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「携挙」:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】

近代キリスト教世界において、カトリック以外のある教派で、いわゆる「携挙」という概念が誕生し、やがて少しずつ広まっていった。

この「携挙」という概念は、カトリック教会の聖伝という立場から考えれば、かなり奇妙なものに感じられる。

聖書のいくつかの箇所には、この「携挙」という問題のまさに「キーワード」となる、

「アエール(αηρ – aēr)」

というギリシア語が登場する。

このギリシア語「アエール」は、英語の「エアー/エア(air)」の由来となった言葉であり、英語の「エアー/エア(air)」は現代では非常に一般的な単語であるところから、現代の読者が聖書でギリシア語の「アエール」が登場する箇所に出会うと、英語の「エアー」からの連想で、現代人はどうしてもすぐに「空気」そして「空中」をイメージしてしまいがちである。

しかし、「熱気球」の発明や「酸素」と「窒素」の発見がなされた18世紀以降における自然科学の著しい発展に伴い、英語の「エアー/エア(air)」の概念は大きな変化を経験していた。
その結果として、そもそもの由来となったギリシア語「アエール」と英語の「エアー」との間には、決して小さいとは言えない意味合いの隔たりが生じてしまった。

古代ギリシアの思想をある程度学んだ経験を持つ人々にとって、この意味合いの隔たりという事実は、比較的よく知られた話題である。

ただし、非常に残念なことだが、この意味合いの隔たりに関して、近現代の神学者たちや聖書学者たちはほとんど注意を払ってこなかった。

航空機が一般人にも広く利用されている20世紀以降に生きている現代人は、「航空機/航空」という意味合いで自然と英語の「エアー/エア(air)」という単語を受け止めるようになった。
しかし当たり前といえば当たり前の話だが、英語の「エアー/エア(air)」という単語から、一般の人々が「航空機/航空」そして「はるか大空の高いところにある場所」というニュアンスを強く感じ取るようになったのも、やはり航空機が発明された20世紀以降ということになる。

問題の「アエール(αηρ – aēr)において」を「大気の中で」と解釈するならば、それは必ずしも「空中」を意味せず、「地上」をも包含し得ることになる。

一方、新約聖書で「空の鳥」と日本語訳される箇所においては、その場合の「空」に対応する原文のギリシア語は「ウーラノス(ουρανος – ouranos)」である、という別の問題も存在する。

従って、「携挙」という問題を考えるに当たって、聖書に登場する「空中」という表現を取り扱う際には、十二分に吟味する必要がある。

古代においては、この「アエール」とはどちらかといえば、「大気」や「大気現象全般」すなわち「気象」「気候」に広く関係する言葉だったからである。

つまり、現代人の持つイメージとは異なり、「アエール」は、「空(くう)」(空(そら)または空中あるいは空間)より、むしろ「気(き)」(大気)を表現する言葉だったということになる。

さらにもう一つまた別の重要な問題点として、現代人なら「空中」と表現する領域に対して、旧約聖書のヘブライ語では「地と天の間」(あるいは「天と地の間」)という言い回しを用いており、決して「空中」という表現は用いられてはいないという事実がある。

創世記1章の天地創造に関する記述に基づく世界観を持つ古代のヘブライ人にとって、「空中」という表現は明らかに馴染みが薄かった。

なぜ近代以降、カトリック以外のいくつかの教派において、「携挙」や「空中再臨」といった概念が広まったのか、そして、なぜそれらの概念がカトリック教会の伝統的な聖書解釈とは合致しないのか、以下に考察していく。

〔目次〕

【1】聖書ギリシア語を日本語訳した場合に生じる問題点
【2】「天におられる父」の「天」も、「ごらんよ空の鳥」の「空」も、実は同じギリシア語
【3】聖書ギリシア語の「空中」とは、一体どんな領域を意味しているのか
【4】聖パウロは本当のところ「(空中)携挙」という概念を持っていたのか
【5】ホメロスそして古代のギリシア語旧約聖書における「アエール」
【6】黙示録にも「アエール」が二箇所に登場する
【7】主イエス・キリストの来臨に伴って現れる「天の雲」と、「アエール」との関係

(以下、聖書の日本語訳は基本的にフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によるものとし、その他の翻訳を提示する場合にはその都度、説明を加えます。)

【1】聖書ギリシア語を日本語訳した場合に生じる問題点

マタイ福音書5章3節には、一般的に「心の貧しい人は幸いである」と日本語訳されることが多い一節があり、この箇所はキリスト教の信者でない人々の間でも広く知られている。

しかしこの「心の貧しい人」という表現に対しては、「日本人が一般的に否定的なイメージを抱く【心の貧しい人】と、マタイ5章3節で『幸いである』と肯定的に評価される《心の貧しい人》とは、実のところ明らかに別概念であり、この『心の貧しい人』という表現は、訳語として相応しくないと考えられる」と指摘する意見も、当然ながら存在してきた。

例えばフランシスコ会訳では「自分の貧しさを知る人」という表現を本文で採用し、欄外の注では「『自分の貧しさを知る人』は、一般には『心の貧しい人』と訳されているが、直訳では『霊において貧しい人』。人を幸福にするものは、自分の力で手に入れられるこの世の富ではなく、祈りによって神から与えられる恵みだけである。」と書かれている。

この「心の貧しい人」は、聖書ギリシア語を日本語訳した際に、実際の聖書ギリシア語が持つ意味と現代日本語訳が持つイメージとのギャップを説明する場合の、ある意味「典型例」ともいえる。

さて新約聖書には、「心の貧しい人」以外にも、「実際の聖書ギリシア語の意味するところ」と、「現代日本語訳が読者に抱かせるイメージ」との間に、実は著しいギャップがあるか、または全く互いに別物なのではないか、と疑問を生じさせる表現が存在する。

このエントリーでは、いわゆる「パウロの手紙」と総称される書簡群の中に見受けられる、

「空中」(エフェソ2章2節、一テサロニケ4章17節。新共同訳、バルバロ訳、ラゲ訳)

と一般に日本語訳されることの多い表現について、はたしてこの「空中」という表現は日本語訳として本当に適切なのかどうか、これより検討していく。

【2】「天におられる父」の「天」も、「ごらんよ空の鳥」の「空」も、実は同じギリシア語

◯マタイによる福音書6章9節~13節(フランシスコ会訳)
「だから、あなた方はこう祈りなさい、『天(ουρανοις – ouranois)におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように。今日の糧(かて)を今日お与えください。わたしたちの負い目をお赦(ゆる)しください。同じようにわたしたちに負い目のある人をわたちたちも赦します。わたしたちを誘惑に陥らないよう導き、悪からお救いください』。」

「天におられるわたしたちの父よ」の「天」は、原文(ギリシア語本文)では、”ουρανος – ouranos”である。

◯マタイによる福音書6章26節(フランシスコ会訳)
「空(ουρανου – ouranou)の鳥を見なさい。種蒔(たねま)きも、刈り入れもせず、また倉に納めることもしない。それなのに、あなた方の天の父はこれを養ってくださる。あなたがたは鳥よりも遥(はる)かに優れている。」

◯マタイによる福音書8章20節(フランシスコ会訳)
「イエスは仰せになった、『狐(きつね)には穴があり、空(ουρανου – ouranou)の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕(まくら)する所もない』。」

「空の鳥」の「空」は、原文のギリシア語では、”ουρανος – ouranos”である。

つまり、「天におられる」の「天」も、「ごらんよ空の鳥」の「空」も、原文(ギリシア語本文)では同じく、「ウーラノス(ουρανος – ouranos)」という言葉で表現されている。

マタイ13章32節で、「からしだねのたとえ」に登場する「空の鳥」に関しても、同様である。

新約聖書において、日本語訳で「空の鳥」という表現は他のいくつかの箇所でも登場するが、その場合でも「空」は、原文のギリシア語では「ウーラノス(ουρανος – ouranos)」である。

また、古代のギリシア語訳旧約聖書である七十人訳聖書においても、ヘブライ語原文で「空の鳥」となっている箇所では、「空」のギリシア語訳は「ウーラノス(ουρανος – ouranos)」である。

一方、「パウロの手紙」の中で「空中」(エフェソ2章2節、一テサロニケ4章17節)と日本語訳されている箇所に用いられている原文のギリシア語は、上記の”ουρανος – ouranos”とも異なり、

“αηρ – aēr”(「アエール」)

という、また別の単語である。

つまり、「パウロの手紙」で「空中」と表現されている領域は、「天におられるわたしたちの父」がおられる領域と異なるのはもとより、「空の鳥」が飛んでいる領域とも差異が存在する可能性も考えられる。

もしも福音書が「空の鳥」が飛んでいる領域を「アエール」とは別のギリシア語で表現しているとするなら、問題の「アエール」の意味合いについて再検討する必要が出て来るのは当然である。

ちなみに、現代人であれば「空中」と表現する領域について、旧約聖書のヘブライ語では、

「地と天の間」(歴代誌上21章16節、エゼキエル書8章3節、ゼカリヤ書5章9節)

あるいは、

「天と地の間」(サムエル記下18章9節)

といった言い回しを用いており、決して現代人が用いるような「空中」という表現を使っていないことに、留意すべきであろう。

◯歴代誌上21章16節(フランシスコ会訳)
「ダビデが目を上げると、主の使いが地と天の間に立っているのを見た。」

◯エゼキエル書8章3節(フランシスコ会訳)
「その者が手のようなものを伸ばして、わたしの髪の毛の房を掴んだ。すると霊がわたしを天と地の間に引き上げ、そのまま神の幻のうちにエルサレムへ、北に面した内門の入り口へと運んで行った。」

新共同訳ではヘブライ語本文の語順通り、「地と天の間」と訳されている。

◯ゼカリヤ書5章9節(フランシスコ会訳)
「それからわたしが目を上げて見ると、二人の女が翼に風を孕(はら)んで出てきた。彼女たちは、こうのとりのような翼を持ち、天と地の間でエファ升を持ち去ろうとしていた。」

新共同訳ではヘブライ語本文の語順通り、「地と天の間」と訳されている。

つまり、上に挙げた例のいずれも、ヘブライ語本文に従うなら「空中」という言い回しにはなっていないのである。

そして、古代のギリシア語訳旧約聖書においても、これらの箇所は、原文のヘブライ語に忠実に、

「地(γη – gē)」

「天(ουρανος – ouranos)」

などの表現を用いて、

「地と天の間で(ανα μεσον της γης και ανα μεσον του ουρανου)」

という、現代人から見ればかなり回りくどい表現を用いて、現代人なら「空中で」と表現する事柄について表現している。

現代人ならば「空中」と簡単に表現するところを、なぜ古代の聖書では別のかなり回りくどい表現になってしまうのかといえば、創世記1章で語られている次のような世界観(宇宙観)がその前提として存在することによる。

◯創世記1章6節〜10節(フランシスコ会訳)
「次に、神は仰せになった、『水の中に大空(おおぞら)あれ。そして水と水を分けよ』。すると、そのとおりになった。神は大空を造り、その下の水と上の水とを分けられた。神は大空を『天』と名づけられた。そして夕べとなり朝となり、二日目が過ぎた。」
「次に、神は仰せになった、『天の下の水は一か所に集まれ。そして乾いた所が現れよ』。すると、そのとおりになった。神は乾いた所を『地』と名づけ、水の集まった所を『海』と名づけられた。神はそれを見て善しとされた。」

まさにこのような世界観(宇宙観)に基づいているがゆえに、現代人ならば簡単に「空中」と表現してしまう領域に関して、聖書ヘブライ語や聖書ギリシア語においてはどうしても回りくどいことになってしまうのである。

ちなみに、古代のギリシア語訳旧約聖書では、創世記1章の「大空」を表現する場合、

「ステレオーマ(στερέωμα – stereōma)」

という単語を用いている。

これは、聖パウロが一テサロニケ4章17節で「空中」を表現する際に用いている、

「アエール(αηρ – aēr)」

とは全く異なるものである。

創世記1章の天地創造に関する記述に基づく世界観を持つ古代のヘブライ人にとって、「空中」という表現は明らかに馴染みが薄かった。
そして、聖パウロ自身、コリントの人々への第二の手紙11章22節で認めているように、紛れもなく古代に生きる一人のヘブライ人であった。
本来、聖パウロにとって、「空中」という表現は明らかに馴染みが薄かったはずである。

ならば、一体、「パウロの手紙」が言及している「空中」(エフェソ2章2節、一テサロニケ4章17節)とは、どのような領域なのであろうか?

【3】聖書ギリシア語の「空中」とは、一体どんな領域を意味しているのか

古代ギリシアの世界観(宇宙観)では、人間の住む領域には、

「アエール(αηρ – aēr)」

というギリシア語で表現される「元素」が存在しており、それに対して、より上層の領域(人間を超える存在が住んでいると考えられた領域)には、

「アイテール(αιθηρ – aithēr)」

というギリシア語で表現される「元素」が存在しているものと考えられていた。

このギリシア語の「アエール(αηρ – aēr)」は、「空(くう)」あるいは「空気」などと日本語訳され、英語の「エアー(air)」やフランス語の「エール(air)」の語源となったものである。

そして、「アエール(αηρ – aēr)」に比べると「アイテール(αιθηρ – aithēr)」は、より清浄な(あるいは清澄な)性質を持つものと考えられていた。

つまり、「アイテール(αιθηρ – aithēr)」が存在するのが世界のより上層(上層世界、天上界)であり、それに対して「アエール(αηρ – aēr)」が存在する人間の生活圏は世界のより下層(下界、下層世界、地上界、現代風にいえば大気圏)であると、古代のギリシア人たちは考えていたことになる。

そこで、新約聖書のパウロの手紙の中で、「アエール(αηρ – aēr)において」というギリシア語の言い回しが登場する場合、英訳聖書の”air”という表現を踏まえて考えるならば、どうしても「空中」(エフェソ2章2節、一テサロニケ4章17節)と日本語訳したくなるところであるが、聖パウロによってギリシア語原文が書かれた当時の古代人の世界観(宇宙観)にさかのぼって考えるのならば、「アエールにおいて(εις αερα – eis aera)」(一テサロニケ4章17節)という聖書ギリシア語の言い回しは、「アエールの存在する領域で」すなわち、「下界で」「大気圏で」「人間界で」「地上で」「この世で」「現世で」などと意訳した方が、著者である聖パウロの意図するところを忠実に反映することができるものと考えられる。

なぜなら、「アエール(αηρ – aēr)」は「下界(人間界)」を象徴的に表現する「元素」だからである。

「アエールにおいて」を「大気圏で」とか「大気の中で」と解釈するならば、その場合そこは必ずしも「空中」を意味せず、「地上」をも包含し得る。

このことから、聖パウロはエフェソ2章2節において、(「空中」あるいは「中空」とも日本語訳される)ギリシア語の”aēr”を比喩的・象徴的に用いて、実のところ、<人間界>(人間の生活圏、人間世界)もっと言えば<世間、俗世間>に関する事柄を説明した。

◯エフェソの人々への手紙2章1節、2節(フランシスコ会訳)
「ところで、あなた方は自分たちの咎(とが)と罪によって死んだ者でした。」(1節)
「あなた方は、この世の流れに合わせ、中空(αερος – aeros)にあって支配権を握っている権威の霊、すなわち、不従順な者たちのうちに現に力を奮っている霊に従って歩んでいました。」(2節)

日本聖書協会新共同訳や講談社バルバロ訳それに中央出版社ラゲ訳は、いずれも「中空」ではなく「空中」という訳語であり、一般的にエフェソ2章2節の訳語としては、「空中」の方が信徒にとってなじみ深い表現であるはずである。

フランシスコ会訳の欄外の注には、

「(1)『中空』は、地上と天の間の空間である。パウロの時代の人々は、ここを天の力あるものらの領分、あるいは住まいと考えていた。」

と書かれているが、実際のところ聖パウロが書いている内容を検討すると、「この世の流れに合わせ」「不従順な者たちのうちに現に力を奮っている霊」などの記述からは、フランシスコ会訳が「中空」と表現する領域は、「天」あるいは神の御旨とはむしろ対立的な考え方が支配する世界である一方、逆に「地上世界」とは共通点(重なる部分)が少なくないような印象を受ける。

続くエフェソ2章3節では、この「空中」あるいは「中空」が神の御旨とは明らかに対極的な価値観、むしろ現世肯定的な価値観が支配する世界であることについて、さらに説明されている。

◯エフェソの人々への手紙2章3節(フランシスコ会訳)
「また、わたしたちもみな、不従順な者たちとともに、かつては、肉の欲望のままに振る舞っていました。肉の望むところ、さまざまな思いの向かう所を行っていたわたしたちは、ほかの人々と同じように、生まれながらに神の怒りに触れる者でした。」

フランシスコ会訳の欄外の注には、

「(2)『肉』は、聖霊に導かれず、自己中心であり、したがって神に逆らおうとする人間性、本章2節で述べられているような『不従順な』者を意味する。」

と書かれており、(1)の注と合わせて考えると、やはり聖パウロが「空中」あるいは「中空」という比喩的表現を用いて説明しているものの実体は、地上的・現世的な価値観──「神に逆らおうとする人間性」と「不従順」──が支配する世界、すなわち、「人間界(人間世界)」あるいは「俗界(世俗界)」つまり「世間(俗世間)」そのものであると、推論することができる。

重ねて強調するが、聖パウロが「空中」あるいは「中空」という表現を用いる時、それは「人間界(人間の生活圏、人間世界)」または「世間(俗世間、世俗)」などを意味する場合もありうる、ということである。

なお、【5】以降で説明していくことになるが、問題のギリシア語「アエール」は、「霧」や「靄(もや)」などを意味する場合があり、「霧」や「靄(もや)」は光を遮る性質を持つことから、「光が届きにくい領域」といった意味合いが「アエール」の概念にいくぶん含まれることも、場合によってはあり得た。

◯ヨハネの第一の手紙1章5節(フランシスコ会訳)
「わたしたちが、イエスから聞いたことで、あなた方に告げ知らせるのは、神は光で、神の中に闇(やみ)はまったくないということです。」

「神は光」そして「神の中に闇はまったくない」という立場から見れば、比喩的に「アエール」は「神からの光が届きにくい領域」すなわち「神を認めようとはしない俗世間」をも意味し得る。

当然そのようなネガティブなニュアンスも考慮しながら、聖パウロはエフェソ2章で「アエール」という表現を用いたのであろう。

【4】聖パウロは本当のところ「(空中)携挙」という概念を持っていたのか

そして、聖パウロは同様に、一テサロニケ4章17節において、やはりギリシア語の「アエール(αηρ – aēr)」という表現を用いて、「主の再臨」の際にキリストとキリストに呼ばれた信者たちとが出会う場所について、そこが実際には人間界(人間の生活圏、下界、世俗界、地上界、地上)であることを説明していたものと、推論できる。

◯テサロニケの人々への第一の手紙4章13節~18節(フランシスコ会訳)
「兄弟のみなさん、眠りに就いた人々について、無知であってほしくありません。それは、あなた方が希望を持たないほかの人々のように、嘆き悲しんだりしないためです。わたしたちは、イエスが死んで復活されたことを信じているのですから、神が、眠りに就いた人々を、このイエスの故に、イエスとともに導き出してくださることをも同じように信じましょう」
「主の言葉として、次のことをあなた方に言っておきます。わたしたちが主の来臨の時まで生き残っているからと言って、決して、わたしたちが、眠りに就いた人々より先になるわけではありません。なぜなら、み使いの頭(かしら)の声で号令が下り、神のラッパが響き渡って、主ご自身が天から降りて来られるとき、キリストに結ばれている死者がまず復活し、続いて、生き残っているわたしたちが彼らと一緒になり、雲に包まれて、主を迎えに空(αερα – aera)へ引き上げられていくからです。こうして、わたしたちはいつまでも主とともにいることになります。ですから、今述べたことによって互いに励まし合いなさい。」

上に引用したフランシスコ会訳では「空へ引き上げられていく」という表現になっているが、ここまでのエフェソ2章2節を例にギリシア語の「アエール(αηρ – aēr)」を考察した議論を踏まえて考えれば、この箇所は「下界(人間界、地上世界)で召集される」と日本語訳した方が聖パウロの意図を反映している蓋然性が高い。

なお、フランシスコ会訳では「アエール」は「空」と表現されているが、新共同訳・バルバロ訳・ラゲ訳ではいずれも「空中」と表現されている。

引用箇所の「引き上げられていく(ἁρπαγησόμεθα – harpagēsometha)」という箇所で用いられている聖書ギリシア語の動詞(ἁρπάζω – harpazō)は、もともと単に「捕まえて引っ張って行く」というニュアンスであって、本来この単語自体には「地上から引き上げる」という垂直方向に上げて行く意味合いは必ずしも含まれてはいない。

なぜなら、この動詞(ἁρπάζω – harpazō)が用いられている聖書のいくつかの箇所を引用すると、

・マタイによる福音書13章19節(フランシスコ会訳)
「奪ってしまう(ἁρπάζει – harpazei)」

・ヨハネによる福音書6章15節(フランシスコ会訳)
「無理やり連れていこうとしている(ἁρπάζειν – harpazein)」

・ヨハネによる福音書10章12節(フランシスコ会訳。新共同訳も同じ)
「奪い(ἁρπάζει- harpazei)」

・ヨハネによる福音書10章28節(フランシスコ会訳)
「奪い去り(ἁρπάσει – harpasei)」

・ヨハネによる福音書10章29節(フランシスコ会訳)
「奪い去る(ἁρπάζειν – harpazein)」

・使徒言行録8章39節(フランシスコ会訳。新共同訳とバルバロ訳も同じ)
「連れ去った(ἥρπασεν – hērpasen)」

・ユダの手紙23節(フランシスコ会訳。新共同訳も同じ)
「引き出して(ἁρπάζοντες – harpazontes)」

等々だからである。

この聖書ギリシア語の動詞自体には、「挙」つまり「挙げる」という意味合いは必ずしも含まれていないことになる。

1783年にフランス人モンゴルフィエ兄弟の熱気球が地上から「空中」へ飛び立ち、そして次の19世紀までには近代物理学が、古代ギリシア以来の「アイテール(αιθηρ – aithēr)」に由来する概念、すなわちいわゆる「エーテル(aether, ether)」仮説を棄却するに至り、人類の世界観(宇宙観)そしてフランス語及び英語の”air”の意味合いは劇的な変化を遂げた。

ちなみに、大気中(空気中)の主要な構成成分が「窒素」そして「酸素」であることは現代人には広く知られているが、科学者たちが「窒素」や「酸素」を実際に見出したのも、やはりフランス人モンゴルフィエ兄弟の熱気球が地上から「空中」へ飛び立ったのと同時期である、18世紀後半であった。

熱気球の発明後は、それまでは「大気」というニュアンスが強かった”air”という単語が、むしろ「空中(空中で)」というニュアンスが強いものに意味合いが変化していったのである。
1783年に熱気球が地上から飛び立ってからそれ以降は、フランス語の「エール(air)」そして英語の「エアー/エア(air)」は、「地上から飛び立った先にある空間」をイメージさせる単語となった。

あらためていうまでもないが、「エールフランス(Air France)」といえば、フランスの航空会社のことである。

また、これもいうまでもないが、「エアフォースワン(Air Force One)」といえば、米国の大統領専用機の通称である。

地上から熱気球が飛び立つことによって、さらに、20世紀に入ってからの航空機(ライト兄弟が動力機による初飛行に成功したのは1903年)の発達によって、イメージとしては決定的に、”air”という概念自体もまたやはり地上から切り離されて考えられるようになっていった。

航空機の発達に伴うように、英語の「エアー/エア(air)」の意味合いが、どんどん「空、大空(sky)」に近づいていったのである。

そしてそれと伴うように、いつしか一テサロニケ4章17節の記述から、「空中浮遊/空中浮揚」的な「(空中)携挙」をイメージする解釈が、カトリック以外の教派において徐々に広まることとなった。

しかし上記のエフェソ2章について考察する限り、聖パウロ本人には「(空中)携挙」の概念などありえなかった可能性が大きい。なぜなら、エフェソ2章でも明らかなように、聖パウロが語っている「中空」ないし「空中」と、近現代人が一般的にイメージする【空中】とでは、決して小さくない世界観(宇宙観)の隔たりが存在しているからである。少なくともエフェソ2章2節において聖パウロが語る「中空」ないし「空中」のイメージについて、現代の読者は必ず何かしらの違和感(異和感)を覚えずにはいられないであろう。

現代人は(フランス人モンゴルフィエ兄弟の)熱気球どころか、航空機や飛行船、パラグライダーやハンググライダー、スカイダイビング、バンジージャンプ、遊園地におけるアトラクション(観覧車やジェットコースターなど)、ヘリコプター、またロープウェイやケーブルカー等々の、さまざまな方法で、当たり前のように「空中」を体験そして実感することが可能であるが、聖パウロも含めて新約聖書における登場人物の誰一人として、現代人と同様の方法で「空中」を体験したことなどはなかった、という事実をあらためて指摘し、強調しておきたい。

カトリックにおいてもそれ以外の教派においても、長く権威を保つことになる英訳聖書は17世紀までには完成されていたが、18世紀後半以降の自然科学の急速な発達によって、英語の「エアー(air)」という単語も大きくニュアンスが変化し、その結果、もともとの由来であったギリシア語「アエール(αηρ – aēr)」とも決して小さくはない意味の隔たりが生じてしまったことは、いくら強調しても強調し過ぎではないのである。

従って、聖パウロの表現する《空中》の概念と現代人のイメージする「空中」の概念とが最初から完全に一致するとみなすこと自体に無理がある(大きな問題がある)、と考えるところから議論をあらためて始めるべきであろう。

「アエールにおいて」を「大気圏で」とか「大気の中で」と解釈するならば、その場合そこは必ずしも「空中」を意味せず、当然ながら「地上」をも包含し得る。

また、いくら近代英語において”air”の意味合いがどんどん”sky”に近づいていくことになったとしても、例えば、

「空港(airport)」

という施設がどこに存在するのかを考えてみれば、英語の「エアー/エア(air)」という表現からなんでもかんでもすぐに「空中で」という表現を連想してしまうのは、あまりにも短絡的に過ぎることに気付くであろう。

もちろん「エアポート」は、「空中に」存在しておらず、「地上に」存在している。

「エアポート(airport)」はあくまでも「空港」であって、「空中港」ではない。

いわゆる「パウロの手紙」と総称される書簡群の中から、問題の聖書ギリシア語「アエール(αηρ – aēr)」が用いられている箇所について、もう少し検討する。

◯コリントの人々への第一の手紙9章26節(フランシスコ会訳)
「わたしは目指す目標のないような走り方をしていませんし、空(くう)(αερα – aera)を打つような拳闘もしていません。」

「空(くう)」という表現は、新共同訳とバルバロ訳でも同じで、ラゲ訳でも「空」と表現されている。

本節の「空(くう)」を表現するために用いられている原文のギリシア語は、「アエール(αηρ – aēr)」である。この場合の「空(くう)」または「アエール」は、明らかに人間の手が届く範囲の領域を意味しており、「空中浮遊(空中浮揚)」とは関係ない。

◯コリントの人々への第一の手紙14章9節(フランシスコ会訳)
「同じように、あなた方も異言で話す場合、はっきり意味が分かる言葉を口にするのでなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえるでしょうか。それは、空(くう)(αερα – aera)に向かって話していることになるからです。」

「空(くう)」という表現は、新共同訳とバルバロ訳とラゲ訳でも同じである。

本節の「空(くう)」を表現するために用いられている原文のギリシア語は、「アエール(αηρ – aēr)」である。この場合の「空(くう)」または「アエール」は、明らかに人間の声が届く範囲の領域を意味している。

聖パウロが「アエール(αηρ – aēr)」という聖書ギリシア語を用いている箇所を検討したが、まず一コリントの二か所では人間の手や声が届く場所について語っており、そしてエフェソ2章2節では明らかに人間界について語っている。そしてマタイ福音書が「天におられるわたしたちの父」も「空の鳥」も、ともに「アエール」とは異なる表現を用いていることを踏まえれば、一テサロニケ4章17節でもエフェソ2章2節と同様に「人間界」を指すものとして「アエール」を用いていると考えるべきであるし、従って、聖パウロ本人の中には、ある一部の近現代人が空想するような「(空中)携挙」などという概念は存在しなかった、と推論するのが、妥当であろう。

「主の昇天」の際には、使徒たちは地面に足が着いた状態で、主イエス・キリストの姿を地上から見送っていた。
それと同じように、主イエス・キリストが再び来られる際には、忠実な信者たちは地に足が着いた状態で、主イエス・キリストをお迎えすることになると考えられる。
なぜなら、使徒言行録1章11節には、「同じ有様(ありさま)で」という表現が登場するからである。

ちなみに使徒言行録1章では、主イエス・キリストが「またおいでになる」時の「有様」について次のように書かれている。

◯使徒言行録1章9節〜11節(フランシスコ会訳)
「こう語り終わると、イエスは使徒たちの見ているうちに上げられた。一群(むら)の雲がイエスを包んで、見えなくした。イエスが昇って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣をまとった二人の人が彼らのそばに立って言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ、天を仰いで立っているのか。あなた方を離れて天に上げられたあのイエスは、天に昇るのをあなた方が見たのと同じ有様(ありさま)で、またおいでになるであろう』。」

つまり主イエス・キリストが「またおいでになる」際には、人間の視界を遮るような「雲」とともに主は現れるということが、ここでは説明されている。
上に引用した一テサロニケ4章17節にも、「雲に包まれて」という表現が登場している。

「主の昇天」の際、「彼らが天を見つめていると」(10節)また「天を仰いで立っている」(11節)とある通り、使徒たちの立ち位置はあくまでも地面の上であって、立った状態つまり地に足が着いた状態で使徒たちは主イエス・キリストを見送ったのである。

マルコ福音書14章には、「人の子が力ある方の右に座し、天の雲を伴って来る」という表現が、登場する。

◯マルコによる福音書14章62節~64節
「イエスは仰せになった、『そのとおりである。あなた方は、人の子が力ある方の右に座し、天の雲を伴って来るのを見るであろう』。すると、大祭司は衣を引き裂いて言った、『どうしてこれ以上、証人の必要があろうか。あなた方は、冒瀆(ぼうとく)の言葉を聞いた。これをどう思うか』、一同はイエスが死に値すると決議した。」

つまり、主イエス・キリストが「またおいでになる」際には、人間の視界を遮るような「天の雲を伴って」あるいは「雲に包まれて」来られる、ということである。

以上の議論を踏まえて、一テサロニケ4章の問題となっている箇所をあらためて日本語訳し直すのならば、

「主ご自身が天から降(くだ)って雲に包まれて来られるとき、キリストに結ばれている死者がまず復活して、復活した死者たちと生き残っているわたしたちとが一緒に召集され、わたしたちは下界において主を迎えることになるでしょう。」

と表現した方が、聖パウロの本来の意図を、より忠実に反映しているものと考えられる。

どこまでも忠実であり続けた信者たちが、天から降って来られる主イエス・キリストをお迎えする場所とは、「アエール」の領域すなわち、(「アイテール(αιθηρ – aithēr)」に満たされている「天上界」の対立概念としての)「下界」「地上界」すなわち「人間世界」「人間の生活圏」に他ならず、使徒言行録1章において、昇天される主を使徒たちが地上から見上げて見送った時のように、信者たちはあくまでも「同じ有様で」、すなわち地に足の着いた状態で(=地上で)主の来臨をお迎えすることになるであろう。

「主の来臨」が「主の昇天」の際とは「同じ有様で」なされると天使が語った以上、信者たちだけが「主の昇天」の際とは違う有様で主イエス・キリストをお迎えするのは、不自然である。

【5】ホメロスそして古代のギリシア語旧約聖書における「アエール」

古代ギリシアにおいて、一体「アエール」が何を意味したのかを検討するために、有名な「トロイの木馬」のエピソードで知られる、トロイ戦争を題材にしたホメロスの叙事詩『イリアス』から、該当箇所を探してみると、「アエール」は「濃い霧」「靄(もや)」などと以下のように日本語訳されていることがわかる(日本語訳は岩波文庫版の松平千秋訳による)。

・「濃い霧(で蔽い)」(岩波文庫『イリアス(上)』104ページ、第三歌三八一)

・「霧(を濃く湧き立たせる)」(同書174ページ、第五歌七七六)

・「濃い霧(を注いでこれを蔽い)」(同書237ページ、第八歌五〇)

・「靄〔もや〕(を纏って)」(『イリアス(下)』64ページ、第十四歌二八八)

・「(直ちに)靄〔もや〕(を散らして)」(同書187ページ、第十七歌六四九)

・「濃い靄〔もや〕(で隠す)」(同書271ページ、第二十歌四四四)

・「深い靄〔もや〕(を刺す)」(同書271ページ、第二十歌四四六)

等々である。

すなわち「雲」ほどには重厚ではないが、そこまで濃密ではなくとも、それに類するもので人間の視界を遮蔽するもの、つまり「霧」「靄(もや)」「霞(かすみ)」などのたぐいを表現する言葉として、「アエール」が用いられる場合があるということになる。

ここで注意すべきは、ホメロスの『イリアス』においては、「アエール」はギリシア神話の神々(女神アプロディテ)が人間(トロイの王子パリス)を連れ去って(さらって)目をくらます時の「道具」として用いられている、ということである。

つまり「アエール」は、例えば神々のような、常人を超える存在が人間に対してその存在感を人間界で発揮する際に、その存在の周囲に出現している。

念のため付け加えるが、この場合の「アエール」の文脈にも、「空中に引き上げる」といった垂直方向のニュアンスは含まれていない。

そして、古代のギリシア語訳旧約聖書である七十人訳聖書に目を転じると、サムエル記下22章12節で「アエール」が登場するが、興味深いことに新共同訳聖書では、この箇所で「立ち込める霧」という表現が用いられている。
ちなみに、新共同訳の旧約聖書における底本は、ヘブライ語旧約聖書『ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア』であり、七十人訳聖書に基づいているわけではない。
にもかかわらず、「アエール」に対応する箇所で「立ち込める霧」という日本語訳になっている。

やはり、古代ギリシア語の「アエール」には、現代日本語の「霧」に対応する余地が残されているということになる。

詩編18(17)編はサムエル記下22章を題材としており、ここでも七十人訳ギリシア語聖書では「アエール」が用いられているが、新共同訳では「立ちこめる霧」という日本語になっており、フランシスコ会訳でも「暗い霧」と訳されている。

フランシスコ会訳においても、旧約聖書における底本は、ヘブライ語の『ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア』であり、七十人訳聖書に基づいているわけではない。
にもかかわらず、「アエール」に対応する箇所で「暗い霧」という日本語訳になっている。

◯サムエル記下22章7節〜8節、10節~12節(フランシスコ会訳)
「わたしは苦境にあるとき主を叫び求め、わたしの神に向かって声をあげた。主は神殿の中からわたしの声を聞き、わたしの叫びはその耳に届いた。」
「その時、地は揺れ動き、天の基(もとい)は震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。」
「主は天を押し下げて降りて来られた。その足元には黒雲。主はケルブに乗って飛び、風の翼で天を駆け巡られた。ご自分の回りの闇(やみ)を仮庵(かりいお)とされた。それは水をたたえた厚い雲。」

ヘブライ語本文からのフランシスコ会訳では、ギリシア語七十人訳の「アエール」に相当する日本語表現が明確ではないが、新共同訳では「暗い雨雲、立ちこめる霧」という表現になっており、「立ちこめる霧」が聖書ギリシア語の「アエール」に対応する日本語である。

◯詩編18(17)編7節〜8節、10節~13節(フランシスコ会訳)
「この悩みの時に、わたしは主に叫び求め、わたしの神に叫び求めた。主は神殿の中からわたしの声を聞き、わたしの叫びはその耳に届いた。」
「地は揺らぎ震え、山々の基(もとい)は揺れ動いた。主がお怒りになったからだ。」
「主は天を押し下げて降(くだ)り、その足元には黒雲があった。主はケルブに乗って飛び、風の翼に乗って現れ、闇を周りに巡らし、暗い霧(αερων – aerōn)の雨雲を仮庵(かりいお)とされた。み前の輝きに雲は飛び、雹(ひょう)と火の雨が降りしきった。」

サムエル記下22章においても詩編18(17)編においても、「アエール」は主なる神の来臨に伴って現れる「霧」(あるいは「雲」のたぐい)を表現するものとして、ともに用いられているのである。

そして【3】の最後の方でも既に指摘したが、「霧」や「靄(もや)」は光を遮る性質を持つことから、場合によっては「光が届きにくい領域」すなわち「陰翳」といった意味合いも「アエール」の概念に含まれることが、サムエル記下22章や詩編18(17)編の例からも理解できる。

ちなみに、「雲」そのものを表す聖書ギリシア語としては「ネフェレー(νεφέλη – nephelē)」や「ネフォス(νέφος – nephos)」が存在し、新約聖書や七十人訳ギリシア語旧約聖書にもしばしば登場する。

旧約聖書の第二正典には、文脈からは「アエール」を「暗い霧」と訳した方が恐らく適切であろうと考えられる箇所が、もう一つ存在する。

◯知恵の書17章9節(フランシスコ会訳)
「混乱させ恐れさせるものは何一つなかったが、彼らは、獣が動く音や蛇(へび)の発する音に驚いて逃げ、死ぬほど怯えた。」
「避けることのできない空気(αερα – aera)に、直面することさえ彼らは拒んだ。」

ちなみに、この箇所は新共同訳でもバルバロ訳でも、「空気」と訳されている(新共同訳では10節)。
ただし、この箇所は、出エジプト記10章21節以下の、いわゆる「暗闇の災い」を論じている。
そのため、この箇所の「アエール」は、詩編18(17)編12節の表現と同様に「暗い霧」と訳した方が、はるかに意味が通りやすい。
もしくは、「空気」という表現からあまり遠くはない訳語を求めるならば、「大気現象」「気象」などと訳するのが穏当であろう。

なお、「アエール」が「〔鼻による〕息(呼吸)」を意味している次のような例も存在する。

◯知恵の書15章15節(フランシスコ会訳)
「彼らは諸国の偶像をすべて神々とみなした。その偶像は目があっても見ることができず、鼻があっても息(αερος – aeros)ができず、耳があっても聞くことができず、手の指があっても触れることができず、足があっても歩くことができない。」

新共同訳も、この箇所の「アエール」を「息」と表現している。

以上より、ホメロスや古代のギリシア語訳旧約聖書の用例からは、古代人にとっての「アエール」とは「(濃い)霧」や「靄(もや)」、あるいは「雲」の「もと(元、素)」になるそのたぐい、言い換えれば湿気を含んだ煙や霧のようなもの、すなわち、「水蒸気」「水蒸気と水滴による煙、立ちこめる霧」「水蒸気と微小な水滴の混合物」的なものを意味していた場合もあることが、ここまでで明らかになった。

見た目としては「湯気(ゆげ)」「湯煙(ゆけむり)」または寒い季節の冷え込んだ朝に見られる「白い吐息」のようなイメージだが、熱気の有無は関係ないと考えられる。
ただ言えることは、「雲」ほど重厚長大であるというよりは、むしろ「雲」と同じ物質で出来てはいても、「雲」よりも薄いものや「雲」よりは小さいもの、という外見の存在が、「アエール」というギリシア語で表現されている印象である。

この「アエール」という概念について、ただ単に「空気」とは解釈せず、むしろ「水蒸気や細かい水滴による煙、霧」といったイメージで捉えるならば、例えば「主の来臨」に伴って「主の栄光」「神の栄光」の象徴として旧新約聖書の至るところに登場する「天の雲」とも少なからず関連しているであろうということも、当然ながら推測できる。
サムエル記下22章や詩編18(17)編の用例からは、この「アエール」とは、主なる神の来臨に伴って登場する「天の雲」の「一片(ひとひら)」「切れ端」などを意味するのではないか、と思えるほど、両者は関連しているような印象を受ける。

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

いうまでもないが、あえて重ねて強調しておくと、「雲」や「霧」そして「靄(もや)」などは、「水蒸気」や「水滴」とは大いに関係している。

気象用語としては、「雲」は地面に接していないもので、「霧」は地面に接しているもの、と定義されており、両者に本質的な違いはないものとされている。
つまり、「霧」「靄(もや)」「霞(かすみ)」などは人間が生活する地面(地表面)に直接的に影響するものだということである。

古代においては、この「アエール」とはどちらかといえば、「大気」や「大気現象全般」すなわち「気象」「気候」に広く関係する言葉だったということになる。

【6】黙示録にも「アエール」が二か所に登場する

実は新約聖書の中で、ヨハネの黙示録にも「アエール」が二か所で登場する。

◯ヨハネの黙示録9章1節〜2節(フランシスコ会訳)
「第五のみ使いがラッパを吹き鳴らした。すると、わたしは、一つの星が天から地上に落ちるのを見た。この星には、底知れぬ淵(ふち)に通じる縦穴を開く鍵(かぎ)が与えられた。それが、底知れぬ淵に通じる縦穴を開くと、縦穴から煙が立ち上った。それは巨大な炉の煙のようであった。縦穴の煙のために太陽も空(αηρ – aēr)も暗くなった。」

意味合いとしては、この箇所の「アエール」は、やはり「下界」「人間界」「地上界」を暗示している。

もう一か所は、次の通りであるが、問題となっている一テサロニケ4章17節と同じギリシア語である。

◯ヨハネの黙示録16章17節〜18節(フランシスコ会訳)
「また、第七の者が、鉢の中身を空中(αερα – aera)に注いだ。すると、玉座から出た大きな声が神殿から聞こえてきて、『事は成し遂げられた』と言った。すると、稲妻と轟音(ごうおん)と雷鳴が起こり、大地震も起こった。これは人間が地上に現れて以来、かつてなかったほどの大地震であった。」

実際問題として、「注いだ」という他動詞の目的語としては「空中に」という表現は不適切であると考えられる。
なぜなら、「鉢の中身」(黙示録15章7節と16章1節によれば「神の怒り」)が実際のところ「空中に」留まることはあり得ず、空中を単なる通過点として、その向かう先は「地上」あるいは「下界」に他ならないからである。
「鉢の中身」が「アエール」に注がれたことによって起こった事態は、16章18節によれば「大地震」であった。

少なくとも、現代人の認識とは異なり、「アエール」という聖書ギリシア語の概念は、「地上」(地表面)を決して排除しておらず、むしろ(自明の事柄として)包含しているわけである。

つまり、この箇所で「第七の者」が「鉢の中身」を注いだ先の目的地(作用点)である「アエール(αερα – aera)」とは、本当のところ、「地上界」「下界」「人間界」などを意味していると推論できる。
だからこそ、「これは人間が地上に現れて以来、かつてなかったほどの大地震であった。」という表現につながるのである。

ここでもまた、「アエール」という表現が象徴的に「地上界」「下界」「人間界」を暗示している蓋然性が確認される。

ちなみに、フランシスコ会訳で「空中」と訳されている16章17節の「アエール」は、新共同訳でもバルバロ訳でもラゲ訳でも同様の表現「空中」で訳されている。

さて、黙示録16章の「神の怒りの鉢」に関して、「鉢の中身」が注がれた場所及び注がれた結果起こった事柄について、振り返ってみる(以下、この【6】では聖書の日本語はフランシスコ会訳による)。

◯ヨハネの黙示録16章1節(フランシスコ会訳)
「また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人のみ使いに向かい、『行け、そして神の怒りを盛った七つの鉢の中身を地上に注げ』と言うのを聞いた」

黙示録における「地上」という表現の「地」とは、20章でキリストの一千年間の統治が開始する以前は(つまり19章以前の記述においては)、ルカ4章25節や同21章23節またローマ9章28節やヤコブ5章17節などの場合と同様に、古い契約(旧約)における神の民の居住地(居住範囲、居住領域)すなわちイスラエル世界を指す場合もあることに注意(エゼキエル38章20節やダニエル9章6節やバルク1章9節も参照)。

◯ヨハネの黙示録16章2節(フランシスコ会訳)
「そこで、第一のみ使いが出ていって、地上にその鉢の中身を注いだ。すると、獣(けもの)の刻印を持ち、その像を礼拝する人々に、ひどく悪性の腫(は)れ物(もの)ができた」

第一のみ使いが鉢の中身を注いだ場所は「地上」であって、当然その影響を受けた場所(作用点)も「地上」ということになる。

続く3節で第二の者が鉢の中身を注いだ場所は「海」であって、当然その影響を受けた場所(作用点)も「海」である。

4節で第三の者が鉢の中身を注いだ場所は「もろもろの川と水源」であり、当然その影響を受けた場所(作用点)も「水」である。

8節で第四の者が鉢の中身を注いだ場所は「太陽」であって、当然その影響を受けた場所(作用点)も「太陽」である。

10節で第五の者が鉢の中身を注いだ場所は「獣の王座」であって、当然その影響を受けた場所(作用点)は「獣の王国」である。

12節で第六の者が鉢の中身を注いだ場所は「大河ユーフラテス」であり、当然その影響を受けた場所(作用点)は「その水」である。

◯ヨハネの黙示録16章17節〜18節【再掲】(フランシスコ会訳)
「また、第七の者が、鉢の中身を空中(αερα – aera)に注いだ。すると、玉座から出た大きな声が神殿から聞こえてきて、『事は成し遂げられた』と言った。すると、稲妻と轟音(ごうおん)と雷鳴が起こり、大地震も起こった。これは人間が地上に現れて以来、かつてなかったほどの大地震であった。」

17節で第七の者が鉢の中身を注いだ場所は、問題の「アエール(αερα – aera)」の領域であり、もしもこの「アエール」が「空中」の意味だとするなら、「稲妻」「轟音」「雷鳴」が起こるのは理解できるとしても、その他に「大地震」も起こっている。従って、この鉢の中身の影響を受けた場所(作用点)は「下界」「人間界」「地上界」の全体であると考えられる。このことは続く19節以降を読めば明らかである。

◯ヨハネの黙示録16章19節〜21節(フランシスコ会訳)
「あの大きな都は三つに割れ、諸国の民の町々は倒壊した。神は大バビロンを思い起こされた。ご自分の激しい怒りのぶどう酒の杯(さかずき)を飲ませるためであった。島々はことごとく逃げ去り、山々は消(き)え失(う)せた。そして、一タラントンほどの重さの大きな雹(ひょう)が天から人々の上に降ってきた。人々は雹の災いのために神を冒瀆した。この災いがあまりにもひどかったからである。」

つまり、黙示録16章においては、「アエール」(αερα – aera)とは「下界」「人間界」「地上界」を象徴的に表現する元素として登場している。

【7】主イエス・キリストの来臨に伴って現れる「天の雲」と、「アエール」との関係

これまでの考察で、ホメロスや古代のギリシア語訳旧約聖書の用例からは、古代人にとってはこの「アエール」とは「(濃い)霧」、あるいは「雲」の「もと(元、素)」になるそのたぐい、言い換えれば湿気を含んだ白い吐息や霧のようなもの、すなわち「水蒸気」「水蒸気による白い吐息のようなもの、立ちこめる霧」「水蒸気と微細な水滴の混合物」的なものを意味していた場合もあることが、明らかになった。

この「アエール」という概念については、ただ単に「空気」と解釈せずに、知恵の書15章15節の用例も考慮して、むしろ「水蒸気による白い吐息のようなもの、霧」といったイメージで捉えるならば、例えば「主の来臨」に伴って、「主の栄光」「神の栄光」の象徴として旧新約聖書の至るところに登場する「天の雲」とも少なからず関連しているであろうということも、当然ながら推測できる。

◯マタイによる福音書16章27節〜28節(フランシスコ会訳)
「人の子は父の栄光に包まれて、み使いたちとともに来る。その時、その行いに応じて、一人ひとりに報いる。あなた方によく言っておく。ここに立っている者の中には、人の子がみ国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない者がいる。」

◯ヨハネの黙示録1章7節(フランシスコ会訳)
「見よ、その方は雲とともに来られる。そして、すべての目がその方を見る。その方を突き刺した人々さえもが。地上のすべての民族はみな、彼の故に胸を打ちたたく。」

黙示録1章7節の原文は「雲とともに(μετά – meta)来られる」という別の表現になっているが、同じギリシア語の前置詞を用いた表現は後掲するマルコ福音書14章62節でも用いられており、マルコ福音書14章62節のフランシスコ会聖書研究所訳における表現は「天の雲を伴って(μετά – meta)来る」という日本語である。

◯詩編97(96)編1節〜4節、6節(フランシスコ会訳)
「主は君臨される。地は楽しみ、多くの島々は喜べ。雲と暗闇(くらやみ)が主を囲み、義と裁きが玉座の基(もとい)。火は主に先立って進み、周りの敵を焼き尽くす。主の稲妻(いなずま)は世界に閃(ひらめ)き、地はそれを見ておののく」
「天は主の義を告げ、すべての民は主の栄光を仰ぐ。」

この箇所(2節)において「雲」は、あくまでも「主を囲む」存在である。旧約聖書でも新約聖書でも、「主なる神の現存の象徴」として、しばしば「天の雲」または「雲」が登場、もしくは言及されるが、『西遊記』の物語が広く浸透している日本にあっては、「雲に乗って来る」などという表現を安易に用いると、あたかも孫悟空が使うような「乗り物」と同じであるという誤解を読者に与えかねない。全能の神である主なる神は、そもそも移動される際でも「乗り物」など全く必要とはされない。

◯マタイによる福音書17章5節(フランシスコ会訳)
「ペトロがまだ言い終わらないうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、雲の中から声がした、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者、彼に聞け』。」

◯出エジプト記13章21節〜22節(フランシスコ会訳)
「主は彼らの前を行き、彼らが昼も夜も進むことができるよう、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた。昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。」

◯出エジプト記16章10節(フランシスコ会訳)
「アロンがイスラエルの子らの全会衆に語った時である。彼らが荒れ野の方を向くと、見よ、主の栄光が雲の中に現れた。」

◯出エジプト記19章9節、16節(フランシスコ会訳)
「主はモーセに仰せになった。『見よ、わたしは濃い雲のうちにあってお前に臨む。わたしがお前に話しているのを民が聞いて、彼らがお前を永久に信じるようになるためである』。モーセは民の言葉を主に告げた」
「三日目になると、山の上に雷鳴と稲妻と厚い雲があり、角笛(つのぶえ)が非常に高く鳴り響いたので、宿営地にいた民はみな震えた」

◯出エジプト記24章15節〜18節(フランシスコ会訳)
「モーセが山に登ると、雲が山を覆った。主の栄光はシナイ山の上に留(とど)まり、雲は六日の間、山を覆った。七日目に、主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光はイスラエルの子らの目に、山の頂(いただき)にある焼き尽くす火のように見えた。モーセは雲の中に入り、山に登った。モーセは四十日四十夜、山に留まった。」

◯出エジプト記33章9節〜10節(フランシスコ会訳)
「モーセが幕屋に入ると、雲の柱が下って幕屋の戸口に立ち、主がモーセに語られた。民は雲の柱が幕屋の戸口に立つのを見ると、みな立ち上がって各々その天幕の戸口で礼拝した。」

◯出エジプト記40章34節〜38節(フランシスコ会訳)
「雲は会見の幕屋を覆い、主の栄光は住居に満ちた。モーセは会見の幕屋に入ることができなかった。雲がその上に留(とど)まり、主の栄光が住居に満ちていたからである。イスラエルの子らは、その旅路の間、雲が住居から離れて上った時は旅を続けたが、雲が上らない時は、上る日まで旅をしなかった。彼らが旅路にある時はいつも、昼は主の雲が住居の上に、夜はその中の火がイスラエルの家のすべての者に見えたからである。」

◯民数記11章25節(フランシスコ会訳)
「すると主は雲の中にあって降(くだ)り、モーセと語り、彼の上にある霊の一部を七十人の長老の上に置いた。その霊が彼らの上に留(とど)まったとき、彼らは預言したが、その後重ねて預言することはなかった。」

◯民数記12章5節、9節〜10節(フランシスコ会訳)
「主は雲の柱の中にあって降(くだ)り、幕屋の入り口の中で止まり、アロンとミリアムを呼ばれた。」
「主の怒りが彼らに向かって燃え、主は去って行かれた。雲が幕屋の上から離れ去ると、ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のように白くなった。アロンがミリアムのほうを振り向いてみると彼女は重い皮膚病にかかっていた。」

◯民数記17章7節(フランシスコ会訳)
「会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、二人が会見の幕屋の方を見ると、雲がそれを覆い、主の栄光が現れた。」

◯申命記5章22節(フランシスコ会訳)
「主は、その山で,これらの言葉を、火と雲と暗闇(くらやみ)の中から、あなたたち全会衆に、大きな声で告げられた。しかし、これだけで、ほかのことは何も加えられなかった。主はそれらを二枚の石の板に書き記して、わたしに授けられた。」

◯列王記上8章10節〜13節(フランシスコ会訳)
「祭司たちが聖所を出ると、雲が主の神殿に満ち、彼らはその雲に遮られて、立って奉仕することができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである。その時、ソロモンは言った、『主は、密雲(みつうん)の中に住む、と仰せになった。わたしは今、荘厳な家、あなたのとこしえの住まいを建てました』。」

◯歴代誌下5章13節~6章2節(フランシスコ会訳)
「その時、神殿、すなわち主の家は雲で満たされた。祭司たちは雲に遮られて、立って奉仕できなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである。その時、ソロモンは言った、『主は、密雲の中に住む、と仰せになりました。今、荘厳な家、あなたのとこしえの住まいを、わたしはお建てしました』。」

列王記上8章10節〜13節また歴代誌下5章13節~6章2節においても、ともに「雲」は「主の栄光」の象徴として登場している。

◯マタイによる福音書26章64節~66節(フランシスコ会訳)
「イエスは大祭司に仰せになった、『あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。今から後、あなた方は、人の子が力ある方の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るだろう』。すると、大祭司は衣を引き裂いて言った、『この男は冒瀆(ぼうとく)の言葉を吐いた。どうしてこれ以上、証人の必要があろうか。あなた方は今、冒瀆の言葉を聞いた。これをどう思うか』、すると彼らは、『死に値する』と答えた。」

64節の「天の雲に乗って来る」という日本語は、ギリシア語原文に忠実に日本語訳するならば、「天の雲の上にあって(ἐπὶ – epi)来る」などとすべきである。厳密に言えば、この箇所の原文(ギリシア語本文)には「乗る」という日本語に該当するギリシア語の動詞が存在しない。

◯マタイによる福音書24章30節〜31節(フランシスコ会訳)
「その時、人の子の徴が天に現れる。するとその時、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて、天の雲に乗って来るのを見る。人の子は大いなるラッパの響きを合図に、み使いたちを遣わす。そして、み使いたちは、四方から、すなわち天の果てから果てまで選ばれた人々を集める。」

「(天の)雲に乗って来る」という表現は、「人の子」すなわちイエス・キリスト御自身の神性(来臨の際にはダニエル書7章13節の預言通り、「日の老いたる者」すなわち御父と同格の権威を帯びておられること)を象徴的に物語っている。「大いなる力と栄光を帯びて〔来る〕」という事柄を、「(天の)雲に乗って〔来る〕」と比喩的に表現しているわけである。最後の審判を説明するマタイ福音書25章31節「人の子が栄光に包まれ、すべてのみ使いを従えてくるとき、人の子は栄光の座に着く」と、同24章30節「その時、人の子の徴が天に現れる。するとその時、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて、天の雲に乗って来るのを見る」との比較に注意。同16章27節にも「人の子は父の栄光に包まれて、み使いたちとともに来る」とあり、既に最後の審判を予告している。さらに列王記上8章10節〜13節そして歴代誌下5章13節~6章2節においても、「雲」は「主の栄光」の象徴として登場している。なおマタイ福音書24章30節の原文には、「乗る」に該当する動詞はやはり存在しない。従って、原文に忠実に正しく日本語訳するならば、「天の雲に乗って来る」ではなく、「天の雲の上にあって(ἐπὶ – epi)来る」などとすべきである。

◯マルコによる福音書13章26節(フランシスコ会訳)
「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗って来るのを人々は見るであろう。」

マルコ福音書13章26節のギリシア語原文でも、「乗る」という動詞は存在せず、黙示録11章12節と同じギリシア語の前置詞が用いられていることからは、「雲に包まれて(ἐν – en)来る」もしくは「雲の中にあって来る」と訳すべきであると考えられる。

◯ルカによる福音書21章27節(フランシスコ会訳)
「その時、人々は人の子が大いなる力と栄光を帯びて、雲に乗って来るのを見る。」

このルカ福音書21章27節の原文にも「乗る」という動詞は存在しないため、「雲の中にあって(ἐν – en)来る」と訳すべきである。

◯マタイによる福音書16章27節〜28節【再掲】(フランシスコ会訳)
「人の子は父の栄光に包まれて、み使いたちとともに来る。その時、その行いに応じて、一人ひとりに報いる。あなた方によく言っておく。ここに立っている者の中には、人の子がみ国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない者がいる。」

◯マルコによる福音書14章62節~64節【再掲】(フランシスコ会訳)
「イエスは仰せになった、『そのとおりである。あなた方は、人の子が力ある方の右に座し、天の雲を伴って来るのを見るであろう』。すると、大祭司は衣を引き裂いて言った、『どうしてこれ以上、証人の必要があろうか。あなた方は、冒瀆(ぼうとく)の言葉を聞いた。これをどう思うか』、一同はイエスが死に値すると決議した。」

◯マルコによる福音書8章38節〜9章1節(フランシスコ会訳)
「『神を捨てた罪深いこの時代において、わたしとわたしの言葉を恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光に包まれて聖なる使いたちとともに来る時に、その者を恥じるであろう』。またイエスは仰せになった、『あなた方によく言っておく。ここに立っている人々のうちには、神の国が力をもって到来するのを見るまでは死を味わわない者たちがいる』。」

◯マルコによる福音書9章7節(フランシスコ会訳)
「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声が聞こえた、『これはわたしの愛する子。彼に聞け』。」

◯ルカによる福音書9章34節〜35節(フランシスコ会訳)
「ペトロがこう言っていると、雲が起こって彼らを覆った。雲に包まれたとき、彼らは恐れた。すると、雲の中から声がした、『これはわたしの子、選ばれた者、彼に聞け』。」

よく知られている「主の変容」のエピソードにおいても当然、使徒たちの身には「空中浮遊(空中浮揚)」など起こりはせず、使徒たちは地に足が着いた状態であった。

〔結論〕

ここまでの議論を踏まえて、一テサロニケ4章の問題となっている箇所を日本語訳するならば、

「主ご自身が天から降(くだ)って雲に包まれて来られるとき、キリストに結ばれている死者がまず復活して、復活した死者たちと生き残っているわたしたちとが一緒に召集され、わたしたちは下界において主を迎えることになるでしょう。」

と表現した方が、聖パウロの本来の意図をより忠実に反映しているものと考えられる。

あるいは、「下界において」という箇所は、「地上において」もしくは「〔神秘的な〕靄(もや)の中で」などと置き換えることも可能であろう。

この場合の「〔神秘的な〕靄(もや)」とは、「主の栄光」の象徴として現れる「天の雲」の周囲に存在する「〔立ちこめる〕霧」のことで、「天の雲」の一部分を成すものでもある。

「霧」や「靄(もや)」は、あくまでも地上で(地表面で)発生する大気現象である。

どこまでも忠実であり続けた信者たちが、天から降って来られる主イエス・キリストをお迎えする場所とは、「アエール(αηρ – aēr)」の領域すなわち、「下界」「大気圏」「地上界」「人間界」にほかならず、使徒言行録1章において昇天される主を使徒たちが地上から見上げて見送った時のように、あくまでも立った状態(地に足の着いた状態)で、信者たちは主の来臨をお迎えすることになるものと考えられる。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297