【問】十二歳の御子イエスを見失った両親の心情はどんなものでしたか?
【答】ルカ2章48節は「心配して」(新共同訳)と記しますが、原文のギリシア語は古代のギリシア語訳イザヤ53章4節にも用いられ、同節の「痛み」「苦しんでいる」(新共同訳)など精神的な苦痛というニュアンスを意味します。
【追記】
【問】御子を捜す両親は激しい精神的苦痛に苛まれていた?
【答】それこそが「なぜこんなことをしたのですか?」とマリアが御子イエスに質問せずにはいられなかった理由です。同じ語は古代ギリシア語訳ゼカリヤ12章10節「初子の死を悲しむように悲しむ」(新共同訳)の「悲しむ」に対応しています。
【問】イザヤ53章4節もゼカリヤ12章10節も救い主の死を啓示する箇所ではないの?
【答】たとえ普通の一人の母親だったとしても、一人息子を失うことは尋常ではない衝撃ですが、いかに受胎告知の時から多くの苦難に遭遇する覚悟ができていたとはいえ実際それが起こった時の動揺はまた話が別です。
十二歳のイエスを見失って必死に捜すマリアとヨセフの心情は、ギリシア語本文では動詞「オデュナオー」で表現され、新共同訳はルカ2章48節で「心配して」と訳す。同じ語は使徒言行録20章38節で「非常に悲しんだ」ルカ16章25節で「もだえ苦しむ」と訳され、大きな苦痛を伴う悲しみを表わす。
(注)別エントリー「試論:『イエスの両親』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。
(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど謙遜そのものの生涯であり、ただの一度も主イエスの前で出しゃばることがなかったゆえに「へりくだる者は高められる」(ルカ14章11節)の通りに崇敬を集めた。
(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】主イエスが十二歳の時、主を見失った後、エルサレム神殿の境内で主を発見した時、聖母は主をとがめたのではないですか?
【答】いいえ。聖母は御子をとがめたわけでも責めたわけでも非難されたわけでもなく、ただ最愛の御子が自分に一言もなく姿を消した理由を知りたかった、ただそれだけでした。
【問】マリアとヨセフがイエスを神の子として心・精神・思い・力を尽くし愛していたなら、なぜ二人は十二歳のイエスを見失いましたか?
【答】普段のイエスは人として両親に従順(ルカ2章51節)で手のかからない子でしたが、この時の神殿での行動は人間には予想外の、神としての行動だったからです。
(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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