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「永遠の命」と「新しい掟」

(以下、聖書の日本語訳は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』〔サンパウロ〕によりますが、必要に応じて他の日本語訳も適宜、引用します)

◯ヨハネによる福音書13章34節~35節
「わたしは新しい掟をあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うなら、それによって人はみな、あなた方がわたしの弟子であることを、認めるようになる」

◯ヨハネによる福音書14章15節
「あなた方はわたしを愛しているなら、わたしの掟を守るはずである」

◯ヨハネによる福音書14章21節
「わたしの掟を自分のものとし、それを守る人、その人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現す」

◯ヨハネによる福音書15章9節~10節、12節、14節、17節
「父がわたしを愛してくださったように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛のうちに留まりなさい。あなた方がわたしの掟を守るなら、わたしの愛のうちに留まることになる。わたしが父の掟を守って、その愛のうちに留まっているのと同じである」
「わたしがあなた方を愛したように、あなた方が互いに愛し合うこと、これがわたしの掟である」
「わたしが命じることを行うなら、あなた方はわたしの友である」
「あなた方が互いに愛し合うこと、これをわたしはあなた方に命じる」

主イエス・キリストの「新しい掟」については、ヨハネ福音書以外でも説明されており、また「新しい掟」に反するものがどんなことであるかも、随所で説明されている。

◯ヨハネの第一の手紙4章19節~21節、5章3節
「わたしたちが愛するのは、神がまず、わたしたちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら、自分の兄弟を憎むなら、その人は嘘(うそ)つきです。目に見える自分の兄弟を愛さない人は、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、自分の兄弟をも愛さなければなりません。これが、わたしたちが神から受けた掟です」
「神への愛とは、神の掟を守ることです。そして、その掟は難しいものではありません」

◯マタイによる福音書22章34節~40節
「サドカイ派の人々がイエスに言い込められたのを知って、ファリサイ派の人々は集まった。そのうちの一人で律法の専門家が、イエスを試みようとして尋ねた、『先生、律法の中でどの掟(おきて)がいちばん重要ですか』。イエスは答えて仰せになった、『《心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい》。これがいちばん重要な、第一の掟である。第二もこれに似ている。《隣人をあなた自身のように愛しなさい》。すべての律法と預言者は、この二つの掟に基づいている』」

◯ルカによる福音書6章45節
「善い人は、心にある善い倉から善い物を出し、悪い人は、心にある悪い倉から悪い物を出す。口は心に溢れることを語るものである」

◯マタイによる福音書18章7節
「人をつまずかせるこの世は不幸である。つまずきは避けられない。しかし、人をつまずかせる者は不幸である」

◯ルカによる福音書17章1節~2節
「また、イエスは弟子たちに仰せになった、『つまずきが生じるのを避けることはできない。しかし、それをもたらす人は不幸である。その人にとって、この小さな者の一人をつまずかせるよりは、むしろ首に碾(ひ)き臼(うす)をくくられ、海に投げ込まれるほうがましである』」

◯マタイによる福音書12章33節~35節
「木が善ければその実も善く、木が悪ければその実も悪いと思いなさい。木はその実によって分かる。蝮(まむし)の子らよ、悪人でありながら、どうしてお前たちが善いことを語ることができるのか。口は心に溢れることを語るものである。善い人は、善い物を入れた倉から善い物を取り出し、悪い人は悪い物を入れた倉から悪い物を取り出す」

◯マタイによる福音書15章11節、17節~20節
「口に入るものが人を汚(けが)すのではない。口から出るものが人を汚すのである」
「口に入るものはみな腹に入り、厠(かわや)に落ちることが分からないのか。しかし、口から出てくるものは、心から出てくるもので、これが人を汚す。悪い考えや、殺人、不品行、盗み、偽証、冒瀆(ぼうとく)は、心から出てくる。これこそが人を汚す。手を洗わずに食べることは人を汚さない」

主イエス・キリストの御言葉をレビ記19章と関連付けて比較すると、この箇所で主は神への愛と隣人愛の反対に該当する事柄について全般的にお話しになられていると、理解できる。

◯マルコによる福音書7章14節~15節、20節~23節
「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて仰せになった、『みな、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の中に入るもので、人を汚すことのできるものは何一つない。人の中から出てくるものが人を汚すのである』」
「さらにまた仰せになった、『人から出てくるもの、それが人を汚すのである。内部、すなわち人の心の中から邪念が出る。姦淫、盗み、殺人、姦通、貪欲、悪行、詐欺(さぎ)、卑猥(ひわい)、妬み、謗り、高慢、愚かさなど、これらの悪はすべて内部から出て、人を汚すのである」

フランシスコ会聖書研究所訳では21節で「邪念」と表現されている原文のギリシア語は、新共同訳では「悪い思い」、バルバロ訳(講談社)「悪い考え」、ラゲ訳(中央出版社)「悪念」などとそれぞれ表現されている。ここでも同じく、主は神への愛と隣人愛の反対に該当する事柄について全般的にお話しになられている。
ルカ福音書2章11節には、「救い主(すくいぬし)」の誕生について語られている。

◯ルカによる福音書2章11節
「今日(きょう)、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」

フランシスコ会訳の「メシア」という表現に該当する原文のギリシア語表現は、「クリストス(Χριστός – christos)」すなわちキリストである。
この箇所については、日本聖書協会新共同訳もフランシスコ会訳と同様に「メシア」という表現であり、一方で講談社バルバロ訳や中央出版社ラゲ訳では「キリスト」となっている。

さて、マタイ福音書1章では、聖霊によるマリアの妊娠に関連して、マリアの産む男の子は「自分の民を罪から救う」ということを、次のように記述している。

◯マタイによる福音書1章18節~21節
「イエス・キリスト誕生の次第は次のとおりである。イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身籠(みごも)っていることが分かった。マリアの夫ヨセフは正しい人で、マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。ヨセフがこのように考えていると、主の使いが夢に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎え入れなさい。彼女の胎内に宿されているものは、聖霊によるのである。彼女は男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。その子は自分の民を罪から救うからである』」

「救い主」である主イエス・キリストは、「罪」から人々を救われるということになる。

ルカ福音書1章77節には、「罪の赦(ゆる)しによる救い」という表現がある。

洗礼者ヨハネは主イエス・キリストを次のような表現で呼んでいた。

◯ヨハネによる福音書1章29節
「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方に来られるのを見て、こう言った、『見るがよい。世の罪を取り除く神の小羊だ』」

「神の小羊」の前に、「世の罪を取り除く」とある。

さらにマタイ福音書6章には、「山上の説教」における、主イエス・キリストの次のような御言葉を記録している。

◯マタイによる福音書6章9節~15節
「だから、あなた方はこう祈りなさい、『天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように。今日の糧(かて)を今日お与えください。わたしたちの負い目をお赦しください。同じようにわたしたちに負い目のある人をわたしたちも赦します。わたしたちを誘惑に陥(おちい)らないよう導き、悪からお救いください』。人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦してくださる。しかし、あなた方が人を赦さないなら、あなた方の父も、あなた方の過ちを赦してくださらない」

「悪」から救ってくださるよう御父である神に祈ることを、御子である主イエス・キリストは人々に説教されたのである。

そしてヨハネ福音書12章において主イエス・キリストは、御自分が到来された意義について、次のように語られている。

◯ヨハネによる福音書12章44節~50節
「イエスは叫んで仰せになった、『わたしを信じる人は、わたしを信じるのではなく、わたしをお遣わしになった方を信じるのである。また、わたしを見る人は、わたしをお遣わしになった方を見るのである。わたしは光として世に来た。わたしを信じる人がみな、闇(やみ)の中に留(とど)まることのないためである。わたしの言葉を聞いて、それを守らない人がいても、わたしはその人を裁かない。わたしが来たのは、世を裁くためではなく、世を救うためである。わたしを拒み、わたしを受け入れない人には、その人を裁くものがある。わたしの語った言葉、それが、終わりの日にその人を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではない。わたしをお遣わしになった父ご自身が、わたしの言うべきこと、また語るべきことを、お命じになったからである。わたしは、父の命令が永遠の命であることを知っている。それで、わたしが語ることは、父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」

この箇所においては、「救い主」が到来された意義とは人々を「永遠の命」に導くことであると、明言されているが、次の箇所でも同様の事柄が説明されている。

◯ヨハネによる福音書17章1節~3節
「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで仰せになった、『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すことができるように、あなたの子に栄光をお与えください。あなたはすべての人を治める権能を、子にお与えになりました。子があなたに与えられたすべての人に、永遠の命を与えるためです。永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたを知り、またあなたがお遣わしになった、イエス・キリストを知ることです』」

ヨハネ福音書6章でも、主イエス・キリストが同じように語られている。

◯ヨハネによる福音書6章38節~40節
「わたしが天から降(くだ)ってきたのは、自分の意志を果たすためではなく、わたしをお遣わしになった方のみ旨を行うためである。わたしをお遣わしになった方のみ旨とは、わたしに与えてくださったすべてのものを、わたしが一人も失うことなく、終わりの日に、復活させることである。実に、わたしの父のみ旨とは、子を見て信じる者がみな、永遠の命を持ち、わたしが、その人を終わりの日に復活させることである」」

◯ヨハネによる福音書15章23節~25節
「わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいるのである。ほかの誰も行わなかったような業を、わたしが彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今、彼らはその業を憎んでいる。しかし、これは、『人々は理由なしにわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれている言葉が成就するためである」

ヨハネ福音書では時として「律法」という表現で旧約聖書全体を指している場合があるが、25節の「人々は理由なしにわたしを憎んだ」と関連しているのは、詩編の35(34)編19節そして69(68)編5節である。

◯マタイによる福音書5章8節
「心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る」

◯マタイによる福音書15章11節、17節~20節
「口に入るものが人を汚(けが)すのではない。口から出るものが人を汚すのである」
「口に入るものはみな腹に入り、厠(かわや)に落ちることが分からないのか。しかし、口から出てくるものは、心から出てくるもので、これが人を汚す。悪い考えや、殺人、不品行、盗み、偽証、冒瀆(ぼうとく)は、心から出てくる。これこそが人を汚す。手を洗わずに食べることは人を汚さない」

主イエス・キリストの御言葉をレビ記19章と関連付けて比較すると、この箇所で主は神への愛と隣人愛の反対に該当する事柄について全般的にお話しになられていると、理解できる。

◯マタイによる福音書12章33節~35節
「木が善ければその実も善く、木が悪ければその実も悪いと思いなさい。木はその実によって分かる。蝮(まむし)の子らよ、悪人でありながら、どうしてお前たちが善いことを語ることができるのか。口は心に溢れることを語るものである。善い人は、善い物を入れた倉から善い物を取り出し、悪い人は悪い物を入れた倉から悪い物を取り出す」

ヨハネの第一の手紙3章には、憎しみにとらわれている人には「永遠の命は留まりません」ということが記されている。

◯ヨハネの第一の手紙3章8節~10節、12節、15節
「罪を犯す人は、悪魔に属しています。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子は、悪魔の業を滅ぼすために現れたのです。神から生まれた人はみな、罪を犯しません。神の種がその人のうちに止まっているからです。その人は、神から生まれたので、罪を犯すことができません。このことによって、神の子と悪魔の子との区別は明らかです。義を行わない人はみな、神に属していないものです。また、兄弟を愛さない者も同様です」
「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属し、兄弟を殺しました」
「兄弟を憎む人はみな、人殺しです。あなた方も知っているように、すべて人殺しのうちには、永遠の命は留まりません」

ヨハネ福音書3章では、御子である主イエス・キリストが「神の独り子」であるとして表現されている。

◯ヨハネによる福音書3章16節~18節
「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。神が御子(おんこ)をこの世にお遣わしになったのは、この世を裁くためではなく、御子によって、この世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じなかったからである」

次の箇所は主イエス・キリストの御言葉を記録しているが、ここでは「聖書」は、旧約聖書を意味している(次の発言がなされた時点ではまだ「新約聖書」は全く記されてはいない)。

◯ヨハネによる福音書5章39節~40節
「あなた方は聖書を調べている。その中に永遠の命があると、思い込んでいるからである。だが、その聖書は、わたしについて証しするものである。それなのに、あなた方は、命を得るために、わたしの所に来ようとはしない」

ヨハネの第一の手紙1章には、「神の子イエスの血が、わたしたちをあらゆる罪から清めてくださいます」と書かれている。

◯ヨハネの第一の手紙1章5節~7節
「わたしたちが、イエスから聞いたことで、あなた方に告げ知らせるのは、神は光で、神の中に闇(やみ)はまったくないということです。もしわたしたちが、神と交わりをもっていると言いながら、闇の中を歩むなら、わたしたちは嘘(うそ)をついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、わたしたちは互いに交わりをもち、神の子イエスの血が、わたしたちをあらゆる罪から清めてくださいます」

「永遠の命」という表現は、ヨハネ福音書の他の箇所でも言及されている。

◯ヨハネによる福音書10章28節~30節
「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らはいつまでも滅びることがなく、誰(だれ)もわたしの手から、彼らを奪い去りはしない。わたしの父がわたしにくださったものは、他の何ものにも勝るものであり、誰もわたしの父の手から、奪い去ることはできない。わたしと父とは一つである」

◯ヨハネによる福音書10章37節~38節
「わたしが父の業を行っていないなら、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているなら、たとえわたしを信じなくとも、業を信じなさい。そうすれば、父がわたしのうちにおられ、わたしが父のうちにいることを、あなた方は知り、悟るであろう」

ヨハネ福音書10章38節(そして30節)において主イエス・キリストは、「父である神」と「子である神」との間には本質的な差異が全く存在しないことを、明言しておられる。

◯ヨハネによる福音書14章6節~11節
「イエスは仰せになった、『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。あなた方がわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。いや、もう今から父を知っており、また、すでに父を見たのである』。フィリポがイエスに言った、『主よ、わたしたちに御父(おんちち)をお見せください。それで十分です』。イエスは仰せになった、『フィリポ、こんなに長い間、あなた方とともにいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。なぜ、『わたしたちに御父をお見せください』と言うのか。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられることを、あなたは信じないのか。わたしがあなた方に言う言葉は、自分勝手に語っているのではない。わたしのうちにおられる父が、ご自分の業を行っておられるのである。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。それができないなら、業そのものによって信じなさい」

◯マタイによる福音書7章1節~2節
「裁いてはならない。裁かれないためである。あなた方が人を裁くように、あなた方は裁かれ、あなた方が量るその升で、あなた方にも量り与えられる」

◯ルカによる福音書6章37節~38節
「裁いてはならない。そうすれば、あなた方も裁かれない。人を罪に定めてはならない。そうすれば、あなた方も罪に定められない。赦(ゆる)しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。与えなさい。そうすれば、あなた方にも与えられる。押し入れ、揺さぶり、溢(あふ)れるほど升(ます)の量りをよくして、あなた方のふところに入れてもらえる。あなた方が量るその升で、あなた方も量り返されるからである」

◯マタイによる福音書18章21節~22節
「その時、ペトロが近寄って、イエスに尋ねた、『主よ、わたしの兄弟がわたしに罪を犯した場合、何度、赦さなければなりませんか。七回までですか』。イエスはお答えになった、『あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までである』」

◯ルカによる福音書17章3節~4節
「気をつけなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして、悔い改めるなら、彼を赦しなさい。また。もし彼が一日に七度、あなたに対して罪を犯し、七度あなたのもとに戻ってきて、そのつど、『悔い改めます』と言うなら、彼を赦しなさい』」

◯マタイによる福音書5章21節~24節
「あなた方も聞いている通り、昔の人々は、『殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられていた。しかし、わたしはあなた方に言っておく。兄弟に対して怒る者はみな裁きを受ける。また兄弟に『ばか者』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に落とされる」
「祭壇に供え物をささげる時、兄弟があなたに恨みを抱いているのを思い出したなら、供え物を祭壇の前に置き、行って、まず兄弟と和解しなさい。それから戻ってきて、供え物をささげなさい」

なぜ、「兄弟に対して怒る者はみな裁きを受ける」のか、それはルカ福音書6章36節で「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」と主イエス・キリストが教えられているからである。

◯ルカによる福音書6章34節~36節
「返してくれるあてのある人に貸したからといって、何の恵みがあるだろうか。返してもらえるのなら、罪人でさえ罪人に貸している。しかし、あなた方はあなた方の敵を愛しなさい。人に善を行いなさい。また、何もあてにしないで貸しなさい。そうすれば、あなた方の報いは大きく、あなた方は、いと高き方の子らとなる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い方だからである。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」

◯マタイによる福音書5章43節~45節、48節
「あなた方も聞いているとおり、『あなたの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、あなた方に言っておく。あなたの敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい。それは、天におられる父の子となるためである。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせて下さるからである」
「だから、天の父が完全であるように、あなた方も完全な者となりなさい」

◯マタイによる福音書6章14節~15節
「人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦してくださる。しかし、あなた方が人を赦さないなら、あなた方の父も、あなた方の過ちを赦してくださらない」

◯マタイによる福音書7章1節~2節
「裁いてはならない。裁かれないためである。あなた方が人を裁くように、あなた方は裁かれ、あなた方が量るその升(ます)で、あなた方にも量り与えられる」

◯マタイによる福音書18章7節
「人をつまずかせるこの世は不幸である。つまずきは避けられない。しかし、人をつまずかせる者は不幸である」

◯マタイによる福音書24章10節、12節
「その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合う」
「悪がはびこるので、多くの人の愛が冷える」

◯ヨハネの第一の手紙2章9節~11節
「光の中にいると言いながら、自分の兄弟を憎む人は、今もなお闇の中にいるのです。兄弟を愛する人は、光の中に留(とど)まっており、つまずくことがありません。自分の兄弟を憎む人は、闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこに行くのか知りません。闇が彼の目を見えなくしたからです」

◯ヨハネの第一の手紙2章3節~6節
「もしわたしたちが神の掟を守るなら、そのことにおいて、わたしたちは神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、その掟を守らない人は、偽り者であり、その人の中に真理はありません。しかし、神の言葉を守る人は、その人のうちにほんとうに神の愛が全(まっと)うされています。そのことにおいて、わたしたちは神のうちにいることが分かります。神のうちに留まっていると言う人は、イエスが歩まれたように、その人も歩まなければなりません」

◯ヨハネの第一の手紙4章16節
「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知っており、また、信じているのです」
「神は愛です。愛のうちに留まる人は、神のうちに留まり、神もまた、その人のうちに留まっておられます」

◯マルコによる福音書12章28節~34節
「さて、この議論を聞いていた律法学者の一人は、イエスの巧みな答えぶりを見て、進み出て尋ねた、『すべての掟のうちで、どれが第一の掟ですか』。イエスはお答えになった、『第一の掟はこれである、《イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ》。第二の掟はこれである、《隣人をあなた自身のように愛せよ》」。この二つの掟よりも大事な掟はない』。そこで、その律法学者は言った、『先生、確かにそうです。主は唯一であり、主のほかに神はないとは、実に立派なお答えです。また、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、神を愛すること、および隣人を自分自身のように愛することは、どんな焼き尽くす献(ささ)げ物(もの)や犠牲(いけにえ)よりも、遥(はる)かに優れています』。イエスは、その律法学者の賢い受け答えを見て、仰せになった、『あなたは神の国から遠くない』。それ以後は、誰(だれ)もイエスにあえて尋ねようとしなかった」

マルコ12章31節の「第二の掟」つまり隣人愛の掟は、レビ記19章18節に書かれているものである。ただし、レビ記19章には、隣人愛とは反対の行為についても、具体的に書かれている。

◯ルカによる福音書6章31節
「あなた方は、人からしてほしいことを、人にもしなさい」

◯マタイによる福音書7章12節
「だから、何事(なにごと)につけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてあげなさい。これが律法と預言者の教えである」

◯ヨハネによる福音書17章1節~3節
「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで仰せになった、『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すことができるように、あなたの子に栄光をお与えください。あなたはすべての人を治める権能を、子にお与えになりました。子があなたに与えられたすべての人に、永遠の命を与えるためです。永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたを知り、またあなたがお遣わしになった、イエス・キリストを知ることです』」

◯ルカによる福音書6章27節~30節
「しかし、わたしは耳を傾けているあなた方に言う。敵を愛し、あなた方を憎む者に善を行いなさい。呪う者を祝福し、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬(ほお)を打つ者に、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪う者には、下着をも拒んではならない。求める者には誰(だれ)にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪おうとする者から、取り戻そうとしてはならない」

◯マルコによる福音書14章65節
「ある者たちはイエスにつばを吐きかけ、また目隠しをして、こぶしで打ち、『言い当ててみろ』と言い出した。下役たちも寄ってたかって平手打ちにした」

◯マタイによる福音書26章67節~68節
「そして、人々はイエスの顔につばを吐きかけ、こぶしで殴り、またある者は平手で打って言った、メシアよ、お前を打ったのは誰か、言い当ててみろ」

◯マタイによる福音書5章38節~42節
「あなた方も聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしはあなた方に言っておく。悪人に逆らってはならない。右の頬(ほお)を打つ者には、ほかの頬も向けなさい。また、あなたを訴えて下着を取り上げようとする者には、上着をも取らせなさい。無理にも一ミリオンを歩かせようとする者とは、一緒に二ミリオン歩きなさい。あなたから借りようとする者に背を向けてはならない」

◯マタイによる福音書27章27節~30節
「さて、総督の兵士たちはイエスを総督官邸に連れていき、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取って、赤いマントを着せ、茨(いばら)で冠を編み、頭にかぶせ、また右手に葦(あし)の棒を持たせて、彼の前にひざまずき、『ユダヤ人の王さま、万歳』と言って、なぶりものにした。さらに、イエスにつばを吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭を打った」

◯マルコによる福音書15章16節~19節
「すると兵士たちはイエスを中庭、すなわち総督官邸の中庭に連れていき、舞台の全員を呼び集めた。そして、兵士たちはイエスに深紅のマントを着せ、茨の冠を編んでかぶせ、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、敬礼した。また、葦の棒で頭をたたいたり、つばを吐きかけたり、ひざまずいて拝んだりした」

◯ヨハネによる福音書19章1節~3節
「そこでピラトはイエスを連れていかせ、鞭(むち)で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭にかぶせ、深紅のマントを着せた。そして、そばに歩み寄っては平手で打って言った、『ユダヤ人の王、万歳』」

◯ルカによる福音書23章39節~43節
「十字架にかけられた犯罪人の一人が、イエスを侮辱して言った、『お前はメシアではないか。自分とおれたちを救ってみろ』。すると、もう一人の犯罪人が彼をたしなめて言った、『お前は同じ刑罰を受けていながら、まだ神を畏(おそ)れないのか。われわれは、自分のやったことの報いを受けているのだからあたりまえだが、この方は何も悪いことをなさっていない』。そして言った、『イエスよ、あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください』。すると、イエスは仰せになった、『あなたによく言っておく。今日(きょう)、あなたはわたしとともに楽園にいる』」

◯ルカによる福音書23章44節~46節
「さて、時はすでに正午ごろであった。全地を闇(やみ)が覆い、三時まで続いた。太陽は光を失った。聖所の垂れ幕が真ん中から二つに裂けた。その時、イエスは声高く叫んで仰せになった、『父よ、わたしの霊をみ手に委ねます』。こう仰せになると、息を引き取られた」

神殿の聖所の垂れ幕は、ユダヤ教の伝承文学であるミシュナの記述によれば、かなりの重厚長大な造り(縦が約一八メートル、横幅が約九メートル、厚さは掌の横幅分)であったとされている。
ルカ23章45節には「聖所の垂れ幕が真ん中から二つに裂けた」とあるが、これほどまでに巨大な垂れ幕を人為的な方法で真ん中から二つに裂くことは、恐らく不可能であろう。

別の福音書には、主イエス・キリストの臨終の際に神殿の聖所の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと書かれているが(マタイ27章51節、マルコ15章38節)、垂れ幕がミシュナの記述通りの重厚長大な造り(縦が約一八メートル、横幅が約九メートル、厚さは掌の横幅分)であったとすれば、その瞬間に垂れ幕に働いた力の大きさおよびその起源とは、やはり尋常ならざるものであったと考えざるを得ない。

◯ヨハネによる福音書19章28節~30節
「その後、イエスは、もはやすべてが成し遂げられたことを知って仰せになった、『渇く』。こうして、聖書の言葉は成就した。そこには、酸(す)いぶどう酒がいっぱい入った器が置いてあった。兵士たちは、このぶどう酒をたっぷり含ませた海綿をヒソプにつけて、イエスの口元に差し出した。イエスは酸いぶどう酒を受けると仰せになった、『成し遂げられた』。そして、頭を垂れ、霊をお渡しになった」