神の子たちと人の娘たちの結婚」カテゴリーアーカイブ

神の子らは人の娘たちを【再投稿】

(以下の聖書の日本語の訳文は、特に断りがない限り、フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によります)

創世記の6章には、「神の子らが人の娘たちを娶った」ことが記述され、このことによって人類の間に悪と堕落とがはびこり、最終的にノアの時代の洪水に至ったことが書かれている。

なぜ、「神の子らが人の娘たちを娶った」ことが、人類の間に悪と堕落が蔓延する原因となったのであろうか。

そもそも、「神の子らが人の娘たちを娶った」とは、いったいどういうことなのだろうか?

◯創世記6章1節~2節
「人が地の面(おもて)に増え始めて、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは人の娘たちを見て好ましいと思い、望むままに彼女らを娶った」

日本聖書協会の新共同訳聖書では「人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした」(6章2節)と訳されている。

【1】ヘブライ語の「~の子」をどう解釈すべきか

ヨブ記には、次のように、「神の子たち」「神の子ら」という表現が登場する。

◯ヨブ記1章6節
「ある日のことである。神の子たちが来て、主の前に立ったとき、サタンも彼らに混じってやって来た」

◯ヨブ記2章1節
「また、ある日のことである。神の子たちが来て、主の前に立ったとき、サタンも彼らに混じって主の前に立った」

◯ヨブ記38章7節
「その時、明けの星がこぞって歌い、神の子らはみな喜びの声をあげた」

フランシスコ会聖書研究所訳ヨブ記1章の欄外の注には、「『神の子』という表現は、霊的存在である天使たちを指す」とあるが、一方でマタイ福音書22章には、次のような主イエス・キリストの御言葉が記述されている。

◯マタイによる福音書22章30節
「復活の時、人は娶ることも、嫁ぐこともなく、天の使いと同じようである」

主イエス・キリストはこの箇所において、天使たちが人間の女性たちを娶ることなどありえないと宣言されているのである。同様の記述はマルコ福音書にもある。

◯マルコによる福音書12章25節
「死者の中から復活する時は、娶ることも、嫁ぐこともなく、天の使いたちのようになる」

さらにルカ福音書20章には、次のように書かれている。

◯ルカによる福音書20章34節〜36節
「すると、イエスはお答えになった、『この代(よ)の人は娶ったり、嫁いだりするが、次の代に入るにふさわしく、また死者の中からの復活にあずかるのにふさわしいと認められる人々は、娶ることも、嫁ぐこともない。この人たちはもはや死ぬことはありえない。彼らはみ使いに等しく、復活にあずかる子らとして、神の子だからである」

主イエス・キリスト御自身が、「死者の中からの復活にあずかるのにふさわしいと認められる人々」のことを、「神の子」と呼んでおられるのである。

旧約聖書においてもホセア書には、天使たちではなく人類の中のある一団を指して「生ける神の子ら」と呼んでいる記述がある。

◯ホセア書2章1節〜3節
「イスラエルの子らの数は、海辺の砂のように数えることも、量ることもできないようになる。彼らは『お前たちはロ・アンミだ』と言われる代わりに、『生ける神の子ら』と言われている。ユダの子らとイスラエルの子らはともに集まり、一人の頭(かしら)を立ててその地の主権を握る。イズレエルの日はまさに大いなる日である。お前たちの兄弟に『アンミ』と言い、お前たちの姉妹に『ルハマ』と言え」

フランシスコ会聖書研究所訳の欄外の注によれば、「ロ・アンミ」とは「わたしの民ではないの意」、「アンミ」は「わたしの民」、「ルハマ」は「彼女は憐れまれる」の意味である。

◯ホセア書2章25節
「わたしはわたしのためにこの地に彼を蒔(ま)き、ロ・ルハマを憐れみ、ロ・アンミに『お前はわたしの民である』と言い、彼は『わたしの神よ』と言う」

イザヤ書1章には、「主の『子供たち』」と「イスラエル」と「わたしの民」との三者が、重層的に語られている箇所がある。

◯イザヤ書1章2節〜3節
「天よ、聞け。地よ、耳を傾けよ。主が語られる。『わたしは子供たちを養い育てた。ところが、彼らはわたしに背いた。牛はその飼い主を知り、ろばはその主人の飼い葉おけを知る。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は悟らない』」

同じくイザヤ書の預言では、主である神が「わたしの息子ら」「娘ら」と仰せになる人々について語られている。

◯イザヤ書43章5節〜8節
「恐れてはならない。まことに、わたしはお前とともにいて、東からお前の子孫を来させ、西からお前を集める。わたしは北に向かって、『引き渡せ』と、南に向かって、『引き止めるな』と言う。わたしの息子らを遠くから、娘らを地の果てから連れてこい。これらの者はみな、わたしの名をもって呼ばれる者。わたしがわたしの栄光のために創造し、形づくり、造りあげた者。目があっても見えず、耳があっても聞こえない民を連れ出せ」

エゼキエル書16章にも、同様の表現が見受けられる。

◯エゼキエル書16章20節~21節
「そればかりか、姦淫など取るに足らないことかのように、お前はわたしのために産んだ息子、娘たちを偶像への犠牲(いけにえ)としてささげた。火の中を通らせてわたしの子らを偶像にささげた」

申命記14章の冒頭では、イスラエルの人々が次のように呼び掛けられている。

◯申命記14章1節〜2節
「あなたたちは、あなたたちの神、主の子供である。死者のために自分の身を傷つけてはならない。また額を剃ってはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。主は、地の面(おもて)のすべての民からあなたを選んでご自分の宝の民とされた」

(新共同訳では、「あなたたちは、あなたたちの神、主の子らである」と訳されている)

この申命記14章1節から2節によれば、「主の子供」とは「主の聖なる民」「ご自分の宝の民」のことであると説明されている。

ヘブライ語の「~の子」という概念は、当然ながら、字句通りの生物学的な親子関係・血縁関係も意味しているが、しかしそればかりではなく、はるかにもっと広い意味をも包含し、帰属関係全般をも意味している。

例えば、旧約聖書にしばしば登場する、「イスラエルの子ら」(出エジプト1章9節)あるいは「アンモンの子ら」(創世記19節38節)という表現はほとんどの場合、それぞれ「イスラエル人たち(の集団)」「アンモン人たち(の集団)」を意味するのである。

また列王記下2章には、「預言者の子ら」(3節、5節、7節、15節)という表現が何度も用いられているが、この場合の「預言者の子ら」とは、「預言者の子供たち」のことであると解釈するよりは、「預言者の集団に属する者たち」すなわち「預言者たち」のことであると解釈する方が、文脈を踏まえれば、適切である。

旧約聖書のエズラ記にはバビロン捕囚から帰還した人々が、神殿に象徴されるイスラエルの伝統を復興していく経緯が書かれているが、例えば6章19節で、フランシスコ会訳では「捕囚から帰還した人々」と訳されている一方、新共同訳ではヘブライ語原文からの直訳で「捕囚の子ら」と表現されている。

バビロン捕囚の関連でもう一つ、ゼカリヤ書2章11節では、都エルサレムの住民は「バビロンの娘」と呼ばれているが、当時のエルサレムにはバビロン捕囚から帰還した人々が集っていたからに他ならない。

◯創世記3章15節
「わたしはお前と女の間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵意をおく。彼はお前の頭を踏みつけ、お前は彼のかかとに咬みつく」

この場合においては、「お前(=蛇)の子孫」という言い回しは、蛇すなわち実はこの章では生物ならざるサタン・悪魔だということを考慮すれば、特定の何者かというよりは、「サタンの一派」「サタンの一党」「サタンの一味」などの集合名詞として解釈すべきであるということになる。

つまり、創世記3章15節における「お前の子孫」とは、「サタンの一団(に属する者たち)」という意味合いなのである。

同様に「女の子孫」に関しては、ヨハネ黙示録12章は創世記3章15節の内容を詳しく説明する啓示であるとする解釈を支持する記述として、黙示録12章17節に「女の子孫のうちの残りの者たち、すなわち神の掟を守り、イエスの行われた証しを保持している人々」という表現がある。

すなわち「女の子孫」とは、「『女』に属する集団の人々」という意味合いである。

さて、エゼキエル書で預言者エゼキエルが「人の子」(2章1節)と呼ばれる時、その場合の「人の子」は「人類という集団に属する者」すなわち「人間」「人(ひと)」を意味する。
つまり「人の子よ」という呼び掛けの言葉は、「人間よ」「人よ」と解釈すべきである。

その預言書の主人公である預言者に対する「人の子(よ)」という呼称は、エゼキエル書の全般とダニエル書8章17節に登場する。

主イエス・キリストは、機会があるごとに「人の子」(マタイ福音書24章27節)を自称されたが、それは当然ながら、御自身がダニエル書7章13節以下に預言されている人物そのものであることを、踏まえた発言である。

◯マタイによる福音書24章27節
「稲妻が東から西まで閃き渡るように、人の子の来臨もまたそのようである」

◯ダニエル書7章13節~14節
「見よ、人の子のようなものが天の雲に乗り、『日の老いたる者』のもとに来て、そのみ前に導かれた。権威と威光と王権が彼に与えられ、諸国、諸族、諸言語の民がみな彼に仕えた。その支配は過ぎ去ることのないとこしえの支配。その統治は滅びることはない」

この場合の「人の子」は、まず主イエス・キリスト御自身の神性を当然の前提として(暗黙の了解として)踏まえた上で、御自身が「(完全な意味で神の子ではあってもそれと同時に)完全な意味で人類の一員となっている」ということ、すなわち、御自身の「人性」の方を意識的に強調されておられるように推測される表現である。
ダニエル書の「日の老いたる者」とは御父である神のことであり、また「人の子」とは御父と同格の権威を有する神性を帯びた御子すなわち主イエス・キリストのことである。

◯マルコによる福音書16章19節
「さて、主イエスは弟子たちに語り終えると、天に上げられ、神の右の座につかれた」

◯ヘブライ人への手紙1章3節
「御子は神の栄光の輝き、神の本性の完全な具現であり、その力ある言葉をもって万物を支え、罪の清めを成し遂げた後、いと高き所において、威光ある方の右の座におつきになりました」

この節では、「御子」である主イエス・キリストについて、「神の本性の完全な具現」という表現を用い、その神性を明確に宣言している。

つまり主イエス・キリストが「人の子」を自称される場合、それは実は御自身の神性を前提としているものであるからこそ、神としての(神性を表わす)称号の一つとなり得るのである。
主イエス・キリストが自称される場合、「人の子」とは「人〔となった神〕の子」のことである。

一方で、エゼキエルやダニエルのような旧約の預言者たちが「人の子よ」と呼び掛けられる場合、それは単に「人間よ」「人よ」という意味合い以上のものはないのである。

新約聖書のギリシア語本文の他の箇所も、ヘブライ語の「~の子」の用法を踏襲している。

◯マルコによる福音書3章17節
「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネにはボアネルゲス、すなわち、雷の子という名をお与えになった」

ヤコブとヨハネの兄弟の父親はゼベダイであるのに、主イエス・キリストはなぜゼベダイの子たちに「雷の子」と名付けたのであろうか。
それは、この兄弟が雷を連想させる気性の持ち主であったからだと考えられる。
この場合の「雷の子」とは、「雷のような性質の者(たち)」という意味である。
いうまでもなく、「雷」は親の名前を意味しているわけではない。

マタイ福音書3章7節で、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢で洗礼を受けにやって来たのを見て、洗礼者ヨハネが「蝮(まむし)の子らよ」という表現で彼らに呼び掛けたのは、あまりにも有名である(新共同訳。フランシスコ会聖書研究所訳では「蝮の子孫よ」)。
主イエス・キリストも同様の表現を用いられたことがある(マタイ12章34節、同23章33節)。
もちろんマタイ12章34節では、「蝮の子らよ、悪人でありながら…」と続いているので、どのような意味で主イエス・キリストが「蝮の子」という表現を用いたかは明白である。

◯テサロニケの人々への第二の手紙2章3節
「なぜなら、まず初めに、神への反逆が起こり、無法の者、いわゆる『滅びの子』が現れなければならないからです」

この「無法の者」がなぜ「滅びの子」と呼ばれるのかというと、続く8節に「主イエスは、ご自分の口から吐く息でこの者を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます」と書かれているからである。
この場合の「滅びの子」とは、「永遠の滅びという定めに属している者」という意味合いである。
蛇足ながら、「滅び」は親の名前を意味しているわけではない。

ヨハネ福音書にも「滅びの子」という表現は登場する。

◯ヨハネによる福音書17章12節
「彼らとともにいた間、お与えくださったあなたの名によって、わたしは彼らを守り、保護しました。滅びの子のほかは、彼らのうちに誰も滅びませんでした。それは、聖書が成就するためでした」

一方、マタイ福音書には「み国の子ら」という表現が登場する。

◯マタイによる福音書8章12節
「しかし、み国の子らは、外の闇に投げ出される。そこには嘆きと歯ぎしりがある」

「み国の子ら」という表現がここで登場するが、10節の「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」を受けた発言であることを考えると、「み国の子ら」とは「旧約の律法の民であるイスラエル人に属する人々」の意味合いである。

◯マタイによる福音書23章15節
「律法学者やファリサイ派の人々、あなた方偽善者は不幸だ。海と陸を巡って、一人を改宗させる。しかし改宗させると、その人を自分より倍もひどい地獄の子とする」

「地獄の子」は「地獄に行くという定めに属している者」の意味合いである。

◯ルカによる福音書10章6節
「もし、そこに平和の子がいるなら、あなた方の平和はその人の上に留(とど)まる。もしいなければ、あなた方の上に戻ってくる」

「平和の子」とは「平和のうちに生きている人」の意味合いであるのと同時に、この節では特に「(あなた方を)平和的に迎え入れてくれる人」を意味している。

そして、フランシスコ会聖書研究所訳のマルコ福音書2章19節には、「花婿の友人たち」という表現が登場するが、注には「直訳では、『婚礼式場あるいは花婿の部屋の子ら』。花婿の付添人、または婚礼の客に解する者もいる」と説明されている。

前出のルカ福音書20章34節には「この代(よ)の人」という表現が登場するが(フランシスコ会聖書研究所訳)、新共同訳では「この世の子ら」となっており、こちらはギリシア語原文を直訳した表現となっている。

またヨハネ福音書には、「光の子」という表現も登場する。

◯ヨハネによる福音書12章35節〜36節
「そこで、イエスは彼らに仰せになった、『もうしばらくの間、光はあなた方のうちにある。闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。闇の中を歩く人は、自分がどこへ行くのかを知らない。あなた方は光のあるうちに、光の子となるために光を信じなさい』」

主イエス・キリストの御言葉に対応するように、ヨハネの第一の手紙には次の記述がある。

◯ヨハネの第一の手紙1章5節
「わたしたちが、イエスから聞いたことで、あなた方に告げ知らせるのは、神は光で、神の中に闇(やみ)はまったくないということです。」

「光の子」とは「光に属する者たち」の意味合いであり、「光」とは主イエス・キリスト御自身のことであるから、「光の子」すなわち「キリストに従う者」「キリストの弟子」のことである。

◯テサロニケの人々への第一の手紙5章1節~5節
「兄弟のみなさん、それが、いつ、どういう時に起こるのか、あなた方に書く必要はありません。なぜなら、主の日は夜の盗人のようにやって来るということを、あなた方はよく分かっているからです。人々が『平和だ、安全だ』と言っているそのような時に、あたかも妊婦に陣痛が始まる時のように、彼らに破滅が突然襲いかかり、誰(だれ)もそれから逃れられません。しかし、兄弟のみなさん、あなた方は夜の闇(やみ)の中にいるわけではないので、その日が盗人のようにやって来ても、あなた方を襲うことはありません。あなた方はみな、光の子、真昼の子だからです。わたしたちは夜や闇には関係ありません」

使徒言行録でバルナバが初めて登場する際に、「慰めの子」という表現が登場する。

◯使徒言行録4章36節〜37節
「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちからバルナバ──訳すと「慰めの子」──と呼ばれていたヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を携えて来て、使徒たちの足元に置いた」

いうまでもなく、「慰め」は親の名前ではない。

このヘブライ語表現由来の「~の子」という概念は、現代の日本人にかなり特殊なもののようにも感じられるが、少し考えると、実はそうでもない。

例えば、日本語でも、電車やバスの中で若い女子学生同士が会話している時を考えると、彼女たちは「横浜の子」「白百合の子」「テニス部の子」「普通科の子」というような表現を、よく使っている。

「横浜の子」という場合、「横浜」は親の名前ではない。「横浜」は現住所あるいは出身地を意味している。

「白百合の子」という場合、「白百合」は在籍校あるいは出身校である。

「テニス部の子」という場合、「テニス部」は所属部を意味している。
「普通科の子」もまた同様である。

【2】信仰者の男性が不信仰者の女性を娶ったことで人類に悪が蔓延した

旧約聖書を(そして新約聖書も)読んでいく時、ヘブライ語から来る「~の子」という概念を以上の流儀で解釈する必要があることを、念頭に置かねばならない。

つまり、創世記6章2節の「神の子ら」は、この場合、「神に属する集団の男性たち」すなわち「信仰者の集団の男性たち」を意味していると解釈できる。

この解釈は、ホセア書2章の預言で「生ける神の子ら」と呼ばれる人々が同時に「アンミ」つまり「わたしの民」とも呼ばれていることからも、裏付けられる。
「神の子ら」とは、「わたしの民」すなわち神の民のことなのである。

創世記6章2節の「神の子ら」については、確かに「神々」や「天使たち」などの解釈も古代から存在したが、「信仰者の集団の男性たち」と解釈しなければノアの時代の洪水へと続く因果関係が説明できない。

同様に、同じ節の「人の娘たち」は、「人に属する(神に属さない)集団の女性たち」すなわち「不信仰者の集団の女性たち」を意味するのである。

アダムとエバの間に生まれたカインが怒りに任せて弟アベルを殺害した後、人類には、「神に従う集団」と「神から離れた集団」という二つの集団が分かれるようにして形成された。

この二つの集団のうち、前者は「神に属する集団」すなわち「神に忠実な集団」であり、後者は「神に属さない集団」すなわち「神に背を向け、その前から離れ去った人々の集団」である。

「神の子」そして「人の娘」という表現が、人類における二つの集団の存在を示唆していると考えるならば、それらは「信仰者の集団(神に属する集団)」「不信仰者の集団(人に属する集団)」に他ならない。

「人に属する集団」言い換えれば「神に属さない人々の集団」の創始者である「人」とは、カインのことである。なぜなら、カインは弟アベルを殺害した後、神に背を向け、その前から立ち去ったからである。

◯創世記4章16節
「カインは主の前を退き、エデンの東、ノドの地に住んだ」

創世記の4章17節から24節にはカインとその子孫たちに関する系図が語られており、アダムの他の子孫たちの系図とは明らかに区別されているが、それは「人に属する集団」すなわち「不信仰者の集団」であるカインとその子孫たちと、「神に属する集団」すなわち「信仰者の集団」であるそれ以外の人類とを区別するためであり、増え始めた人類の中に二つの集団が形成されていたことを暗示している。

カインとその子孫たちは「神に従わない集団」として、アダムの他の子孫たちである「神の子ら」すなわち「神に属する集団」とは別々に離れて存在するはずであった。

ところが、創世記6章2節にあるように、「信仰者の集団の男性たち」が「不信仰者の集団の女性たち」を娶り始めることによって、夫たちは妻たちに感化され、また夫婦の間に生まれる子供たちも母親に感化されるようになった。
このようにして、「信仰者の集団」の中にも結婚を介して徐々に不信仰が蔓延するようになり、「信仰者の集団」は堕落の一途を辿ったのである。

◯創世記6章3節
「そこで主は仰せになった、『わたしの霊はいつまでも人の中に留(とど)まらない。人はまったく肉であるから。人の一生は百二十年にすぎない』」

◯創世記6章5節〜6節
「主は、人の悪が地上にはびこり、その心の思いが絶えず悪いことにばかり傾いているのをご覧になって、地上に人を造られたことを悔やみ、心を痛められた」

◯創世記6章11節~12節
「神の前に、地は堕落し、暴虐に満ちていた。神が地をご覧になると、非常に堕落していた。肉なるものはみな堕落した生活を送っていたからである」

知恵の書10章3節では「滅び失せた」という表現でカインが最後の最後まで悪を止めることなく神に背を向け続けたことを暗示し、続く4節では「彼の故に」という表現でカインの不信仰が人類のほぼ全てに蔓延してノアの時代の洪水を招く原因(遠因)となったことをも暗示している。

◯知恵の書10章3節~4節
「しかし、ある不正な者が怒って知恵から離れ去り、憤って兄弟を殺したことで滅び失せた。彼の故に、大地が洪水に呑まれたとき、知恵は再びそれを救い、粗末な木に乗せて義人を導いた」

3節の「ある不正な者」はカインのことであり、4節の「義人」はノアのことである。この箇所において、カインとノアは明らかに対比されている。

◯創世記4章16節【再掲】
「カインは主の前を退き、エデンの東、ノドの地に住んだ」

日本聖書協会の新共同訳聖書に「ノド(さすらい)」とある通り、「ノド」はあてもなく「さ迷いさすらう」(創世記4章12節)ことを意味している。

◯創世記5章28節〜29節
「レメクが百八十二歳になった時、男の子が生まれ、『この子は主に呪われた大地で労苦して働くわれわれを慰めるであろう』と言って、その子をノアと名づけた」

新共同訳聖書に「ノア(慰め)」とあるが、もう少し詳しい意味としては、さ迷いさすらうことや労苦を続けることを終わりにして一つ所に落ち着いて休み、最後に安らぎを得て憩うということになる。つまり「ノア」という名前の意味と、創世記4章16節の「ノド」という言葉の意味とは、明らかに対比されている。このことも、カインの犯した大罪の影響がノアの時代に至ってようやく一掃され解決することを暗示している。

◯創世記4章10節~12節
「主は仰せになった、『何ということをしたのか。聞け、お前の弟の血が土からわたしに叫んでいる。土は口を開いて、お前の手から弟の血を受けた。今やお前は土に呪われる。お前が土を耕しても、もはや土はお前のために実を結ばない。お前は大地をさ迷いさすらう者となる」

ただし、創世記5章29節の「主に呪われた大地」という表現に関しては、上掲の4章のカインのエピソードだけではなく、3章のアダムとエバのエピソードが発端になっている。

◯創世記3章17節
「さらに人に仰せになった、『お前は妻の言葉を聞き、食べてはならないものと命じておいた木の実を食べたから、土はお前の故に呪われたものとなった。お前は一生労苦して土から糧(かて)を得よ』」

この節の「呪われた」という単語また「労苦」という単語が、ノアが誕生した時の父レメクの言葉(創世記5章29節)にも再び登場するわけである。
つまりここでも、ノアがエバとアダムそしてカインによる罪を総決算する存在であることが、暗示されている。

◯創世記6章8節~9節
「しかし、ノアは主の心にかなっていた。ノアは当時の人々の中で正しく、かつ非の打ち所のない人であった。ノアは神とともに歩んだ」

ノアは「信仰者の集団」の中で、カインに由来する不信仰に感化されることなく残った、人類最後の希望だったのである。

◯創世記6章13節~14節
「そこで神はノアに仰せになった、『わたしは肉なるものをみな絶やそうと思う。彼らの故に地は暴虐に満ちているから。わたしは地もろとも彼らを滅ぼそう。お前はゴフェル材で箱船を造れ。箱船の中に部屋を造り、その内と外をタールで塗れ』」

すなわち、「神の子らが人の娘たちを娶った」とは、「信仰者の男性たちが不信仰者の女性たちを娶った」ことを意味するからこそ、それに引き続いて男性たちが女性たちに感化され始め、その間に生まれた子供たちも母親の不信仰に感化されることになり、人類の間に悪と堕落が蔓延する原因となったのである。

この「神の子ら」を誤って「神々」とか「天使たち」と解釈してしまっては、「神の子らが人の娘たちを娶った」ことがノアの時代の洪水へと続いていった因果関係を、正しく理解することができなくなってしまう。

重ねて強調するが、主イエス・キリストはマタイ福音書22章30節やマルコ福音書12章25節そしてルカ福音書20章34節から36節において、天使たちが人間の女性たちを娶ることなどはありえないと宣言されている。

ルカ福音書20章では、「次の代に入るにふさわしく、また死者の中からの復活にあずかるのにふさわしいと認められる人々」について、「彼らはみ使いに等しく、復活にあずかる子らとして、神の子」であると表現している。

いうまでもなく、カトリック信者にとって厳密な意味での「神の子」に該当するのは、御父である神のおん独り子であられる、主イエス・キリストただお一方だけである(ヨハネによる福音書3章16節および18節、ヨハネの第一の手紙4章9節)。

◯ヨハネによる福音書3章16節~18節
「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。神が御子(おんこ)をこの世にお遣わしになったのは、この世を裁くためではなく、御子によって、この世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じなかったからである」

◯ヨハネの第一の手紙4章9節
「神は独り子を世に遣わされました。それは、わたしたちがこの方を通して生きるようになるためです。ここに、愛がわたしたちのうちに現されたのです」

そして、それと同時に、人間にはキリストによって神の子となる道が開かれているのである。

◯ヨハネによる福音書1章10節~13節
「み言葉はこの世にあった。この世はみ言葉によってできたが、この世はみ言葉を認めなかった。み言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。しかし、み言葉を受け入れた者、その名を信じる者には、神の子となる資格を与えた。彼らは、血によってではなく、人間の意志によってでも、男の意志によってでもなく、神によって生まれた」

◯マタイによる福音書5章9節
「平和をもたらす人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」

ところで主イエス・キリストに関しては、マタイ福音書1章1節には「アブラハムの子」「ダビデの子」という表現があり、ルカ福音書4章22節には「ヨセフの子」とあり、そしてマルコ福音書6章3節には「マリアの子」と表現されている。
マタイ福音書1章1節の場合、「アブラハムの子」は「契約の民の一員」、「ダビデの子」は「王家の末裔の一員」の意味合いで、同20節ではヨセフも「ダビデの子」と呼ばれているのである。

◯マタイによる福音書1章25節
「マリアが男の子を産むまで、ヨセフは彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた」

マタイ福音書1章25節にはヨセフがイエスの実父ではないことが書かれているが、一方でマリアがイエスの実母であることは、同節で「産む」という動詞が使われてその母子関係が語られていることからも明らかである。

さらにいうなら、マタイ福音書13章55節ではイエスのことを「大工の子」と表現しているが、この表現は二つの意味合いを含んでいると解釈できる。
一つは文字通り、当然「大工ヨセフの子」すなわち「大工の子」という意味合いである。

もう一つは、「大工の集団の一員」という意味合いで、つまり「大工の一人」「一人の大工」「一(いち)大工」という意味合いになる。
「イスラエルの子」が「イスラエル人の一人」「一(いち)イスラエル人」という意味合いであることと同じ話である。
つまり、マタイ福音書13章55節の「大工の子」という表現は、「一(いち)大工」という意味合いで解釈することも可能であり、その限りにおいては、マルコ福音書6章3節の「大工」という表現とも内容的には一致している。

以上のように、ヘブライ語に由来する聖書の中の「~の子」という表現の解釈は単純ではないが、最後に重ねて強調すると、創世記6章の「神の子らが人の娘たちを娶った」という表現が「信仰者の男性たちが不信仰者の女性たちを娶った」ことを意味するからこそ、それに引き続いて男性たちが女性たちに感化され始め、その間に生まれた子供たちも不信仰に感化されることになり、人類の間に悪と堕落が蔓延する原因となったのである。

◯創世記6章4節
「神の子らが人の娘たちの所に入り、娘たちが子を産んだころ、またその後も、地上にネフィリムがいた。この者たちは太古(たいこ)の勇士で、名高い者たちであった」

ノアの時代の洪水以降の出来事の記述である創世記10章8節には、「ニムロドは地上の最初の勇士で、主の前に強い狩人であった」とあり、6章4節を考えると「勇士」に関する記述に時系列的な錯綜もいくぶん感じられるが、同節の「ネフィリム」にしろ10章の「ニムロド」にしろ、相当な権威や権勢を誇っていたイメージがうかがえる。
しかし、10章の「ニムロド」の権威や権勢が11章の「バベルの塔」の時代の人類の高慢や神への挑戦へとつながっていったように、6章4節の「ネフィリム」「勇士」の権威や権勢は5節の「悪」や11節の「堕落」「暴虐」へとつながっていったのであろう。

ローマの人々への手紙8章では次のように論じられている。

◯ローマの人々への手紙8章13節〜17節、19節
「肉に従って生きるなら、あなた方は死にます。しかし、霊によって、体の悪い行いを絶つなら、あなた方は生きます。神の霊によって導かれる人は誰でもみな、神の子なのです。あなた方は、人を再び恐れに陥らせ、奴隷とする霊を受けたのではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって、わたしたちは『アッバ、父よ』と叫んでいます。霊ご自身がわたしたちの霊とともに、わたしたちが神の子供であることを証明してくださるのです。子供であれば、相続人であります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。すなわち、わたしたちはキリストとともに苦しむなら、ともに栄光を受けるのです」
「被造物は神の子らが現れるのを、切なる思いで待ち焦がれているのです」

この箇所と、創世記6章3節の主の御言葉(「わたしの霊はいつまでも人の中に留(とど)まらない。人はまったく肉であるから」)とを比較するならば、創世記6章における人類の堕落とは、「神の子ら」が次第にそう呼ばれるに値しない存在へと成り果てていったことであると、明らかになる。

さらにローマの人々への手紙9章では、ホセア書を引用して次のように書かれている。

◯ローマの人々への手紙9章25節〜26節
「わたしは、自分の民ではなかった者を『わたしの民』と呼び、わたしが愛さなかった者を『愛する者』と呼ぶ。彼らは、『お前たちはわたしの民ではない』と言われたその場所で、『生ける神の子ら』と呼ばれる」

つまり「神の子ら」とは、主なる神にとっての「わたしの民」のことなのである。

◯イザヤ書63章8節、16節
「主は仰せになった、『まことに彼らはわたしの民、欺くことのない子ら』と。こうして主は彼らの救い主となられた」
「まことに、あなたはわたしたちの父。アブラハムがわたしたちを知らず、イスラエルがわたしたちを認めないことがあっても、主よ、あなたはわたしたちの父です。『われわれの贖(あがな)い主』とは昔からのあなたの名」

ヨハネ福音書には「神の子たち」が登場するまた別の箇所(11章52節)がある。

◯ヨハネによる福音書11章47節〜53節
「そこで、祭司長たちやファリサイ派の人々は、最高法院を召集して言った、『この人は多くの徴(しるし)を行っているが、われわれはどうしたらよいのか。このままにしておけば、みなが彼を信じるようになる。そうなると、ローマ人が来て、われわれの土地と国民とを征服してしまうだろう』。その中の一人で、その年の大祭司であったカイアファは言った、『あなた方は、何も分かっていない。一人の人間が民に代わって死に、国民全体が滅びないほうが、あなた方にとって得策であることを、考えていない』。カイアファは自分勝手にこう言ったのではない。その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死ぬようになること、いや、国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるために死ぬようになることを、預言したのである。そこで、彼らはこの日以来、イエスを殺そうと決めた」

ところで、創世記6章4節に登場する「ネフィリム」に関して、新共同訳聖書では「これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり」という日本語訳で表現している。
「ネフィリム(נְפִילִים – Nephilim)」というヘブライ語は、旧約聖書で頻繁に登場するヘブライ語の動詞「ナファル(נָפַל – naphal)」によく似ているが、「ナファル」の意味は「落ちる、堕ちる」である。
よって、「ネフィリム」を「ナファル」の近縁表現もしくは関連語であると想定するならば、当然「ネフィリム」は「堕落した者(たち)」を意味しているということになる。

同じ創世記6章の11節には、「神の前に、地は堕落し」(フランシスコ会聖書研究所訳)「この地は神の前に堕落し」(新共同訳)と書かれている。

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753