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試論:「良いことだけを求める」を140文字以内で

主の養父ヨセフについて、マタイ1章19節はディカイオス(正しい人、義人)というギリシア語で表現するが、古代ギリシア語訳箴言11章23節は、ディカイオスは良いことだけを求めると記す。神の御独り子が人間の「みどりご」(イザヤ9章)となられて来られた際、善だけを求める人が養父になった。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

【追記】

マタイ1章19節のギリシア語本文は聖ヨセフを「ディカイオス」(新共同訳では「正しい人」)と表現するが、古代ギリシア語詩編111(112)編6節は、「ディカイオス(新共同訳では「主に従う人」)はとこしえに揺らぐことがなく彼はとこしえに記憶される」として最大級の賛辞で、表現している。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

レビ19章14節は隣人愛(同18節)に反する行為として、耳や目の不自由な人々に対していやがらせを行うことを禁じている。神なる主が日本語で意地悪と呼ばれる行為を忌み嫌っておられることは当然で、ヨセフが家長として、イエスやマリアに対して意地悪のたぐいを全く行わなかったのも当然である。

主イエスの御養育に当たり、ヨセフとマリアの二人がまず絶対に口にはしなかったであろう言葉がある。それは「あなたは神の子なのだから、わたしたちが助けなくともできるはずだ」の類いで、なぜならそれは荒れ野で誘惑したサタンや十字架の周りで嘲っていた敵たちに特有の悪意を含んでいるからである。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

マタイ4章で荒れ野におられる主の前に現れた悪魔は、「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」「神の子なら、飛び降りたらどうだ」「わたしを拝むなら、すべてを与えよう」などと主を誘惑したが、御受難の際に主を侮辱した多くの人々も、例外なく荒れ野の悪魔と同じような口振りであった。

(注)別エントリー「悪に巻き込まれないためにどうすべきか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4814

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

【問】カトリックはマリアとヨセフを特別扱いしますが、なぜですか?【答】二人が「みどりごとして来られた神」を心と魂と力を尽くし(申命記6章5節)真心を込めて御養育することで、何十年もの間、神に対してまっすぐに向き合い、その結果として永遠の命に到達し後世の人々の模範となったからです。

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれるが、25章の「最後の審判」において「正しい人」は永遠の命が確約された人である。母マリアはルカ1章42節で「女の中で祝福された方」と呼ばれるが、マタイ25章34節では「祝福された人」は同じく永遠の命が確約された人である。

(注)別エントリー「試論:『神の母』聖書的根拠を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13155

(注)別エントリー「試論:『親しき仲にも礼儀あり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13120