マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は神からの憐れみを受ける」は、箴言11章17節の前半「憐れみ深い人は、その善行によって、自分自身の霊魂にも良いものをもたらす」の答えである。ちなみに、箴言の同じ節の後半は「憐れみのない人は、その行いが回り回って、自分自身が苦しむ」。
(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はルカ17章1節で「つまずきは避けられないがそれをもたらす者は不幸だ」と仰せになった。レビ19章17節は悪意を抱いたまま隣人に接することを禁じ、箴言26章27節は他人を落とす穴を掘る者は自分がそこに落ちると記し、民数記12章でモーセに難癖をつけたミリアムは厳しく主に罰せられた。
(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『モーセの模範』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『つまずき』を140文字以内で」も参照のこと。
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レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。
ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。