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試論:「ふざけただけ」を140文字以内で

主イエスはマルコ12章31節で、重要な掟の第二に隣人愛(レビ19章18節)を挙げられた。レビ19章は「隣人愛の反対」となる行為を禁じ、17節では心に悪意を抱いたまま隣人に接することを戒める。箴言26章19節はふざけただけの軽いつもりでも相手には「死の矢」(18節)になると教える。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

【追記】

レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

主はレビ記19章18節を引用されて、「自分自身を愛するように隣人を愛する」ことをお教えになった。レビ記の同じ章では隣人愛に反する様々な行為を禁じているが17節は「心の中で憎む」ことを禁じ、たとえあからさまに憎しみを表現しなくとも心の中で密かに憎しみを抱き続けることさえ禁じている。

マタイ18章6節で主は「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められる方がましである」と仰せになり、子供のような心で神を信じている人に悪を教え込もうとする者に対して、神がとりわけ厳しい罰をもって臨まれることを、主は宣言された。

主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

御受難前に主は、「理由のない憎しみ」(ヨハネ15章25節)に言及され、また人心荒廃が神殿の滅亡に先立つと予告された(マタイ24章10節、12節)。約四十年後に神殿は滅亡し、さらにその数十年後あるユダヤ教の高名なラビは、「理由のない憎しみ」の蔓延により神殿は滅亡したと、結論付けた。

主はマタイ24章10節と12節で、人心の荒廃が神殿の滅亡に先立つことを予告された。一方で一世紀ユダヤの歴史家ヨセフスは、紀元七〇年のエルサレム滅亡以前に暗殺や強盗殺人がユダヤの各地で頻発し、加害者が相手をローマの手先呼ばわりして自分たちの悪事を正当化していた事実を著作に記述した。

(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/84

(注)別エントリー「試論:ガリラヤのユダを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9363

(注)別エントリー「試論:古代ユダヤの社会不安を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6268