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試論:いわゆる千年王国説の誤りを140文字以内で

【問】いわゆる千年王国説はなぜ誤りなのですか?
【答】キリストの王国は新約聖書本文ではバシレイアという語で表現されますが、主イエスはルカ11章20節で御自分が地上におられる時点でバシレイアが存在し始めていると示唆され、そしてダニエル7章27節はその王国が永遠に続くと預言しています。

(注)別エントリー「『神の指』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19346

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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【追記】

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「試論:キリストの『バシレイア』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:新しい天・地・エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録5章10節は、「小羊」主イエスに忠実な弟子たちが王となり地上を統治すると啓示する。その理由の一つは彼らが「最も偉い者は皆に仕える者」(マタイ23章11節)という主の仰せに忠実だからであり、一つはローマ5章12節以下の通り、サタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからである。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:小羊の弟子が王となる条件を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ4章17節で「天の国は近づいた」6章10節で「御国が来ますように」さらに12章28節で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ている」と教えられ、神の御心が天に行われる通り地上でも行われる状態そのものこそ神の国の到来だと説明された。

(注)別エントリー「試論:『天の国』は今どこに??を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ福音書では「天の国は近づいた」と三度(3章2節、4章17節、10章7節)言われるが、6章10節(「主の祈り」)では「御国が来ますように」の次は「御心が行われますように」となる。だとすれば、「天の国は近づいた」の次に続く言葉は「天の父の御心が地の上で行われる時が来た」である。

聖パウロはガラテヤ5章で、聖霊に由来する賜物と聖霊とは無縁の業(すなわち人間由来の悪)について説明したが、天の国とはもとより人間由来の悪など入り込む余地のない場所である。つまりガラテヤ5章の19節〜21節にあるものは全く存在せず、22節〜23節にあるものしか存在しない場所である。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
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(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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主イエス・キリストは、御自分に向かって「主よ、主よ」(マタイ7章21節)と言う者が「天の国」に入れなくなってしまう場合の理由として、「不法を働く」(23節)「不義を行う」(ルカ13章27節)を挙げられて、「狭い門」「命に通じる門」(マタイ7章13節、14節)の意味を御説明された。

(注)別エントリー「試論:『狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしは命』?を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」(3節)また「自分を低くして子供のようになる人が天の国では一番偉い」(4節)と仰せになられ、「心を入れ替える」「自分を低くする」の二つが子供のようになるために必要な事柄であると説かれた。

(注)別エントリー「試論:『十字架が象徴するもの』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:キリスト教の日々の十字架を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7590