【1】蛇を踏み砕く者とは誰か 論点を整理する
◯創世記3章15節(フランシスコ会聖書研究所訳:サンパウロ)
「わたしはお前と女の間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵意をおく。彼はお前の頭を踏みつけ、お前は彼のかかとに咬みつく」
◯創世記3章15節【後半部分】(新共同訳:日本聖書協会)
「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」
◯創世の書3章15節【後半部分】(バルバロ訳:講談社)
「女のすえは、おまえの頭を踏みくだき、おまえのすえは、女のすえのかかとをねらうであろう」
◯創世の書3章15節【後半部分】(バルバロ ー デル・コル訳:ドン・ボスコ社)
「かれは、おまえの頭をふみくだき、おまえは、かれのかかとをかむであろう」
◯創世記3章15節【後半部分】(光明社文語訳)
「彼女は汝の頭を踏み碎き、汝は彼女の踵を窺わん」
……この創世記3章15節の後半部分に関して、次のようなことが言えます。
〔A〕主イエス・キリストの時代の旧約聖書の原文は、母音記号がなく子音文字のみのヘブライ語で書かれており、この子音文字のみの原文を読む限り、 「創世記3章15節で蛇の頭を踏みつける存在」について使用されている三人称単数の代名詞(הוא – “hu”または”hi”)は、「彼(”hu”)」「彼女(”hi”)」「それ(”hu”)」の三通りの解釈が可能である。
〔B〕イエスの御降誕の二百数十年前に初めて創世記がヘブライ語からギリシア語に訳された際(七十人訳聖書)、「創世記3章15節において蛇の頭を踏み砕く存在」に関しては、ギリシア語で「彼」を意味する三人称単数の代名詞(αὐτός – “autos”)で翻訳された。ヴルガタ訳以前の古いラテン語訳聖書にはギリシア語七十人訳を底本とし、問題の三人称単数代名詞を「彼(ipse)」と翻訳しているものも存在した。
〔C〕四世紀の終わりから五世紀の初めにかけて聖ヒエロニムスが翻訳したラテン語ヴルガタ(Vulgata)訳聖書では、「創世記3章15節において蛇の頭を踏み砕く存在」に関しては、ラテン語の「彼女(ipsa)」という代名詞で翻訳された。聖ヒエロニムスも当初は旧約聖書のラテン語訳は七十人訳ギリシア語聖書を踏襲するものを考えていた。その立場であれば、ふさわしいラテン語訳は「彼(ipse)」であるということになる。しかし聖ヒエロニムスは七十人訳を底本とするスタンスに満足しなくなり、旧約聖書をヘブライ語本文から直接ラテン語訳することとし、その結果として完成したヴルガタ訳では、問題の箇所のラテン語は「彼女(ipsa)」であった。カトリックの日本語訳聖書の中で、「彼女」という訳を採用したのは、ヴルガタ訳を底本とした光明社の文語訳旧約聖書である。
〔D〕子音文字に母音記号を付け加えたヘブライ語で記された旧約聖書本文で最古のものとされているのは、イエスの御降誕から実におよそ一〇〇〇年も後になってから中世に成立したレニングラード写本(新共同訳やフランシスコ会聖書研究所訳が底本とする「ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア」の底本)であるが、この写本では「創世記3章15節において蛇の頭を踏み砕く存在」に関しては、ヘブライ語で「彼」または「それ」を意味する三人称単数の代名詞(ה֚וּא – “hu”)で解釈(表記)され、「彼女(הִ֛וא – “hi”)」というヘブライ語にはなっていない。しかし、この解釈には、レニングラード写本の成立が相当遅い年代であることから、ユダヤ教側の独自見解が含まれている可能性も否定できない。主イエス・キリストの時代におけるヘブライ語の旧約聖書本文は、母音記号が存在しない文法で記述されたものだったからである。そして聖ヒエロニムスがヴルガタ訳を完成させた後さらに下った時代になってようやく初めて、母音記号付きの文法で旧約聖書本文が記述されるようになったのである。
〔E〕二〇世紀の最後の四半世紀になって登場した、現代のカトリック教会のラテン語聖書“Nova Vulgata”(新ヴルガタ)において「創世記3章15節で蛇の頭を踏み砕く存在」に関しては、ラテン語の“ipsum”(「それ」)という三人称中性代名詞で翻訳されている。つまり事実上ここで、ラテン語ヴルガタ訳の「彼女(ipsa)」という伝統的なカトリックの解釈が覆されてしまっているような印象さえも受ける。伝統的にカトリック教会は、この場合の「彼女」を聖母マリアのことであると理解して来た。
〔F〕「〔女の〕子孫」を表わす七十人訳のギリシア語(“σπέρματός” – “spermatos”)及び、ヴルガタ訳(及び新ヴルガタ)のラテン語(semen)は、いずれも中性名詞である。よって「中性名詞→中性代名詞」という 対応関係を考慮すると、新ヴルガタの「それ(ipsum)」は「〔女の〕子孫(semen)」に対応している訳語であると考えられるが、一方で「〔女の〕子孫」を表わす原文のヘブライ語(זַרְעָ֑הּ – “zarah”)は男性名詞であり、これが多くの日本語訳聖書を含めて現代の各国語訳聖書が「彼」と表現する根拠となっていると考えられる。キリストに従う人々にとっては、この場合の「彼」とは、まさに主イエス・キリストのことであり、それゆえにこの箇所は「原福音」として解釈されて来た。
〔G〕しかし、あえて繰り返し強調すると、古代の旧約聖書原文の表記に用いられていたヘブライ語は、「母音記号なし・子音文字のみ」で書かれている。この子音文字のみの原文を読む限り、「創世記3章15節で蛇の頭を踏み砕く存在」について使用されている三人称単数の代名詞(הוא – “hu”または”hi”)に関しては、「彼(”hu”)」「彼女(”hi”)」「それ(”hu”)」の三通りの解釈が可能であり、この単語をどのように解釈すべきであるかは、原文の内容(文脈)に大きく依存するものと考えられる。従ってヴルガタ訳の「彼女(ipsa)」というラテン語表現を誤りと頭から決めつけてかかるのはいささか早計であり、なお議論の余地が残されている。
【2】伝統的な解釈は変更されてしまったのか
古今東西のカトリック信者にとって聖母マリアが蛇を足下に踏みつけている構図の聖画像は、長きにわたって、なじみ深いものであり続けた。
この構図は、創世記3章15節の記述に基づくものとされ、実際にカトリックの伝統的なラテン語聖書であるヴルガタ訳は、創世記3章15節で蛇の頭を踏みつける者について「彼女(ipsa)」と表現していた。
しかし、日本聖書協会新共同訳、そしてフランシスコ会聖書研究所訳など、現代日本のカトリック信者が目にする日本語訳の聖書では、「彼女」ではなく、「彼」という表現になっているものが、今や主流となっている。
なぜなら、これらの日本語訳聖書が底本としているのがラテン語ヴルガタ訳ではなく、ヘブライ語聖書『ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア』だからであり、そこでは「彼(ה֚וּא – “hu”)」という解釈(表現)になっているからである。
ただし問題は、このヘブライ語聖書の底本であるレニングラード写本の成立が、相当遅い年代(主イエス・キリストの御降誕からおよそ一〇〇〇年も後)であることから、この解釈にはユダヤ教側の独自見解が含まれている可能性も否定できない。
一方で、二〇世紀の最後の四半世紀に登場したカトリックの新しいラテン語聖書である新ヴルガタにおいては、「彼女(ipsa)」という表現が「それ(ipsum)」という表現に変えられている。
伝統的なカトリック教会の「彼女(ipsa)」という立場は、誤りだったのだろうか──決してそうではないことを、これより考証する。
【3】救い主を産み「竜」と対立する「女」
◯創世記3章15節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「わたしはお前と女の間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵意をおく。彼(הוא – “hu”または”hi”)はお前の頭を踏みつけ、お前は彼のかかとに咬みつく」
◯マタイによる福音書1章21節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「彼女は男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。その子は自分の民を罪から救うからである」
◯マタイによる福音書1章23節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「見よ、おとめが身籠って男の子を産む」
◯ルカによる福音書1章30節〜33節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「恐れることはない、マリア。あなたは神の恵みを受けている。あなたは身籠って男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な者となり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主は、彼にその父ダビデの王座をお与えになる。彼はヤコブの家をとこしえに治め、その治世は限りなく続く」
◯ルカによる福音書2章6節〜7節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「ところが、二人がそこにいる間に、出産の日が満ちて、マリアは男の初子を産んだ」
◯ヨハネの黙示録12章1節〜2節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「また、天に大きな徴が現れた。それは、太陽をまとった女で、月がその足の下にあり、頭上には十二の星の冠を戴いていた。女は身籠っており、子を産む苦しみと痛みのために泣き叫んでいた」
◯ヨハネの黙示録12章4節〜5節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「そして竜は、子を産もうとしている女の前に立っていた。産んだらすぐ、その子を食い尽くすためであった。女は男の子を産んだ。この子は鉄の杖をもってすべての国民を治めることになっていた。この子は、神のもとに、その玉座に引き上げられた」
◯ヨハネの黙示録12章9節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「こうして、巨大な竜は投げ落とされた。あの太古の蛇、サタンとも悪魔とも呼ばれたもの、全世界を惑わすものは地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落とされた」
◯ヨハネの黙示録12章13節、17節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「竜は、自分が地上に投げ落とされたのを知って、男の子を産んだ女を追いかけた」
「竜は女に対して激しく怒り、女の子孫のうち残りの者たち、すなわち神の掟を守り、イエスの行われた証しを保持している人々に戦いを挑むために出ていった」
〔注〕創世記3章15節の「彼」に相当するヘブライ語原文の三人称単数代名詞は、古代の「子音文字のみ・母音記号なし」の表記で考えると、「彼(”hu”)」「彼女(”hi”)」「それ(”hu”)」の三通りの解釈が可能となる。
【4】創世記3章15節の「女」はエバではない
創世記の3章から4章までを読んでいると、どうにも腑に落ちないことがあります。
3章において「蛇」は、「ねたみ(知恵の書2章24節)」のために、エバとアダムをだまし、害を与えましたが、のちに創世記の4章では、エバの長男カインもまた、ねたみのために、弟アベルを野原に連れ出し、殺害しました。
しかし、主なる神は創世記3章15節で、「蛇」に向かって、「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く」と約束されたはずです。
それなのに、エバの子孫は、その最初の一人であるカインからして悪行に手を染め、敵意どころか「蛇」の行ないに倣う者、大罪を犯す者となってしまいました。
ヨハネの第一の手紙(ヨハネの手紙一)は、このカインについて、「カインのようになってはなりません」(3章12節)と教え、続けて「彼は悪い者に属して」と書いています。
同書3章10節には「正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です」として、“神に属さない者”の例としてカインの名前を挙げ、また続く12節にはカインの兄弟殺しの理由として「自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」とあります。
そして知恵の書10章3節には、「かの悪人」すなわちカインは、「怒りのうちに」「憤って兄弟を殺し、滅び去った」とあります。
またユダの手紙11節では、「滅び」に至る道を「カインの道」と表現しています。
そして知恵の書2章24節には、「悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである」とあります。
以上のような記述を踏まえれば、創世記3章15節における主なる神の約束「おまえと女、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く」と、カインの悪行および滅びに至る末路とは、明らかに矛盾しています。
……さて、ここまでの議論のどこに、間違いがあるのでしょうか?
やはり、創世記3章15節の「女」をエバと考えるから、矛盾が生じるのです。
この「女」はエバではなく、いずれ現われるであろう別の女性、と考えるべきだということです。
ヨハネの黙示録12章では「女」と「竜」が登場して決定的に対立しますが、このうち「竜」とは、創世記に登場する「蛇」(「年を経た蛇」)であると示唆され、「悪魔」「サタン」のことだと説明されています。
そして「女」に関しては、「男の子を産んだ」とありますが、「この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた」と続けられています。
この「男の子」とは当然、主イエス・キリストのことでしょう。
また、「神の掟を守り、イエスの掟を守りとおしている者たち」のことを、「その子孫の残りの者たち」とも呼んでいます。
「その」というのは、「『女』の」ということです。
創世記3章15節の「女」とは、やはりイエスの母マリア、聖母のことでしょう。
(【4】における以上の聖書の日本語訳は、日本聖書協会の新共同訳『聖書』によりました)
【5】黙示録12章の「女」はマリアか教会か
(以下の聖書の日本語訳は、日本聖書協会の新共同訳『聖書』によります)
ヨハネの黙示録12章の「女」に関しては、これは教会のことだとする解釈が、カトリック教会においても存在します。
確かに、教会はサタンと決定的に対立すべきです。
また主イエス・キリストに対する教会の信仰にあずかることによって、わたしたちは神の子となることができます(ヨハネによる福音書1章12節、ガラテヤの信徒への手紙4章5節、エフェソの信徒への手紙1章5節など)。
しかし主イエス・キリストは、教会から生まれたのではありません。それは絶対にありえません。
たとえ比喩的表現であれ、その考えは成立しません。
主イエス・キリストを「産んだ」のは、第一義的には当然ながら母マリアであって(マタイによる福音書1章16節、同1章21節、ルカによる福音書1章31節〜33節、同2章6節〜7節)、教会ではありえません。
そもそもエフェソの信徒への手紙1章22節には「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭(かしら)として教会にお与えになり」と書かれており、また続く23節には「教会はキリストの体」と書かれているのですから、教会が主イエス・キリストを生むという考え方はやはりどこか不自然で、本末転倒と言わざるをえません。
コロサイの信徒への手紙1章18節にも、「御子(みこ)はその体である教会の頭(かしら)」「御子は初めの者」「すべてのことにおいて第一の者となられた」と書かれています。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカによる福音書1章38節)というマリアの神に対する承諾の意思表示そして絶対的な従順がなければ、主イエス・キリストひいては教会そのものも、この世にはもたらされなかったのです。
よって厳密に言えば、ヨハネの黙示録12章の「女」とは、「鉄の杖ですべての国民を治める」主イエス・キリストを「産んだ」その母マリア、聖母以外にはありえません。
聖母マリアは聖霊の花嫁であり、主イエス・キリストの花嫁が教会です。
また、聖母から主イエス・キリストがお生まれにならなければ、教会そのものもまた、この世にはもたらされなかったということを考えれば、聖母は主イエス・キリストの母であると同時に必然的に教会の母でもあるのです。
使徒言行録1章14節は「婦人たちやイエスの母マリア」と表現することで、母マリアがおのずと別格の存在であることを明らかにしています。
その意味では、黙示録12章の「女」とは、教会というよりは救い主の母その人を指す、と考えるべきでしょう。
(これ以降の聖書の日本語訳は、フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)から引用します。またイザヤ書のギリシア語は七十人訳聖書によります。ギリシア語はラテン文字転写して表記します)
◯創世記3章15節
「わたしはお前と女の間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵意をおく。彼はお前の頭を踏みつけ、お前は彼のかかとに咬みつく」
◯イザヤ書7章14節
「それ故、主ご自身が、あなたたちに徴を与えられる。見よ、おとめが身籠(みごも)って男の子を産み(texetai)、その名をインマヌエルと呼ぶ」
◯マタイによる福音書1章16節
「キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった」
◯マタイによる福音書1章21節
「彼女は男の子を産む(texetai)。その子をイエスと名づけなさい。その子は自分の民を罪から救うからである」
◯マタイによる福音書1章23節
「見よ、おとめが身籠って男の子を産む(texetai)。その名はインマヌエルと呼ばれる」
◯マタイによる福音書1章25節
「マリアが男の子を産むまで、ヨセフは彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた」
◯マタイによる福音書1章25節
「マリアが男の子を産む(eteken)まで、ヨセフは彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた」
◯マタイによる福音書2章2節
「お生まれになった(techtheis)ユダヤ人の王はどこにおられますか。わたしたちはその方の星が昇るのを見たので、拝みに来ました」
◯ルカによる福音書1章30節〜33節
「恐れることはない、マリア。あなたは神の恵みを受けている。あなたは身籠って男の子を産む(texē)。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な者となり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主は、彼にその父ダビデの王座をお与えになる。彼はヤコブの家をとこしえに治め、その治世は限りなく続く」
◯ルカによる福音書2章6節〜7節
「ところが、二人がそこにいる間に、出産(tekein)の日が満ちて、マリアは男の初子を産んだ(eteken)」
◯ヨハネによる福音書16章21節
「女は、子を産む(tiktē)とき、苦しい思いをする。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれた喜びのために、もはや産みの苦しみを忘れてしまう」
◯ヨハネの黙示録12章1節〜2節
「また、天に大きな徴が現れた。それは、太陽をまとった女で、月がその足の下にあり、頭上には十二の星の冠を戴いていた。女は身籠っており、子を産む(tekein)苦しみと痛みのために泣き叫んでいた」
◯ヨハネの黙示録12章4節〜5節
「そして竜は、子を産もう(tekein)としている女の前に立っていた。産んだら(tekē)すぐ、その子を食い尽くすためであった。女は男の子を産んだ(eteken)。この子は鉄の杖をもってすべての国民を治めることになっていた。この子は、神のもとに、その玉座に引き上げられた」
◯ヨハネの黙示録12章9節
「こうして、巨大な竜は投げ落とされた。あの太古の蛇、サタンとも悪魔とも呼ばれたもの、全世界を惑わすものは地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落とされた」
◯ヨハネの黙示録12章13節、17節
「竜は、自分が地上に投げ落とされたのを知って、男の子を産んだ(eteken)女を追いかけた」
「竜は女に対して激しく怒り、女の子孫のうち残りの者たち、すなわち神の掟を守り、イエスの行われた証しを保持している人々に戦いを挑むために出ていった」
〔注〕マタイとルカの両福音書において、「産む」を意味するギリシア語の動詞“tiktō”が用いられる場合、産まれる子が主イエス・キリストである文脈では、当然ながら主語は聖母マリアということになる。ならば、黙示録12章において、同じ動詞“tiktō”が五か所に用いられ、そして産まれる「男の子」(5節)が主イエス・キリストであるとするなら、主語となる「女」もまた聖母マリアであると解釈するのが最も自然である。
【6】エバは蛇とは決定的に対立などしていない
創世記3章15節の「女」をエバのことであると考えてしまうと、問題となっているヘブライ語の三人称単数代名詞(הוא – “hu”または”hi”)を「彼女」と訳するのに抵抗があるのは当然である。
なぜなら、エバが実際に蛇の頭を踏みつけたという聖書の記述が存在しないのは当然ながら明らかだが、その後エバが蛇に対して何か強い態度、決定的な態度に出たとか、エバと蛇とがいわゆる「不倶戴天」の関係となるに至ったとかいう記述は、聖書のどこにも存在しないからである。
そればかりか、その後のエバと蛇との間に接点があったかどうかすら、聖書には記述がない。
聖書の中のエバに関する記述において、エバはその「子孫」にとっての信仰の模範としての役割を果たしているとは、とうてい言えない。
【7】「彼」と訳す場合、当然それはキリスト
創世記3章15節の「女」をエバに他ならないと考える人々にとっては、蛇の頭を踏みつけるべき存在は無論エバではなく、エバ以外の何者かに違いないと考えることになる。
そうすると、「女の子孫」の中でそれにふさわしいのは、当然ながら「救い主」その方、すなわち主イエス・キリストご自身ということになる。
なぜなら、「女の子孫」の中で最も偉大なのは、「救い主」となられるまさにその方に他ならないからである。
であれば、問題となっているヘブライ語の三人称単数代名詞(הוא – “hu”または”hi”)は当然「彼」と翻訳すべきということになる。
現代の多くの日本語訳聖書(新共同訳やフランシスコ会聖書研究所訳など)を含めた古今東西の各国語聖書において、この箇所が「彼」と翻訳されている場合、当然キリスト教徒であれば「救い主」である主イエス・キリストの存在が念頭にあるはずである。
【8】黙示録12章における決定的な対立軸
ヨハネの黙示録12章には、まさに全人類のとっての希望ともいうべき救い主が描かれるとともに、救い主の母となった一人の「女」と、「竜」すなわち「サタン」あるいは「蛇」とが、決定的な対立関係に置かれている光景が、描かれている。
「救い主の母」であれば当然、その「女」とはイエスの母マリアであるということになる(マタイによる福音書1章21節、ルカによる福音書1章30節〜33節、同2章6節〜7節)。
ヨハネの黙示録12章を、創世記3章15節のより詳細な描写であると解釈する立場で考えるならば、当然創世記3章15節の「女」とはイエスの母マリアを指すということになり、黙示録12章において描かれている「救い主の母」とサタン(=蛇)との決定的な対立関係から導かれる結論として、蛇の頭を踏み砕く存在はこれまた当然のことながらマリアその人ということになる。
従って、問題のヘブライ語の三人称単数代名詞(הוא – “hu”または”hi”)には「彼女」と解釈できる可能性がなお残されている。
黙示録12章で「竜(=サタン)」と対置されているのは、「男の子」というよりは、やはり「女」の方なのだからである。
【9】「彼」と訳す立場の歴史的背景
古代の旧約聖書原文の記述に用いられたヘブライ語は、「母音記号なし・子音文字のみ」の表記で書かれている。
この子音文字のみの原文を読む限り、「創世記3章15節で蛇の頭を踏み砕く存在」について使用されている三人称単数の代名詞(הוא – “hu”または”hi”)に関しては、「彼(hu)」「彼女(hi)」「それ(hu)」の三通りの解釈が可能であり、従って、この単語の解釈は内容・文脈に大きく依存するものと考えられる。
しかしながら、そもそも、ユダヤ教の人々はキリスト教文書である黙示録12章の記述などは当然だが微塵も考慮してはいないし、古代(紀元前三世紀)の七十人訳ギリシア語旧約聖書の訳者たちもまた、当然ながらマリアの存在も黙示録の啓示も知らなかった。
そのため、蛇の頭を踏み砕くのにふさわしい存在は当然「油注がれた者(メシア、キリスト)」であると考えていた。
また歴史的に東方正教会は、カトリック教会ほどには黙示録に重きを置かないままに、紀元前からのギリシア語七十人訳を標準的な旧約聖書として大きく見直すことなく、そのまま位置付けて使用し続けて来た。
よって以上のような時代的制約がある立場において、「油注がれた者」の存在を念頭に置きながら創世記3章15節を解釈するならば、引き続き「彼」という訳語を採用するに至っているのは当然の成り行きである。
【10】新ヴルガタの訳語「それ」の妥当性
新ヴルガタのラテン語訳は「それ(ipsum)」という表現で、中性の三人称単数代名詞であり、同じ中性の名詞「子孫(semen)」に対応しているものと考えられ、かつまた創世記のヘブライ語原文が最初に書き留められた時の表記(母音記号なしで子音文字のみの表記の三人称単数代名詞)及び文脈から推測し得る全ての可能性を考慮した(包含した)ものであるとも、言うことができる。
多様な可能性を包含し得る表現としてであるならば、「それ(ipsum)」は「彼(ipse)」「彼女(ipsa)」よりも適当な訳語であるとも言えるが、その反面、明らかに人間を指すべき代名詞でありながらも「彼」とも「彼女」ともつかぬ、玉虫色の表現という印象を受けるのも否めず、人類の中の具体的な誰かを特定または想定できるのであれば、「それ」が男性か女性か明らかであるはずで、それが「中性」ということはありえず、その意味では不満も残る訳語でもあるとも言える。
【11】サタン及びその一派は人間を餌食にする
創世記3章19節(新共同訳「塵(ちり)にすぎないお前は塵(ちり)に返る」)の記述からは、この場面では人間と「塵(ちり)」とが同一視されていることが理解できる。
つまり、創世記3章14節(新共同訳「お前は、生涯這いまわり、塵(ちり)を食らう」)の「塵(ちり)」もまた、人間のことであると理解しなければならないし、「お前は、生涯這いまわり、塵(ちり)を食らう」とは、サタン(=「蛇」)が人間を餌食にするためにエデンの園以降も長きにわたって地上を徘徊し続けることになるという定めを、暗示している。
よって論理的な帰結として、この節に続く15節では、地上に徘徊する「蛇(=サタン)」からの籠絡に対する人類の救いの希望となるのは何者であるのかが、明示あるいは少なくとも暗示されていなければならない。
また「お前(=蛇)の子孫」という言い回しは、「蛇」すなわち非生物であるサタンだということを考慮すれば、特定の何者かというよりは、当然、「サタンの一派」「サタンの一党」「サタンの一味」などの集合名詞として解釈すべきであるということになる。
【12】キリストは「子孫」の概念を拡大した
創世記17章7節のアブラハムに対する神の約束に関して、ガラテヤの人々への手紙3章16節(フランシスコ会聖書研究所訳:「ところで、約束はアブラハムとその子孫とになされました。多くの子孫を指すように『子孫たちとに』とは言われず、ただ一人を指すように『お前の子孫とに』と言われています。これはキリストのことです。」)では、「子孫」とはイエス・キリストただ一人のことだと説明している。
しかし、さらにその続きを読んでいくと、同4章4節から5節(フランシスコ会聖書研究所訳:「しかし、時が満ちると、神は御子をお遣わしになり、女から生まれさせ、律法の下に生まれさせたのです。それは、律法の下にある人々を贖い出すためであり、また、わたしたちが神の子としての身分を受けるためです。」)では、キリストに従う人々もまたキリストによって神の子とされる道が開かれた、と主張されている。
従って、【旧約】の見地では「子孫」は主イエス・キリスト一人と見なされていたが、【新約】の見地にあっては「子孫」はキリスト及びキリストに従う人々の全てというように、その範囲が拡大された──聖パウロはガラテヤ書でそう明らかにしたのである。
この範囲の拡大は黙示録12章17節(フランシスコ会聖書研究所訳:「女の子孫のうち残りの者たち、すなわち神の掟を守り、イエスの行われた証しを保持している人々」)にも対応している。
そしてイエス・キリストを産んだ「女」(ガラテヤ4章4節)すなわち母マリアこそ、世界に救いをもたらした者であるとも言える。なぜなら、母マリアなくしては、この範囲の拡大はもたらされなかったからである。
ガラテヤ4章4節から5節の内容に対応し、かつさらに詳しく説明している記述として、ローマの人々への手紙8章13節から17節では次のように論じられている。
「肉に従って生きるなら、あなた方は死にます。しかし、霊によって、体の悪い行いを絶つなら、あなた方は生きます。神の霊によって導かれる人は誰でもみな、神の子なのです。あなた方は、人を再び恐れに陥らせ、奴隷とする霊を受けたのではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって、わたしたちは『アッバ、父よ』と叫んでいます。霊ご自身がわたしたちの霊とともに、わたしたちが神の子供であることを証明してくださるのです。子供であれば、相続人であります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。すなわち、わたしたちはキリストとともに苦しむなら、ともに栄光を受けるのです」(フランシスコ会聖書研究所訳)。
同様に、ヨハネによる福音書1章11節から13節には次のように書かれている。
「み言葉は自分の民の所に来たが、民は受け入れなかった。しかし、み言葉を受け入れた者、その名を信じる者には、神の子となる資格を与えた。彼らは、血によってではなく、人間の意志によってでも、男の意志によってでもなく、神によって生まれた」(フランシスコ会聖書研究所訳)。
この事柄に関しては、ほかならぬ主イエス・キリスト御自身が、ヨハネによる福音書17章23節から24節において次のように祈っておられることでも、確約されている。
「わたしが彼らのうちにおり、あなたがわたしのうちにおられるのは、彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしをお遣わしになったこと、そして、あなたがわたしを愛してくださったように、彼らをも愛してくださったことを、世が知るようになるためです。父よ、あなたがわたしにお与えになった人々がわたしのいる所に、ともにいるようにしてください。世界の造られる前から、あなたがわたしを愛して、お与えくださった、わたしの栄光を彼らに見せるためです」(フランシスコ会聖書研究所訳)。
【13】エバは「子孫」にとっての模範ではない
ここまでの議論で明らかなように、【旧約】の律法から【新約】のイエス・キリストの福音による救いへと時代が動くことによってイエス・キリストに従う人々にもまた、「子孫」に含まれる道が開かれたのである。
このことを踏まえると、創世記3章15節の前半部分「わたしはお前と女との間に、またお前の子孫と女の子孫の間に敵意を置く。」(フランシスコ会聖書研究所訳)と、創世記17章7節「わたしは、お前との間に、またお前の跡に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。お前とお前の跡に続く子孫の神となるためである。」(フランシスコ会聖書研究所訳)とを対比すると明らかな通り、「子孫」という言葉が表わす意味合いは、具体的な誰か特定の個人というよりは、「すべての子孫」あるいは「子孫のそれぞれ一人一人」であると考えられる。
だとすれば、その初子からカインのような大罪人を出してしまったエバは、創世記3章15節の「女」に全くふさわしくないのは明らかである。
しかも、エバ自身も創世記において、人類の救いの希望となる者にふさわしい信仰の模範としての能動的な役割を、少しも果たしていない。
そして、「婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます(テモテへの手紙一2章15節;新共同訳)」という立場を採るならば、やはり創世記3章のエバは「信仰の模範」であるとはとても言えない。
【14】イエスの母は、イエスに従う人々の母でもある
創世記3章15節と黙示録12章を対比しながら検討すると、「神の掟を守り、イエスの掟を守りとおしている者たち」(黙示録12章17節)の一人になるということは、「女の子孫」の一人になるということと同じ意味合いになる。
そうだとすれば、創世記3章15節で「おまえ(=蛇)の頭を砕き」という「彼」に該当し得るのは、「女の子孫」の一人一人のことでもある。
また同時に、「神の掟を守り、イエスの掟を守りとおしている」(黙示録12章17節)ことは「蛇の頭を踏み砕く」(創世記3章15節)ことであるともいえる。
ルカによる福音書10章19節(新共同訳)には、主イエス・キリストによる七十二人の弟子たちへの御言葉として、「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」と書かれている。
その一方でローマの信徒への手紙16章20節(新共同訳)においては、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。」と約束されている。
つまり、実は「蛇の頭を踏み砕く」のは、イエス・キリストに従う者の一人一人のことであるとも解釈できるが、しかしその起点・先頭そして模範として置かれているのは、創世記3章15節の「女」すなわち「救い主の母」マリアの姿である。
まさにこの「模範」たり得るかという点が、創世記3章15節の「女」にエバとマリアのどちらがふさわしいかを考える上での分かれ目となる。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカによる福音書1章38節;新共同訳)というマリアの神に対する承諾の意思表示そして絶対的な従順がなければ、主イエス・キリストひいては教会そのものもこの世にはもたらされなかったことを考えるなら、母マリアを救いの起点として考えることは決して誤りではない。
その意味では聖書の中の記述においても、母マリアは信仰の模範としての役割を十二分に果たしている。
使徒言行録1章14節では、「婦人たち」と「イエスの母マリア」とを区別して記述することで、母マリアがキリストに従う人々の中でおのずと別格の地位にあることを、端的に表現している。
【15】「子孫」だけでなく、当然「女」もまた
創世記3章15節で「子孫」を表わす表現は、原文のヘブライ語(זַרְעָ֑הּ – “zarah”)も、七十人訳のギリシア語(“σπέρματός” – “spermatos”)も、ヴルガタ訳及び新ヴルガタのラテン語(semen)も、いずれも単数名詞としての扱いである。
とはいえ、それらが「すべての子孫」「一人一人の子孫」といった集合名詞の意味合いで語られているならば、実質的には複数のものを扱っているとして考えるべきである。
「お前(=蛇)【単数】」「女【単数】」「お前(=蛇)の子孫【複数】」「女の子孫【複数】」の四つの表現の中で、「お前(=蛇)」の頭を踏み砕くべき三人称単数代名詞で表現し得る対象として該当するものは、単純に考えれば「女」以外にはないということになる。
よって、この意味合いで捉えた場合、問題の三人称単数代名詞を「彼(ipse)」ではなく「彼女(ipsa)」と解釈することが可能になり、この点でヴルガタ訳の妥当性が認められるのである。
蛇すなわち非生物であるサタンという前提からは、「お前(=蛇)の子孫」とは特定の子孫の何者かというよりは、「サタンの一派・一党・一味」という集合名詞として解釈すべきであって、だとすれば、それに対置される「女の子孫」の方もまた、自然と集合名詞としての解釈も可能になって来るわけである。
【16】「女の子孫」の救いは、「女」が前提
文章の構造を創世記17章7節(フランシスコ会聖書研究所訳:「わたしは、お前との間に、またお前の跡に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。お前とお前の跡に続く子孫の神となるためである。」)と対比してみても明らかなように、創世記3章15節において蛇の頭を砕くべき存在に該当するのは、「女」と「女の子孫」との両方であると考えられる。
しかし、まず第一に、【その女】が蛇の頭を砕くべきものとしてふさわしくなければ、【その女の子孫】もまた、蛇の頭を砕くべき存在としてふさわしくない、ということになる。
その点で、エバは蛇の頭を砕く存在としては適当ではない。
まず第一にアブラハムの信仰によってアブラハムの子孫の信仰と繁栄とが将来的に保証されたように、まず第一に【その女】の信仰によって【その女の子孫】の信仰と救いとが将来的に保証されることになるからである。
あくまでも、【その女】が蛇の頭を踏み砕くべき存在としてふさわしいものであることによって、【その女の子孫】が蛇の頭を踏み砕くべき存在になりうるのである。
従って、ともに等しく「蛇の頭を踏み砕く存在」であるにしても、どちらの意味合いに力点を置くべきか考えると、それは当然「女の子孫」よりも「女」の方を優先して解釈すべきである、という立場もあり得る。
その「女(=救い主の母マリア)」の存在こそが、「(主イエス・キリストを除いた)女の子孫(の残りのものたち)」の救いを保証しているのである。
まさにヴルガタ訳は、このような立場で解釈していると考えられる。
【17】依然としてヴルガタ訳の解釈は生きている
ヨハネの黙示録12章の啓示によって創世記3章15節の意味するところが明確にされた以上、「女」がエバではなく救い主の母マリアであり、またこの「女」が「神の掟を守り、イエスの掟を守りとおしている者たち」の起点・先頭に置かれ模範ともなっていることを端的に表現し、そして強調するためには、問題のヘブライ語の三人称単数代名詞(הוא – “hu”または”hi”)をあえて「彼女(”hi”)」と解釈することが必要となった。
重ねて主張するが、あえてヴルガタ訳が「彼女(ipsa)」というラテン語の訳語を採用したのは、「創世記3章15節の『女』とはイエスに従う者たちの先頭そして模範となるべき『女』のことであり、その『女』とはまさにイエスの母である女性に他ならない」ということが黙示録(12章)によって明確に啓示されたためであろう。
従って、伝統的なヴルガタ訳の表現「彼女(ipsa)」は必ずしも誤りであるとは考えられないばかりか、新ヴルガタが「それ(ipsum)」という表現を採用したという事実が現に存在するにもかかわらず、いまなお依然として伝統的なヴルガタ訳の「彼女(ipsa)」という解釈は有効であると考えられる。
たとえ上記のように「救い主の母マリア」の役割を強調して解釈したところで主イエス・キリストの存在をないがしろにしているとは、決して言えない。なぜなら、「救い主の母マリア」の地位やその役割の重要性を保証しているのは、まさにその産んだ子イエス・キリストの存在そのものに他ならないからである。
よって創世記3章15節の問題の箇所の訳語を「彼女(ipsa)」としたところでそれは主イエス・キリストと極めて密接に関係しているものであり、また、この箇所がいわゆる「原福音」であるという事実に、何ら変わりはないと主張できる。
(注)別エントリー「教義『無原罪の御宿り』の聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/52