神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。
(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしの軛は〜』?を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主イエスはルカ11章46節では「背負い切れない重荷を他人に負わせるが自分自身は指一本触れようともしない」マタイ11章30節では「わたしの荷は軽い」と仰せになった。ファリサイ派と律法学者とはモーセの律法に「人間の言い伝え」を上乗せしたが、主イエスはマタイ7章12節に全て要約された。
(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエス・キリストはマルコ7章の最初の部分でファリサイ派の最大の問題点を指摘された。それは彼らが「言い伝え」を過度に重視していることで、本来モーセの律法に対して副次的存在だった「言い伝え」がいつしか律法と同等以上にまで扱われ、しかも隣人を圧迫するための口実と化していた事実である。
(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
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主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。
(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはルカ11章42節以下で、神から与えられた律法に人間が自分たちの掟(昔の人の言い伝え:マルコ7章3節)を付け加え続けても、最も肝心な神への愛と隣人愛から思いが遠のくだけならば何の意味もないと教えられた。聖書の「正義」つまり神の義とは隣人愛や憐れみの業と事実上、同義である。
(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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福音書の時代、イエスを救い主と認めて信じた人々がいる一方で、「ガリラヤ人」「大工の子」「大食漢で大酒呑み」「徴税人や罪人の仲間」と嘲っていた人々もいた。相手を侮ったり色眼鏡で見たり揚げ足を取ろうとしたり冷笑してやろうと待ち構えたりする人々の目にはいつまでたっても神の姿は映らない。
(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編15編3節は、神なる主と同じ住まいで暮らす人の条件として、周囲に対して中傷をせず、害を及ぼさず、小馬鹿にした態度を取らないことを挙げ、また2節では完全(=無垢)で、義を行うことを挙げる。主イエスの同居家族として、ヨセフが幼子や幼子の母を困らせる行動に出た可能性は皆無と言える。
(注)別エントリー「試論:『幼子と女性を尊重する』を140文字以内で」も参照のこと。
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