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試論:「良い羊飼い」を140文字以内で

主イエスはヨハネ10章で「わたしは良い羊飼い」と仰せになったが、これはイザヤ40章11節の預言そのものである。同節の「主の懐にいる小羊」は、ヨハネ1章18節「御父の懐におられる御独り子イエス」を連想させ、イザヤ40章11節では、主が《小羊の母》を御自ら教え導かれることも特記する。

(注)別エントリー「試論:『知っている』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ヨハネ1章18節は「懐(ふところ)にいる」という位置関係で御父である神と御独り子イエス・キリストとの親密な関係を表現する。13章25節で主に「(裏切ろうとしている一人、)それは誰ですか」と質問した弟子はまさに同じ位置関係で、この弟子が主から特に目を掛けられた存在であると示唆する。

使徒言行録1章14節には、「熱心に祈っていた」人々の中で「婦人たち」とは別に「イエスの母マリア」の存在が特記され、聖母がいわゆる「聖婦人」と呼ばれた敬虔な女性たちとは別個の存在とみなされていたことが記されており、初代教会で聖母がおのずと別格扱いとされた当時の状況が示唆されている。

(注)別エントリー「試論:『第二のエバ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4880

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告されたが、黙示録12章で、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「『無原罪の御宿り』の意味するところとは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4382

聖母は受胎告知の後も「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)と自称するほど、へりくだりが第一の特徴であり、聖霊によって神の御独り子を宿される以上、《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節〜23節)である愛から節制に至る諸徳は、「おめでとう、恵まれた方」と呼ばれるまでに、備えていた。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と聖霊の結ぶ実を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

受胎告知に際し聖母マリアは「恵まれた方」と挨拶されたが、二ペトロ1章は信仰における神からの恵み(2節)の内容を5節以下で記し、信仰に始まり徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛に至るとして、恵みが加わるほど、「情欲に染まったこの世の退廃」(4節)や怠惰(8節)から遠くなると記す。

(注)別エントリー「試論:『恵まれた方』詳しい意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8601

(注)別エントリー「試論:『母親と贖(あがな)い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8793

救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。