主イエスはマタイ福音書で「天の国は次のようにたとえられる」と何度も仰せになる。日本語訳では「国」と表現されるがギリシア語本文では《バシレイア(王国)》で、この語は黙示録1章6節の通り《王国の一人一人》までを包含する。つまり主は「わたしの弟子である一人一人」について仰せになられた。
(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654
【追記】
有名な「種を蒔く人」のたとえでは、種は神の御言葉(ルカ8章11節)である。マタイ25章の「タラントンのたとえ」でもタラントンは神の御言葉または、御言葉が勧める隣人愛(マタイ7章12節)であり、神の財産である《愛》を掘った穴に埋める人とはつまり隣人愛を全く実践しない人を指している。
(注)別エントリー「試論:『世の光と一タラントン』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11353
(注)別エントリー「試論:『神のものを神に返す』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18573
(注)別エントリー「試論:隣人愛って、何ですか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18638