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試論:「キリストは門」を140文字以内で

マタイ7章13節以下「あなたたちは狭い門から入りなさい」「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」ヨハネ10章9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は、救われる」同14章6節「わたしは道・真理・命である。わたしを通らなければ誰であろうと父の許に行くことが、できない」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

【追記】

ヨハネ10章9節「わたしは門」の主の仰せは、詩編118編19節以下「義の門よ開け。わたしは入り主に感謝する。これは主の門だ。主に従う者はここを入る」またマタイ7章7節「求めよ」「探せ」「たたけ」などとも対応し、マタイ6章33節では「神の国と神の義」を探し求めよ、とも主は説かれた。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

(注)別エントリー「試論:『隅の親石』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6544

マタイ7章は「門」という比喩で、「神の国」に入るための条件「神の義」(6章33節)を表現した。これは詩編118編19節以下「義の門よ開け。この門は主の門だ。主に従う者はここから入る」とともに、イザヤ26章2節「門よ開け。信仰を守って神の義に従う民が入れるように」とも関連している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、「わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない」という意味である。

(注)別エントリー「試論:ローマ3章『信仰と律法』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8650