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試論:聖母とヨハネの親族関係?を140文字以内で

もしも聖母にイエス以外の実子がいたなら、古代ユダヤでは彼が聖母の面倒を見ることになるが、聖母はヨハネに託された。古代ユダヤでは息子が死んだ場合、面倒を見るべき人は息子の弟子よりもまず親族である。ヨハネは自分の母を聖母の「姉妹」(ヨハネ19章25節)つまり親族の女性と、呼んでいる。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
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【追記】

ヨハネは大祭司が自分の存在を認識していた(ヨハネ18章15節)と記す。大祭司がガリラヤの漁師の息子をなぜ、認識していたのか? 理由として可能性が大きいのは、ヨハネの母が聖母の母アンナやエリサベトと同様、祭司族出身の女性だったためと推定され、母方が祭司族という点で、皆が遠縁だった。

聖母マリアの両親に関してカトリック教会の聖伝は、父がダビデ王家の末裔ヨヤキム、母はアロン族(祭司族)の娘アンナと教えてきた。古代のイスラエルでは、結婚相手は同じ部族または先祖が共通する同士が望ましいとされたが、大祭司アロンの妻はユダの族長ナフション(ダビデの先祖)の姉妹であった。

(注)別エントリー「試論:カナでの婚礼と聖母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
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古代のイスラエルでは、一度、神にささげられたと定まったものを後から人間が自分の都合で私物化する行為は、神に対する重大な罪とみなされた(サムエル上2章、15章等)。ヨセフは出産後のマリアを「知る」ことがなかった。処女懐胎時に妻は既に「聖別」されていると、彼が認識していたからである。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
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カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の都市』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『偉大なこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
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ヤコブの名を冠する外典福音書では住民登録のためにベツレヘムへ出発する際、高齢の自分と若いマリアとの二人旅は外聞が悪いとヨセフは考え、前妻との間の息子を呼び寄せて先にマリアと出発させヨセフは後を追った。神の母とは全く不釣り合いのこんな老人を神が選ばれる道理が、どこにあるのだろうか?

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
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ヤコブを称する外典福音書は二世紀後半までに成立したが、聖母の神殿奉献や聖母の両親の名前の記述はカトリックの聖伝と一致する半面ヨセフ関連の記述全般で信憑性に乏しく、ヒエロニムスや四〜五世紀の諸教皇に排斥されて西欧では一度表舞台から姿を消したが、宗教改革期に再び西欧で広く紹介された。

(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
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(注)別エントリー「ヨセフは主の御降誕の時には何歳であったのか」も参照のこと。
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(注)別エントリー「主の御降誕に助産婦が介在しなかった意味とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2544