エゼキエル書は「世界最終戦争」と無関係」カテゴリーアーカイブ

試論:エゼキエル戦争を140文字以内で

エゼキエル書38章には「マゴグのゴグ」預言があり、13節「タルシシュの商人」に関して古代のギリシア語聖書は「タルシシュ」を「カルタゴ」と解釈したが、商業国カルタゴは紀元前146年には既に滅亡しており、従って「マゴグのゴグ」預言はカルタゴ滅亡以前の時期に実現していなければならない。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4584

【追記】

19世紀前半の作家エドガー・アラン・ポーは、紀元前二世紀のシリア王アンティオコス四世エピファネスを題材にした、「エピマネス(狂人)」という作品を書いたが、その冒頭には「アンティオコス・エピファネスは、一般的に預言者エゼキエルのいうところのゴグと見なされている」などと記されている。

バビロン捕囚からの帰還と主イエス・キリストの御降誕との間の約五百年で、アンティオコス四世エピファネスによる迫害ほどイスラエル人にとって苛酷な惨劇はなかった。エゼキエル書38章で預言されている危機的状況をマカバイ記の時代の惨劇とは全く無関係と捉えるのは、やはり解釈として無理がある。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
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旧約聖書の「メシェク」はアッシリアでは「ムシュキ」と呼ばれ、アッシリアの記録に「ムシュキの王ミタ」とある人物は古代ギリシア側の「フリギアの王ミダス」に対応する。マカバイ記二5章22節ではフリギア出身の人物がアンティオコス・エピファネスに任命され、エルサレムで暴虐の限りを尽くした。

マカバイ記二5章24節以下には、同じくアンティオコス・エピファネスに任命された「ムシア人」が、大軍を率いてエルサレムに現われ大量虐殺を行なったことが、書かれている。このムシアは、ミュシア・ミシアとも表記されるアナトリア西部の地方で、かつては最盛期のムシュキの領土の西端に該当した。

即位前アンティオコス・エピファネスはローマの人質だったが、兄の王を逆臣に殺され、帰国途中ペルガモン(アナトリア西部)の王に後援されミュシア兵を集めた。その十数年前までミュシアにはシリアの勢力が及んでいた。アンティオコス・エピファネスはミュシア兵を率いて帰国、逆臣を倒して即位した。

かつてペルガモン王はアンティオコス大王(アンティオコス・エピファネスの父)の高慢な態度を嫌ってローマと同盟し、大国シリアを破り小国ペルガモンの領土を拡大したが、アンティオコス・エピファネスに対しては、即位を後援して以来、終始友好的で、シリアがアナトリアで募兵するのを容認していた。

長年ローマの人質だったアンティオコス・エピファネスの即位をペルガモンが後援した背景には、ローマの意向が当初は働いた可能性もあるが、人質時代には好人物を演じていたアンティオコス・エピファネスは、即位すると大権力者を目指す野望を隠さず、ローマの思惑を超えて各地で戦争を繰り拡げ始めた。

大征服者だったマケドニアのアレクサンドロス大王亡き後ユダヤはエジプトのプトレマイオス王朝の領土となったが、戦争でシリアのアンティオコス大王がエジプトからユダヤを奪った。ローマに敗れてアンティオコス大王が巨額の貢納金を課された後、歴代のシリア王の視線はエルサレム神殿の富に注がれた。

エゼキエル書38章11節ではゴグに対してイスラエルが無防備であると啓示されたが、アンティオコス・エピファネス時代のシリアとエジプトの戦争は、ユダヤから徴税を試みたエジプトに対し既にシリアに納税したユダヤ人たちが苦情をシリア王に申し立てたのが発端であり、ユダヤは本来シリア側だった。

長年ローマの人質だったアンティオコス・エピファネスを甘く見たエジプト側では、少年王の摂政たちが軍をシリア領内に侵攻させたが、エジプト軍は待ち受けていたシリア軍に完敗した。逃げるエジプト軍を追うシリア軍は、どこまでも攻撃の手を緩めず逆に国境を突破後エジプト全土に軍を進めてしまった。

(注)別エントリー「ダニエル書9章の『七十週』預言」も参照のこと。
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エゼキエル書で「メシェク」と何度も並称される「トバル」は、アッシリアでは「タバル」、古代ギリシアでは「ティバレニ」と呼ばれ、ユダヤ人の歴史家ヨセフスはコーカサスのイベリアと説明し現代のジョージア東部からトルコ東部に存在した。マカバイ記二4章36節「キリキア地方」とも領域が重なる。

かつてムシュキ(メシェク)であったミュシアやフリギアは、アンティオコス・エピファネス王の頃にはシリアの直接支配が及ばなくなっていたが、かつてタバル(トバル)であったキリキアは、シリアが統治する地域であった。後述するように、ミュシア兵とキリキア兵は、シリア軍の一翼を共に担っていた。

メシェクとトバルに相当する存在として、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの著作中にモスコイ人とティバレノイ人が登場する。この両者の武装には木製の兜を被るという共通点があった。両者は古代ギリシアがコルキスと呼んだ国を構成する諸部族に含まれるが、現在のジョージアがコルキスに相当している。

一方で古代のユダヤ人の歴史家ヨセフスは、メシェクとはカパドキアの人々を指しその地のマザカという町はメシェクに由来すると解説する。このマザカは現在のトルコのカイセリ市であり情報をまとめると、最盛期のメシェクの勢力は現在のジョージアからアナトリア中西部にまで及んでいたと、考えられる。

イザヤ書66章19節の預言では、主の栄光が伝えられる国々の一つにトバルを挙げているが、他ならぬ聖パウロの出身地キリキア地方は旧約聖書時代のトバル(タバル)の領域とも重なる。またペトロの第一の手紙1章1節に列挙される諸地方も、旧約時代のトバルやメシェク(ムシュキ)の領域とも重なる。

旧約聖書の「トバル」は創世記4章22節では青銅や鉄の金属工芸と関係し、エゼキエル書27章13節もこれを裏付ける。トバルまたはタバルはヒッタイト滅亡後に先進的な金属工芸を継承した存在だが、南コーカサスまたトルコ東部は考古学的にも鉱物学的にも金属とりわけ銅工芸と関係が深い地域である。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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ユダヤの歴史家ヨセフスは「マゴグ」をギリシア人がいうところのスキタイ人と説明したが、古代ギリシアでスキタイ人という表現はマカバイ記二4章47節の通り、「道理の通じない冷酷な野蛮人」を象徴する場合があった。聖書のその節において非難されている人物はアンティオコス・エピファネスである。

「ゴグ」は古代ギリシア語訳の民数記24章7節ではアガグの別称で、アマレク王やエステル記のハマンなどアガグは旧約の民と対立する集団の指導者と関連した。ギリシア語訳のエステル記ではアガグはマケドニアとも関連するが「マゴグ」を「ゴグの地」と解釈するならマゴグはマケドニアとも、関連する。

シリア王アンティオコス四世エピファネスの先祖は元来マケドニアのアレクサンドロス大王の幕僚(将軍)であった。その意味でシリア王アンティオコス・エピファネスのルーツは遠くマケドニアにあったが、マカバイ記一とマカバイ記二によれば、この人物は旧約の民と対立する集団の指導者そのものである。

ユダヤの歴史家ヨセフスはマゴグをスキタイ人と説明したが、古代ギリシアでスキタイ人は「残酷非道な人々」の比喩でもあった。新約時代のキリスト教では、当然スキタイ人も救いの対象であり(コロサイ3章11節)、黙示録20章のマゴグはもはや特定の民族を意味せず残酷非道な人々の意味だけが残る。

エステル記のハマンとマカバイ時代のアンティオコス・エピファネスという、旧約の民イスラエルにとって二人の民族的仇敵を輩出したマケドニアではあるが、新約時代のキリスト教ではスキタイ人同様に当然マケドニア人も救いの対象であり、使徒言行録16章9節から10節にはそのことが叙述されている。

そして、同じ黙示録20章8節の「ゴグ」とは、「(新約時代の)神の民」とは決定的な対立関係にある勢力の総帥、すなわち主イエス・キリストを信仰する人々に敵対する残酷非道な集団の最高指導者(まさしく反キリスト)を象徴的に意味しており、アンティオコス・エピファネスの再来の如き存在を指す。

(注)別エントリー「試論:ハヌカを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4965

旧約聖書の「ゴメル」は、古代ギリシアがキンメリア人と呼んでいた紀元前八世紀まで黒海北方にいた人々を指すとする見解が有力である一方、ユダヤの歴史家ヨセフスはギリシア人がいうところのガラテヤ人であると説明した。預言者エゼキエルの時代までには、キンメリア人はアナトリアへと移動していた。

エゼキエルの時代の百数十年前に、黒海北方のキンメリア人(ゴメル)はスキタイ人(マゴグ)に追われコーカサスを越え南下、やがてゴメルとマゴグはアナトリアに侵入し、そこにはメシェク・トバル・トガルマその他が先住していた。エゼキエルの時代までにはマゴグはメシェクとトバルを従属させていた。

エゼキエル書38章6節に北の果てのベト・トガルマとあるがトガルマの家(ベト)すなわち拠点はアッシリアではテガラマと呼ばれアナトリアにあり、活動はコーカサスに及び、6節までに登場するメシェク・トバル・マゴグ・ゴメル・トガルマは、エゼキエルの時代は全てアナトリアを拠点に活動していた。

エゼキエル書38章5節のペルシアはアレクサンドロス大王に征服されたが、その死後はシリアのセレウコス王朝の領土となったものの、支配力の低下を懸念したアンティオコス大王やその子アンティオコス・エピファネスは東方遠征を行ない、ペルシア統治の強化を図った(マカバイ記一3章31節以下等)。

エゼキエル書38章5節の「クシュ」は現代のスーダンなどエジプト以南を指し、シリア王アンティオコス・エピファネスの時代にはクシュの一部がエジプトに従属していたが、圧倒的な勢いのシリア軍がエジプトの大半を掌握したのを知りアンティオコス・エピファネスの遠征の際、シリア軍の側になびいた。

上エジプトの古都テーベは、プトレマイオス王朝の首都アレクサンドリアに対抗意識を抱き続け、度々反乱を起こしたが、クシュ人も反乱に加担していた。「敵の敵は味方」でシリアのセレウコス王朝とも通じており、アンティオコス・エピファネスのエジプト遠征の際は、テーベにはシリア軍が駐屯していた。

エゼキエル書38章5節の「プト」は現代のリビアのことで、シリア王アンティオコス・エピファネスの時代にはキレネなど地中海南岸はエジプトの支配下にあったが、圧倒的な勢いのシリア軍がエジプトの大半を掌握したのを知りアンティオコス・エピファネスのエジプト遠征の際にはシリア軍側になびいた。

アンティオコス・エピファネスのエジプト遠征の際、シリア軍の快進撃の前になすすべがなかったエジプトの少年王はサモトラケ島に逃亡を図ったが捕虜となる惨敗で、古都メンフィスの神官たちはアンティオコス・エピファネスをファラオとして戴冠させた。クシュやプトがシリア軍になびくのも必然だった。

ローマ使節団による介入と威嚇を受けてシリア軍は慌ててエジプトから撤退したが、当時この撤退の理由はシリア王の急死のためという偽情報が流れ、これを真に受けたユダヤの前大祭司ヤソンはクーデターを起こし失敗した。この事件を知ったアンティオコス・エピファネスは激怒しユダヤで虐殺を行なった。

エジプトから戻ったアンティオコス・エピファネスは遠征が成功したことを内外に誇示するため、ダフネ(マカバイ記二4章33節)で戦勝を祝う競技会を開催したが、そこでは五千人のミュシア(ミシア、ムシア、ムシュキ、メシェク)兵たちと三千人のキリキア(タバル、トバル)兵たちとが行進していた。

旧約聖書の「ゴメル」に関して、ユダヤ人の歴史家フラヴィウス・ヨセフスは、ギリシア人がいうところのアナトリアのガラテヤ人のことであると説明したが、アンティオコス・エピファネス王がダフネで開催した競技会では五千人のミュシア兵や三千人のキリキア兵の他、五千人のガラテヤ兵が行進していた。

(注)別エントリー「試論:ディアスポラを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4956

ゴグに対してエゼキエル書39章ではイスラエルの神なる主が制裁を加えられると預言されているが、マカバイ記二9章には尊大極まりないアンティオコス・エピファネスに対し、遂に目に見えぬ致命的な一撃を加えて神が罰せられた(5節)と記されている。結局このシリア王は激痛に苦しみながら頓死した。

エゼキエル書39章6節には、「火をマゴグと海岸地方に安らかに住む者たちに送る」とあるが、アンティオコス・エピファネスの死後、イスラエル軍に追われてペリシテのダゴン神殿に逃亡したシリア軍が、火を放たれて、ダゴン神殿もろとも壊滅させられたと、マカバイ記一10章84節には記されている。

エゼキエル書38章12節はゴグが「地上(イスラエル)」の「中心(エルサレム)」を襲う主要目的の一つに、「財産」を挙げる。エルサレムが圧倒的に富裕な「中心」たり得るのは、神殿税や献金の集まる神殿の所在地だからであり、従ってこの戦争が勃発するのはエルサレムに神殿が存在する時代である。

(注)別エントリー「ユダヤ教はダニエル書を預言書扱いしない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4210

エゼキエル書38章で預言されている戦争において「ゴグ」の侵略目的は、「金銀」や「財産」や「家畜」の「略奪」ではないかと周辺から「非難」を受ける性質のものであり、現代人がイメージする近未来の戦争とは程遠く、まして家畜の略奪が話題にされるような戦争が「世界最終戦争」であるわけがない。

(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4703

エゼキエル書38章から39章に言及される軍隊の主力は騎兵部隊で現代人がイメージする近未来の戦争とは程遠く、また軍隊全体の武装も大盾・小盾・剣・兜・弓矢・棍棒・槍の類いで前近代的と形容せざるを得ず、この戦争を「世界最終戦争」とか「終末預言」とか言い立てるのは羊頭狗肉もはなはだしい。

(注)別エントリー「ヘブライ語聖書は『空中』とは表現しない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4223

古代のギリシア語訳エゼキエル書38章2節にはメシェクとトバルと並び「ロシュ」が登場する。これはウラルトゥ(聖書の「アララト」。現在のアルメニア)の王ルサを指し、現在のロシアとは無関係で、ウラルトゥは南のアッシリア及び北のゴメルとマゴグに侵略され衰退したがなお小国として残っていた。

四百年後、ローマがアンティオコス大王を破りシリアのセレウコス王朝から切り離したアルメニアは、独立後もシリアと同盟関係にあった。しかし、ユダヤの反乱に触発されてアルメニアもシリアから離反を図ったためアンティオコス・エピファネスの怒りを買い、シリア軍に新都を占領されて属国扱いされた。

約二千六百年前にエゼキエルが「マゴグのゴグ」預言の啓示を受けて以降、「メシェク」を現在のロシアの首都モスクワと関連付ける解釈は二千年以上の間、存在しないに等しかった。「メシェク=モスクワ」説は約五百年前に始まった比較的新しい解釈だが古代史や考古学の立場からは空想も同然の話である。

ルネサンスと宗教改革の後ヨーロッパでは「ヨーロッパ人はノアの子ヤフェトの末裔」とする説が広まり、創世記の系図上の人名と現実に存在する国々とを組み合わせる様々な説が提唱されたが、東欧を中心にロシアの膨張を警戒する諸国で「メシェク=モスクワ」説が流行したのも、ある意味では当然だった。

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753

エゼキエル書38章では北方の諸民族を中心とした大軍団がイスラエルに侵攻して一大危機が到来すると預言されているが、39章の最後ではこの戦争の後にはイスラエルが元の繁栄の時代に戻るとも預言されていることから、この戦争は「世界最終戦争」ではありえないし、この預言は「終末預言」でもない。

(注)別エントリー「試論:『大艱難時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4807

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は無意味である。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』」も参照のこと。【再掲】
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4584

バビロン捕囚からの帰還と主イエス・キリストの御降誕との間の約五百年で、アンティオコス四世エピファネスによる迫害ほどイスラエル人にとって苛酷な惨劇はなかった。エゼキエル書38章で預言されている危機的状況をマカバイ記の時代の惨劇とは全く無関係と捉えるのは、やはり解釈として無理がある。