試論:「迷い出た羊を見つける」を140文字以内で

主イエスはマタイ18章12節以下で「〔天の御父は〕迷わずにいた九十九人より、迷い出た一人を見つけることを喜ぶであろう」とたとえで仰せになった。同9章12節「医者を必要とするのは健康な人でなく病人」ルカ15章8節以下「無くした銀貨」同章11節以下「放蕩息子」等は皆、同じ事柄である。

(注)別エントリー「試論:『決して死ぬことがない』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るならば、決して死ぬことがない」エゼキエル18章21節「悪人が全ての過ちから離れわたしの掟を全て守り正義と恵みの業を行うなら必ず生きて死ぬことはない」同31節以下「あなたたちは死んでもよいのか、わたしに立ち帰り生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「試論:『わたしは喜ばない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15680

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
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主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『悔い改める一人の罪人』を140文字以内で」も参照のこと。
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