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善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは

(以下、聖書の日本語訳は、注記がない場合は基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』〔サンパウロ〕によりますが、必要に応じて他の日本語訳も適宜、引用します)

ルカ福音書10章の30節以下には、有名な「善きサマリア人」のたとえ話のエピソードがある。

この箇所では、まず25節で「律法の専門家」が主イエス・キリストに「永遠の命」を得る方法について質問をする。

◯ルカによる福音書10章25節(フランシスコ会訳)
「すると、一人の律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして尋ねた、『先生、どうすれば、永遠の命を得ることができますか』。」

それに対して26節で主イエス・キリストは、逆に、「『律法』(いわゆるモーセ五書)の記述」と「『律法の専門家』自身の見解」に関して、質問を返されたのである。

◯ルカによる福音書10章26節(フランシスコ会訳)
「そこで、イエスは仰せになった、『律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるのか』。」

続く27節で「律法の専門家」は、申命記6章5節の「神への愛の掟」とレビ記19章18節の「隣人愛の掟」の二か所を引用してイエスに答え、それに対して、28節でイエスは、その答えが正しいことを「律法の専門家」に伝えられた。そして、その二つの掟を実行することこそが「永遠の命」を得るための方法であると、イエスは教えられたのである。

◯ルカによる福音書10章27節~28節(フランシスコ会訳)
「すると、彼は答えた、『<心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛せよ。また、隣人をあなた自身のように愛せよ>とあります』。イエスは仰せになった、『あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、生きるであろう』。」

この25節から28節までの遣り取りは、マタイ22章34節から40節までの遣り取りやマルコ12章28節から34節までの遣り取りと基本的には同じもので、恐らく当時の律法学者たちにとっては、これから議論する相手となる人物の真価を見極めるための、ある意味で「定番」となる「試金石」的な問答だったと考えられる。

もちろん、この問答はイエスの側から見ても相手が信用できるか否かを見極める「試金石」だったはずで、この「律法の専門家」の適切な答えに対しては、主イエス・キリストは悪い印象を持たれなかったと思われる。

ところが、この「律法の専門家」は、さらに次の29節で、「隣人愛の掟」に関連して、この律法の「隣人」とは具体的には自分自身にとって誰のことを指すのかと、イエスにあえてもう一歩踏み込んで質問し、この質問によってイエスから、30節以降で語られる「善きサマリア人のたとえ話」を引き出したのである。

◯ルカによる福音書10章29節(フランシスコ会訳)
「すると、彼は自分を正当化しようとして、イエスに『わたしの隣人とは誰ですか』と言った」

この「善きサマリア人のたとえ話」自体は、あまりにも有名なものである。

ただし、ここで問題にしたいのは、29節で「律法の専門家」がもう一歩踏み込んだ質問をあえてイエスにした動機に関してである。

フランシスコ会訳は動機に関して、「彼は自分を正当化しようとして」と表現している。
日本聖書協会新共同訳も同じく、「彼は自分を正当化しようとして」である。
講談社バルバロ訳では、「彼は自ら弁明しようとして」という本文の表現で、欄外の注には「先の問題を提出したことを弁明しようとした。」と書かれている。
中央出版社E・ラゲ訳では、「しかるに彼自ら弁ぜんと欲して」とある。

この箇所の原文で、実際に用いられているギリシア語の動詞は「ディカイオオー(δικαιοω – dikaioō)」であり、マタイ1章19節で聖ヨセフの人となりを端的に表現している「ディカイオス(δικαιος – dikaios)」の関連表現であるが、聖ヨセフに関しては一般に「正しい人」あるいは「義人」などと日本語で表現されている。

よって、このギリシア語は、「見せかけの正しさ」「うわべだけの義(ぎ)」というニュアンスには本来なじまない性質の表現である。
むしろ、「神の目に適った正しさ」「神の義」といった観点で解釈した方が適当だと考えられる。

そこで、この動詞「ディカイオオー」について、聖書の他の箇所ではどのような用例であるのかを検索すると、古代のギリシア語訳聖書(七十人訳)のイザヤ53章11節でも登場することが確認できる。
フランシスコ会訳では「わたしの正しい僕(しもべ)は、多くの者を正しい者とする」という表現になっている箇所である。
新共同訳では、「わたしの僕(しもべ)は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」という表現になっている。

つまりイザヤ53章のこの箇所では、「正当化」や「弁明」というよりは、むしろ<義化>と表現すべき事柄に関して、語られている。
そして、この箇所の「正しい人」とは、あくまでも「神の目に適った正しい人」「神の義に沿った正しい人」の意味合いである。

このイザヤ53章11節を踏まえて考えるならば、ルカ10章29節で、あえてイエスにもう一歩踏み込んだ質問をした「律法の専門家」の動機は、「自分自身が神の目に適った正しい者とされるために」すなわち「自分自身が神によって義とされるために」さらに意訳すれば「今よりももっと神の義に近づくために」あるいは「もっと神のおぼしめしを正しく理解するために」等々のものであった可能性も、十分にあり得る。

マルコ12章28節から34節までの遣り取りからも分かることであるが、当時「律法の専門家」つまり律法学者と呼ばれていた人々の全員がイエスに敵意を抱いていたわけではなかった。
むしろイエスに対して密かに同情を寄せる律法学者たちも、決して多数派ではなかったにせよ、稀ではなかったとさえ考えられる。

現代の読者にとっては、「ファリサイ派」と同様「律法学者」も<キリストの敵>というイメージが強いけれども、本来「祭司」や「預言者」などと同様に「律法学者」もまた、古代のイスラエルでは、神のために働いて一般大衆を神に導く人々の中に入っていたはずである。

ルカ10章29節で主イエス・キリストに質問した「律法の専門家」は、別にイエスに敵意や悪意を抱いていたわけではなく、イエスに罠を仕掛けようとしていたわけでもなく、ただただ純粋に、「神の義」へもっと近づくために、イエスに教えを乞いたいだけだったようにも思われる。

「隣人愛」に関して単なる知識としてではなくて、神に喜ばれて「永遠の命」への道となる<より実践的な隣人愛>とは何なのかを虚心坦懐に追い求める目的で、この「律法の専門家」はイエスに踏み込んだ質問をしたわけである。

◯ルカによる福音書10章30節~37節(フランシスコ会訳)
「イエスはこれに答えて仰せになった、『ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗に襲われた。彼らはその人の衣服をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにして去っていった。たまたま、一人の祭司がその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。また、同じように、一人のレビ人がそこを通りかかったが、その人を見ると、レビ人も道の向こう側を通っていった。ところが、旅をしていた、一人のサマリア人がその人のそばに来て、その人を見ると憐れに思い、近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をした。それから、自分のろばに乗せて宿に連れていき、介抱した。翌日、サマリア人はデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿の主人に渡して言った、<この人を介抱してください。費用がかさんだら、帰ってきた時には支払います>。さて、あなたは、この三人のうち、強盗に襲われた人に対して、隣人となったのは、誰だと思うか』。律法の専門家が、『憐れみを施した人です』と言うと、イエスは仰せになった、『では、行って、あなたも同じようにしなさい』。」