たとえ当時の「家を建てる人」がオイコドモスだったとしても、それはテクトーンを「石切」だとする根拠には全くならない。繰り返し強調するが、七十人訳の歴代誌上22章15節では、石を扱う建築作業員に対してオイコドモスと表現している一方で、木工職人に対してだけはテクトーンと表現している。