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婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情

(以下の聖書からの引用は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によりますが、その他の聖書から引用する場合は、その都度、適宜その旨を付け加えます。また聖書ギリシア語は、適宜ラテン文字転写して提示します。)

マタイ福音書1章では、婚約者マリアの妊娠を知った後のヨセフの心情と態度について、次のように記述している。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

◯マタイによる福音書1章18節~21節(フランシスコ会訳)
「イエス・キリスト誕生の次第は次のとおりである。イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身籠(みごも)っていることが分かった。マリアの夫ヨセフは正しい人で、マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。ヨセフがこのように考えている(enthymēthentos)と、主の使いが夢に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎え入れなさい。彼女の胎内に宿されているものは、聖霊によるのである。彼女は男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。その子は自分の民を罪から救うからである』。」

20節の「考えている」という日本語に対応している原文のギリシア語は、「エントゥメオマイ」(ἐνθυμέομαι – enthumeomai)という動詞になる。

フランシスコ会訳の20節で「考えている」という日本語になっている箇所に関して、カトリック教会に関係している他の日本語訳聖書ではどうなっているのか、次に列挙してみる。

◯新共同訳『聖書』(日本聖書協会)マタイによる福音書1章20節より
「このように考えている(enthymēthentos)と」

◯バルバロ訳『聖書』(講談社)マテオによる福音書1章20節より
「彼がこうしたことを思い煩(わずら)っていた(enthymēthentos)とき」

◯E・ラゲ訳『新約聖書』(中央出版社)マテオ聖福音書1章20節より
「これらのことを思いめぐらす(enthymēthentos)おりしも」

これらの記述から、問題の聖書ギリシア語の動詞「エントゥメオマイ」(ἐνθυμέομαι – enthumeomai)をそれぞれの日本語訳はどのように解釈しているのかを比較してみると、

「考える」(フランシスコ会訳、新共同訳)

「思い煩う」(バルバロ訳)

「思いめぐらす」(ラゲ訳)

などとなっている。

すなわち、これらの日本語訳において、このギリシア語は、「熟考」「熟慮」といったニュアンスで表現され、解釈されているが、バルバロ訳においてのみ、後述する申命記21章にも通じる別のニュアンス──すなわち「思い煩い(あるいは煩悶)」が幾分含まれているように感じられる。

次に、この問題のギリシア語「エントゥメオマイ」(ἐνθυμέομαι – enthumeomai)が、聖書の他の箇所ではどのように用いられているかについて、新約聖書及び古代のギリシア語旧約聖書である七十人訳聖書から、以下に提示する。

なお、旧約聖書の日本語訳はフランシスコ会聖書研究所訳によるが、このフランシスコ会訳の底本はあくまでもヘブライ語旧約聖書『ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア』であって、七十人訳聖書ではない。念のためにこのことを書き添えておく。

◯創世記6章5節~7節(フランシスコ会訳)
「主は、人の悪が地上にはびこり、その心の思いが絶えず悪いことにばかり傾いているのをご覧になって、地上に人を造られたことを悔(く)やみ(enethumēthē)、心を痛められた。主は仰せになった、『わたしが創造した人をはじめ、家畜、地を這(は)うもの、空の鳥までも、地の面(おもて)から滅ぼそう。それらを造ったことを悔いている(ethymōthēn)から』。」

この箇所では、問題のギリシア語は「悔やむ」として、「後悔」を意味するものとして用いられている。また、その「後悔」が「心の痛み」を伴うものであることが文脈より理解できるのと同時に、「地の面から滅ぼそう」という意向にもつながることから、その「後悔」が、心の裡に秘めた怒りや憤慨の念とも表裏のものであることも理解できる(後述)。

もしも仮に、マタイ1章20節の問題の箇所を、創世記6章の古代ギリシア語訳と同じように解釈するならば、

「ヨセフがこのことで後悔していると」

あるいは、

「ヨセフがこのことで後悔し、心を痛めていると」

などという日本語訳になる。

いうまでもなく、「このこと」とは婚約者マリアの妊娠(の発覚)であり、何についての「後悔」かといえば、むろん「マリアとの婚約」ということになる。

注目すべき点は、古代のギリシア語訳旧約聖書の創世記6章で人類の堕落をご覧になった主なる神の心情を表現する動詞と、マタイ福音書1章で婚約者の妊娠を知ったヨセフの心情を表現する動詞が、一致することである。

◯申命記21章10節~13節(フランシスコ会訳)
「あなたが敵に向かって戦いに出ていき、あなたの神、主がその敵をあなたの手に渡され、あなたが捕虜を捕らえたとき、その捕虜の中に美しい容姿の女を見、彼女に心ひかれて(enethumēthēs)自分の妻にしようとするなら、その女をあなたの家に連れていきなさい。彼女は髪を剃り、爪を切り、捕虜の服を脱いで、あなたの家に住み、自分の父母のために一か月間、嘆き悲しまなければならない。この後、あなたは彼女の所に入って、彼女の夫となり、彼女はあなたの妻となる。」

この箇所では、問題のギリシア語は「心ひかれる」と、「執心」や「心がとらわれた状態」を意味するもの、あるいは、「心を奪われて我を忘れる」を意味するものとして、用いられている。

仮に、マタイ1章20節の問題の箇所を、申命記21章の古代ギリシア語訳と同じように解釈するならば、

「ヨセフの心がこのことにすっかりとらわれていると」

または、

「ヨセフの心の中がこのことでいっぱいになっていると」

もしくは、

「ヨセフがこのことで思いつめていると」

あるいは「放心、茫然自失」というニュアンスの意訳として、

「ヨセフがこのことですっかり魂を抜かれたようになっていると」

または、

「ヨセフがこのことで腑抜けのようになってしまっていると」

という日本語訳になる。

この場合も、むろん「このこと」とは、婚約者マリアの妊娠(の発覚)である。

そしてさらに、創世記6章6節に登場するこの問題のギリシア語「エントゥメオマイ」(ἐνθυμέομαι – enthumeomai)の関連表現として、続く7節には「トゥモオー」(θυμόω – thumoō)という動詞が登場するが、この動詞はマタイ福音書2章16節で、ヘロデ王が怒ったことを表現したのと同じ単語であった。
(ただし、七十人訳の異本には、7節の動詞として別の表現「メタメロマイ(metemelēthēn)」や、6節に合わせて「エントゥメオマイ(enethumēthēn)」を用いているものも、存在するようである。)

(注)別エントリー「ユダは自殺の前に『メタノイア』したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1667

◯マタイによる福音書2章16節(フランシスコ会訳)
「さて、ヘロデは博士たちに欺かれたことと知って、非常に怒った(ethymōthē)。」

フランシスコ会訳で「非常に怒った」と訳されているカトリック教会に関係している他の日本語訳聖書ではどうなっているのか、次に列挙してみると、

「大いに怒った」(新共同訳)

「激しく怒った」(バルバロ訳)

「大いに怒り」(ラゲ訳)

などとなっている。

マタイ福音書においては、ヘロデ王のあからさまな怒りや憤慨を表現するために「トゥモオー(thumoō)」という動詞が用いられている一方、「エントゥメオマイ(enthumeomai)」の方は、「内側」を意味する接頭語(εν – en)を含んでいるように、たとえヨセフの内面にも怒りや憤慨が存在したとしても、その怒りや憤慨はあくまでも心の内側のものであって、外面に現われるものではなかったことを暗示する表現として、用いられている。

従ってマタイ福音書の最初の二つの章においては、「ヘロデ王の外面へ爆発させた怒りや憤慨」と「ヨセフの自分の内面に留めた怒りや憤慨」とが対比されている、と解釈することも可能である。

ヘロデ王が誰にも遠慮することなく怒りや憤慨を自分の外側へ爆発させたのに対し、ヨセフは自分の内面に怒りや憤慨が生じたとしても、それを自分の内面に留め、自分の外側に爆発させて婚約者にぶちまけることは基本的にはなかったものと考えられる。

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

ルカ福音書でも、「怒り、憤慨」を意味する同様の表現は次の箇所で用いられている。

◯ルカによる福音書4章28節〜30節(フランシスコ会訳)
「これを聞いた会堂内の人々はみな憤り(thymou)、立ち上がって、イエスを町の外へ追い出した。そして、町の建っている山の崖まで連れていくと、イエスを突き落とそうとした。」
「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて、去っていかれた。」

つまり古代のギリシア語訳聖書である七十人訳聖書の創世記6章では、6節の「エントゥメオマイ(enthumeomai)」で内側に留めた怒りや憤慨が表現され、続く7節の「トゥモオー(thumoō)」で怒りや憤慨が露わになり外側に向かおうとするのを表現していることになる。

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1105

そこでもしも仮に、マタイ1章20節の問題の箇所を、同じマタイ2章16節を参考にして「内側に秘めた怒りや憤慨」として解釈するならば、

「ヨセフがこのことで外面はともかく内心では大いに怒っていると」

という日本語訳になる。

この場合も、むろん「このこと」とは、婚約者マリアの妊娠(の発覚)である。

以上の議論をまとめると、婚約者マリアの妊娠が発覚したことによって、ヨセフの内面に「後悔」「心の痛み」「思い煩い(あるいは煩悶)」「執心(婚約者の妊娠という重い現実がどうしても頭から離れない状態)、放心状態、茫然自失」「(あくまでも内面に留まる)怒り、憤慨」などの、さまざまな心理状態が生じていた可能性を、マタイによる福音書で用いられている聖書ギリシア語(ἐνθυμέομαι – enthumeomai)から、推測することができる。

(注)別エントリー「主の御降誕の時ヨセフは何歳だったのか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11500

いうまでもなくカトリック教会のラテン語聖書(ヴルガタ及び新ヴルガタ)は、マタイ1章20節において「熟考、熟慮」を意味する動詞(cogito)を用いて”cogitante”と表現しており、この箇所は当然ながら、第一義的には「熟考、熟慮」という意味合いで解釈すべきである。聖ヨセフの人柄が「思慮深さ」で特徴付けられることには疑う余地がない。しかし同時に、婚約者の妊娠という予想外の事態を受けて突発的にヨセフの内面にさまざまな心理状態が生じていた可能性をもギリシア語聖書本文に用いられている表現が示唆していることも、また事実である。