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聖書における「いやし」をどう解釈するか

【1】ギリシア語の動詞テラペウオを「手当てする」と独自に解釈する本田哲郎神父

本田哲郎神父は、自分の持論を大いに反映させた個人訳聖書『小さくされた人々のための福音』(新世社)17ページにおいて、「奇跡幻想を生んだ『いやし』と『手当て』の混同」という表現を使った見出しで、「いやし」と「手当て」との訳し分けを主張しています。

また、本田哲郎神父の別の著書である、『聖書を発見する』(岩波書店)240ページから241ページには、次の記述があります。

・「実際に、『病気を治す』という行ない、言語ではイヤオマイということばで表現されていますが、そういう行ないは、イエスの場合はほとんどしていない。ほんのわずか、数えるほどです。四、五回出る程度でしょう。それ以外は、たいていテラペウオという語が使われている。これは、手当てをする、介護する、奉仕する、といった意味のことばです。もともとテラペウオは、王様に家来が仕えるというイメージのことばです。病気の人、苦しんでいる人、しんどい思いをしている人の背中を、たとえばさすってあげて、「治りたいよね」とつぶやくようなかかわりがテラペウオなのです。それが、ときどき本当にイヤスタイ、つまり治ってしまうというケースが、福音書の中に五回ほど出てくるというわけです。」

・「そのとき、イエスが、思わず鼻を鳴らす(エムブリマオマイ)。馬のいななきを表す語だそうです。びっくりして感動する、というようなことです。『あ、ほんとに治った』という感じでしょう。それでイエスは、『あんた、このことは他の人に言うなよ』とか、『町に入らずに家に帰りなさい』などと言うわけです。ただ、司祭にだけは見せに行って、一般市民社会に戻るための証明だけ取っておきなさい、と。イエスにとって大事にしたいのは、『治す』(イヤオマイ)ことよりも痛みを共感して『手当てする』(テラペウオ)ことであったように思われます。」

つまり本田哲郎神父は、「テラペウオ」と「イヤオマイ」という二つのギリシア語について、日本語訳する上での訳し分けを主張しているわけです。

【2】本田哲郎神父のテラペウオ論を実際の聖書ギリシア語で検証する

それでは、テラペウオの意味を「手当てする」とする本田哲郎神父の見解が本当に正しいのかどうか、実際の聖書ギリシア語の用例を個別に検討して判定してみます。

なお、以下に列挙する聖書の日本語訳は、特に注記のない場合は、フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によります。
また聖書のギリシア語は、適宜ラテン文字転写して提示します。

◯ヨハネの黙示録13章3節
「その獣の頭の一つが死ぬほどの傷を受けたかに見えたが、その致命的な傷も治ってしまった(etherapeuthē)。そこで全地は驚嘆して、この獣の後に従った。」

この節で、傷が「治ってしまった」という箇所で用いられている動詞は、「テラペウオ(therapeuō)」であって、「イヤオマイ(iaomai)」ではありません。

もしも本田哲郎神父の主張するようにテラペウオの意味を「手当てする」としてしまうと、黙示録13章3節の日本語訳は「手当てされてしまった」となってしまいますが、これでは「全地は驚嘆して」に続く文脈が成立しなくなってしまいます。
「手当てされた」では、「獣」が畏敬や礼拝の対象になるはずもありません。

黙示録の同じ章には、もう一箇所だけテラペウオが登場します。

◯ヨハネの黙示録13章12節
「この獣は、第一の獣がもっていたすべての権力を、その獣の前でふるった。そして、致命傷の治った(etherapeuthē)第一の獣を、地と、そこに住む人々に礼拝させた。」

この節のテラペウオにしても、「手当てされた」という日本語訳は不適当と言わざるをえません。

次に、旧約聖書第二正典のトビト記で、テラペウオの意味を検証します。
第二正典の本文は、ヘブライ語ではなくギリシア語で書かれています。

トビト記では、トビトの息子トビアが天使ラファエルと旅の同行者となり、そして天使ラファエルの仲介によって(12章)、トビトは視力を回復し(11章)、またトビアの花嫁のサラは自分を長年苦しめられてきた悪霊の退散に成功しました(8章)。

◯トビト記12章2節〜3節
「彼は父に言った、『お父さん、どれほどの報酬を与えればよいのでしょうか。彼がわたしとともに持って来た財産の半分を与えても、かまいません。彼はわたしを無事に連れ帰り、妻を癒(い)やし(etherapeusen)、わたしと一緒にお金を持ち帰り、あなたをも癒やしてくれました(etherapeusen)。報酬をどれぐらい追加すればよいでしょうか』。」

この箇所で、サラそしてトビトの不可思議な「癒やし」について用いられているギリシア語の動詞は「テラペウオ」であって、「イヤオマイ」ではありません。

天使ラファエルは、サラに対して本田哲郎神父が上掲書で主張するような、「病気の人、苦しんでいる人、しんどい思いをしている人の背中を、たとえばさすってあげて、『治りたいよね』とつぶやくようなかかわり」を持っていたわけでは、ありませんでした。
そのような記述は、トビト記にはいっさい存在しません。

間近に寄り添ったり付き添い続けてではなくて、ある程度の距離と節度とを保った関わりの中で、天使ラファエルはトビトそしてサラに対して、相手にとって適切で本当に必要な「癒やし」を実践的に行ない、それをトビト記では「テラペウオ」というギリシア語で表現しているわけです。

【3】アボット・スミスで本田哲郎神父のテラペウオ論を検証する

前掲書の本田哲郎『聖書を発見する』の30ページには、次の記述があります。

「(この辺の経緯に興味があるなら、アボット・スミスという人の『新約聖書ギリシア語辞典』が大変有益です。古いものですが、必要に応じてアラマイ語、ヘブライ語と対照してくれています。七十人訳ではどのヘブライ語を、このギリシア語に訳すことが多いか、などというデータも含めて紹介しています)」

そこで、公平を期す意味でも、本田哲郎神父の推奨しているその辞典で、「テラペウオ」の意味を調べてみます。

archive.org/details/manualgreeklexic00abborich

archive.org/stream/manualgreeklexic00abborich#page/n6/mode/1up

206ページの4行目には、“θεραπεύω”、つまり「テラペウオ」が見つかります。

archive.org/stream/manualgreeklexic00abborich#page/206/mode/1up

そして、さらに四行下まで読み進めていくと、斜字体で、“SYM.:ἰάομαι”という記載があります。

巻頭の略語表を参照すると、”SYN.”は、”synonym.”、つまり同義語(同意語)を意味します。

archive.org/stream/manualgreeklexic00abborich#page/n14/mode/1up

また、「イヤオマイ(“ἰάομαι”)」は、212ページの7行目に見つかります。

archive.org/stream/manualgreeklexic00abborich#page/212/mode/1up

そして、さらに五行下まで読み進めていくと、斜字体で、“SYM.:θεραπεύω,q.v.”という記載があります。

巻頭の略語表を参照すると、”q.v.”は、”quod vide.”、すなわち、「〜を参照せよ」「〜を見よ」ということです。

……つまり、【2】で考察したように、やはり、「イヤオマイ」だけではなく「テラペウオ」にも「治す」「癒やす」という意味合いがあり、ことさらに「イヤオマイ」と「テラペウオ」の両者を区別しようとする本田哲郎神父の見解は誤り、と言わざるをえません。

【4】『聖書と歎異抄』の中の「イヤオマイ(イアオマイ)」と「テラペウオ」

・五木寛之、本田哲郎『聖書と歎異抄』(東京書籍)130ページ〜131ページ

「五木 聖書を読んでいると、びっくりぐらい何度も目を治したり病気を治したりするけれど、それはつまり貧しき人びと、病んだ人たちに、具体的な方法で対応しているだけであって、それが目的じゃないと思います。」
「本田 つまり『はらわたをつき動かされて』思わず手を出してしまうという、それも医者のように『治す』(イアオマイ)ためはなくて、看護師さんみたいに『手当て』(テラペウオ)をする、そこまでなんですよね。医者だったら『イアオマイ』、治療するという単語があるにもかかわらず、『テラペウオ』、つまり、テラピー、介護する、看護する、さする、と言う。もともと、テラペウオは軍隊用語で、家来が王様に奉仕すること、医療関係で使うときには『介護』の意味なんです。だから、イエスのほうから『よし、わしは神の子だから、お前、治してやる』というような発想は全然なかったみたいです。」
「五木 へえ。やはりそうなんですか。」
「本田 そう。よくなるかどうかわからないけど、つらいねえと背中をさすってあげたりとか。」

(注)『聖書と歎異抄』では「イアオマイ」と表記されている。

【5】トビト記には「テラペウオ」と「イヤオマイ」の両方が登場していた

トビト記では、【2】で示した通り、10章3節で「テラペウオ」が用いられていましたが、同じような文脈ながら3章17節では「イヤオマイ」が用いられています。

◯トビト記3章16節〜17節
「同じ瞬間に、トビトとサラの祈りは、ともに神の栄光の前に聞き入れられ、二人を癒やすために(iasasthai)ラファエルが遣わされた。トビトに対しては、彼が再び自分の目で神の光を見ることができるように、その目の白い幕を取り除くためであり、またラグエルの娘サラに対しては、彼女を悪霊(あくれい)アスモダイから解き放し、トビトの息子トビアに嫁として与えるためであった。トビアがほかの求婚者たちよりも、彼女を娶る資格があったからである。ちょうどその時、トビトは中庭から戻り、ラグエルの娘サラは二階の部屋から下りて来た。」

つまり、トビトとサラの二人の癒やしに関して、3章17節では「イヤオマイ」というギリシア語で表現され、12章3節では「テラペウオ」というギリシア語で表現されています。

ということは、「癒やし(癒やす)」という意味合いにおいて、「イヤオマイ」と「テラペウオ」は明らかに重なっているわけです。
あえて差異を強調するとすれば、どちらかといえば、「イヤオマイ」は回復したという「結果」が強調されたニュアンスで、「テラペウオ」は治療行為つまり「過程」を強調するニュアンスといえなくもないですが、本田神父が『聖書と歎異抄』の前掲箇所で主張しているような「イアオマイ=医療、テラペウオ=看護・介護」という二分法は、やはり、実際の聖書ギリシア語の用法には合致していないと言わざるを得ません。

ルカによる福音書4章23節では、医者を意味しているギリシア語「イヤトロス(iatros)」が登場しますが、実はこの「イヤトロス」という名詞は、動詞「イヤオマイ」に由来します。
ところが、この「イヤトロス」が実行する行為を表現する動詞の方は、「テラペウオ」で表現されます。
このことも、「イヤオマイ」と「テラペウオ」の意味合いが重なる部分があることを証明しているのです。

◯ルカによる福音書4章23節
「そこで、イエスは仰せになった、『あなた方はきっと、<医者よ(Iatre)、まず自分自身を治せ(therapeuson)>ということわざを引いて、<カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、故郷のここでも行え>と言うだろう』。」

つまりルカ4章23節では、本田哲郎神父が『聖書と歎異抄』130〜131ページで主張していることとは異なり、医者という職業の本分が「テラペウオ」を行なうことである事実を前提とした文脈になっているのです。

そもそもこのように福音書に記述している当の本人のルカ自身が「医者」なのですから、ルカ福音書のギリシア語の記述と本田哲郎神父の主張が矛盾する場合、当然ながら誤っているのは本田哲郎神父の方であるということです。
ルカ自身が本職の医者なのですから、「イヤオマイ」と「テラペウオ」の使い分けを間違えるはずもありません。

◯コロサイの人々への手紙4章14節
「愛する医者(iatros)のルカとデマスもよろしくと言っています」

コロサイの人々の手紙では、ルカのことを「イヤトロス」、医者であると紹介しています。

トビト記2章10節にも、「イヤトロス」(「イヤオマイ」の名詞形)が「テラペウオ」を行なう記述があります。

◯トビト記2章10節
「しかし、雀(すずめ)がわたしの上の壁にいるのに気づかなかった。その温かい糞(ふん)が目に落ち、目に白い膜ができたので、治すために(therapeuthēnai)何人かの医者(iatrous)を訪れた。しかし、彼らがわたしの目に薬を塗れば塗るほど、白い膜のためにますます見えなくなり、遂に完全に失明してしまった。四年間、わたしは目が見えず、兄弟たちはみな、このことを悲しんだ。アヒカルはエラムに行くまでの二年間、わたしを養ってくれた」

旧約聖書のレビ記14章には、家屋に生じた「かび」に関するモーセの律法の記述がありますが、その箇所からも明らかなように、「イヤオマイ」という言葉は別に奇跡的治癒(超自然的治癒)の場合に限って用いるわけでは、全くありません。
七十人訳聖書のギリシア語を付記して、その箇所を提示します。

◯レビ記14章48節
「祭司が入って調べ、家が塗り替えられた後、そのかびが家に広がっていなければ、そのかびは治った(iathē)のである。祭司はその家を清いものとする」

この場合の「かび」が「治った」ことに関しては、特には神の奇跡的介入(超自然的介入)は関係していません。

ということは、この「イヤオマイ」というギリシア語に関連して、本田哲郎神父が『小さくされた人々のための福音』17ページにおいて「奇跡幻想を生んだ『いやし』と『手当て』の混同」などという表現を使っているのはナンセンス、と言わざるを得ません。

同じページには、福音書でイエスが行なった病人の「いやし」に関連して、「これを見るかぎり、イエスにならうと言うからには、わたしたちも『いやし』のパワーが発揮できるようにならないうちは、キリスト者として本物とは言えないと思ってしまいます。」などと書かれていますが、使徒言行録8章の魔術師シモンでもあるまいし、その種の浅薄な思い違いをしているキリスト者は本田神父が言っているほどには存在しないものと思われます。

ヘブライ人への手紙12章の次の記述は、「イヤオマイ」が奇跡的治癒(超自然的治癒)ばかりではなく「訓練を通した治癒」を意味する場合もありうることを示している、一例です。

◯ヘブライ人への手紙12章10節〜13節
「肉親の父は、しばらくの間、自分の思いのままにわたしたちを訓練しましたが、霊の父は、わたしたちの益のために訓練なさるのです。これはわたしたちが、その聖性にあずかるためです。どんな訓練でも、その時は、楽しいものではなく、むしろ苦しいものに思われますが、後になると、この訓練は、それによって鍛えられた人々に、義という平和の実をもたらします。ですから、あなた方はなえた手と、弱った膝をまっすぐにしなさい。また、あなた方の足のために、まっすぐな道を造りなさい。これは、足の不自由な人が道をそれることなく、かえって丈夫になる(iathē)ためです」

結局のところ、「イヤオマイ」にしろ「テラペウオ」にしろ、それが奇跡的治癒(超自然的治癒)を意味しているかどうかについては、注意深く文脈を踏まえた上で判断していく必要があるということです。

旧約聖書の箴言12章には次のような記述がありますが、この場合の「イヤオマイ」も本田神父の主張と異なり、奇跡的治癒でも医者の医療行為でもありません。

◯箴言12章18節
「軽々しく話す人は傷を与える剣(つるぎ)のようなもの。しかし、知恵ある者の舌は人を癒(い)やす(iōntai)」

【6】「医者」ルカは「テラペウオ」と「イヤオマイ」をどう使用していたか

ルカ福音書9章には、パンを増やす奇跡の前にイエスが人々を癒(い)やされた記述があります。
ここでは、動詞「テラペウオ」の名詞形「テラペイア(therapeia)」が登場します。

◯ルカによる福音書9章11節(フランシスコ会聖書研究所訳『聖書』(サンパウロ))
「ところが、群衆はこれを知って、イエスの後を追ってきた。イエスはこの人々を迎えて、神の国について語り、また治療(therapeias)を必要とする人々を癒(い)やされた(iato)」

フランシスコ会聖書研究所訳は「テラペイア」を「治療」と訳しています。

一方、本田哲郎神父は自分の翻訳では、持論通り、「テラペイア」を「手当て」と訳します。

◯ルカによる福音書9章11節(本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音』(新世社))
「しかし、民衆はそれを知って、イエスについて行った。イエスはかれらを迎え、神の国について話してやり、手当て(therapeias)が必要な人たちを、いやしていた(iato)。」

ルカ福音書のこの箇所では、「テラペウオ」が必要であった人々に対してイエスが実際に行なったことは「イヤオマイ」でした。

ところが、本田哲郎神父の主張によれば、【1】で引用した通り、「イエスにとって大事にしたいのは、『治す』(イヤオマイ)ことよりも痛みを共感して『手当てする』(テラペウオ)ことであったように思われます。」(『聖書を発見する』241ページ)だということです。

もしも本田神父の主張するように、イエスが「イヤオマイ」よりも「テラペウオ」を重視していたとするなら、どうしてルカ9章11節ではイエスは「テラペウオ」を必要としていた人々に対して「イヤオマイ」をあえて行なったのでしょうか。
ここに至って、本田哲郎神父の論理は破綻しています。

どうしても「テラペウオ」と「イヤオマイ」という二つのギリシア語の意味合いの違いにこだわりたいというのであれば、「治療が必要な人たちを回復させた」とでも訳すべきでしょう。

同じルカ福音書の13章には、次のような「テラペウオ」の記述があります。

◯ルカによる福音書13章10節〜14節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「さて、安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、霊に憑(つ)かれて、十八年も病気になっている女がいた。腰が曲がり、どうしてもまっすぐ立つことができなかった。イエスは彼女を見ると、呼び寄せ、『さあ、あなたは病気から解放された』と仰せになって、彼女の上に手をお置きになった。すると、立ちどころに腰がまっすぐになり、神をほめたたえた。しかし、会堂司(つかさ)は、イエスが安息日に病気をお治しになった(etherapeusen)ことに憤り、群衆に向かって言った、『働くべき日は六日ある。だからその間に来て、治してもらうがよい(therapeuesthe)。安息日にはいけない』。」

◯ルカによる福音書13章10節〜14節(本田哲郎訳)
「安息日に、イエスはある会堂で真実をときあかしていた。そこに、十八年間『弱さの霊』に取りつかれた婦人がいた。腰がまがったままで、どうしてものばすことができなかった。イエスはその人を見ると、そばに呼び、『さあ、あなたの弱さから、解放されなさい』と言い、両手を婦人の上においた。するとその人は、たちまち背すじがまっすぐになり、神をたたえた。これに対して会堂主事は、イエスが安息日に手当てをした(etherapeusen)ことに憤慨し、民衆に向かって、『労働すべき日は六日ある。あなたたちはそのあいだに来て、手当てをしてもらえばいい(therapeuesthe)。安息日はだめだ』と言った。」

本田哲郎神父も「腰がまがったままで、どうしてものばすことができなかった」「たちまち背すじがまっすぐになり」と訳しているのですから、この場面の「テラペウオ」は「手当て」「看護」「介護」ではなく、「治療」「治癒」の意味合いでしょう。本田神父の「手当て」という表現は、この場合は不適切で、むしろ誤訳でしょう。

ルカ福音書6章の次の事例でも、本田哲郎訳では「手当て」と表現していますが、実際のところ「テラペウオ」は「手当て」「看護」「介護」ではなく、「治療」「治癒」を意味しています。

◯ルカによる福音書6章6節〜7節、9節〜10節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「また、別の安息日のこと、イエスは会堂に入り、教えておられた。そこには、右手のなえた人がいた。律法学者やファリサイ派の人々は、イエスを訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日にその人を癒(い)やすか(therapeuei)どうかを窺(うかが)っていた」
「そこでイエスは彼らに仰せになった、『あなた方に尋ねるが、安息日に許されているのは善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか』。そして一同を見回し、その人に『手を伸ばしなさい』と仰せになった。そのとおりにすると、手は元どおりになった」

この箇所も、『聖書と歎異抄』120〜121ページにおける本田哲郎神父の主張とは異なっている実例です。

最後に、ルカ福音書8章からもう一か所だけ引用します。

◯ルカによる福音書8章43節(フランシスコ会聖書研究所訳)
ところで、十二年このかた、出血病を患っている女がいた。彼女は全財産を医者に(iatrois)つぎ込んだが、誰(だれ)にも治してもらうことができなかった(therapeuthēnai)。

◯ルカによる福音書8章43節(本田哲郎訳)
そこに一人の婦人がいた。十二年ものあいだ出血がつづいている女性で、生活費をぜんぶ医者(iatrois)につかったが、どの医者も治療できなかった(therapeuthēnai)。

この箇所でも、【5】で紹介したルカ福音書4章23節と同様、「医者(イヤトロス。イヤオマイの名詞形)」が本分としている行為を「テラペウオ」で表現しています。そしてこの箇所に関しては文脈上、さしもの本田哲郎神父も「テラペウオ」を「治療」として日本語訳するしかなくなっています。
ことここに至り、本田神父の主張は完全に破綻したことになります。

本田哲郎神父は自分の個人訳聖書である『小さくされた人々のための福音』18ページにおいては、この聖書ギリシア語「テラペウオ」について「英語 Therapy の語源となったことばですが、これを病人にあてはめるとしても、『看病する』『手当する』くらいにしか訳せないはずです。」と主張していますが、その同じ本のルカ福音書8章43節(304ページ)では「治療」という表現を平然と使っているのですから、これでは信用できません。

【7】本田哲郎神父のテラペウオ論は誤り

ヨハネの黙示録22章2節にも、「テラペウオ」の名詞形「テラペイア」が登場します。

◯ヨハネの黙示録22章2節
「川は都の大通りの中央を流れて、その両岸には命の木があり、年に十二回実を結び、毎月実を実らせる。その木の葉は、諸国の民を癒(い)やすためのもの(therapeian)である」

いうまでもありませんが、「命の木」は諸国の民を「治療」するためのものであって、「看護」「介護」するためのものではありません。

やはり、本田哲郎神父の主張が実際の聖書ギリシア語の記述とは合致しないことが、こういう箇所からも明らかになってしまうということです。

マタイによる福音書には、エルサレム入城後のエピソードの一つとして、次の記述があります。

◯マタイによる福音書21章14節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「また境内で、盲人や足の不自由な人がイエスのもとに来ると、彼らを癒(い)やされた(etherapeusen)」

◯マタイによる福音書21章14節(本田哲郎訳)
「神殿で、目の見えない人や足の不自由な人たちがイエスのそばにやって来た。イエスはその人たちを手当てした(etherapeusen)。」

この箇所で用いられているギリシア語は、「テラペウオ」です。

例えば、傷ついた人であれば、傷を洗ってあげたり、包帯をしてあげたりといった、「手当て」があります。
高熱の人であれば、水に浸した布で額を冷やしてあげたり、水を飲ませたりといった、「手当て」があります。

しかし、目の見えない人や足の不自由な人に対する「手当て」とは、どういうものなのでしょうか。
そもそもサムエル記下5章8節にある通り、「目の見えない者と足の不自由な者は神殿に入ることはできない」と聖書の時代には考えられていたのです。

「手当て」などではなく、その場で治癒させないことには、イエス自身も目の見えない人たちも足の不自由な人たちも皆が皆、サムエル記下にある昔からの言い伝えに違反することになり、祭司長や律法学者たちにイエスを逮捕するための絶好の口実を与えてしまうことになるのです。

やはりこの箇所に関していえば、「手当て」ではなく、「(瞬時の)治癒」であった、と解釈するほかありません。

さて、有名な「善きサマリア人」のエピソードで、サマリア人が行なった行為は「エピメレオマイ(epimeleomai)」というギリシア語で表現されています。

◯ルカによる福音書10章33節〜35節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「ところが、旅をしていた、一人のサマリア人がその人のそばに来て、その人を見ると憐(あわ)れに思い、近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をした。それから、自分のろばに乗せて宿に連れていき、介抱した(epemelēthē)。翌日、サマリア人はデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿の主人に渡して言った、『この人を介抱してください(Epimelēthēti)。費用がかさんだら、帰ってきた時に支払います』。」

フランシスコ会聖書研究所訳の「介抱した」「介抱してください」という日本語訳の箇所は、本田哲郎訳でも同様に表現されています。

この「エピメレオマイ」という動詞は、テモテへの第一の手紙にも登場します。

◯テモテへの第一の手紙3章5節
「自分の家を治める術(すべ)を知らない者に、どうして神の教会の世話ができる(epimelēsetai)でしょうか」

同じギリシア語は、旧約聖書第二正典のシラ書にも登場します。

◯シラ書30章25節
「朗らかな心は食欲を増す。そして人は、食べ物にも心を配るようになる(epimelēsetai)」

「仕(つか)える」「もてなす」などの表現がされる以下に示す各箇所では、福音書で用いられている聖書ギリシア語は「ディアコネオ(διακονέω – diakoneō)」であって、問題の「テラペウオ」ではありません。

◯マルコによる福音書1章13節(フランシスコ会聖書研究所訳)
イエスは四十日の間そこに留(とど)まり、サタンによって試みられ、野獣とともにおられたが、み使いたちがイエスに仕えていた(diēkonoun)。

◯マルコによる福音書1章13節(本田哲郎釈)
イエスは、四十日間荒れ野にいて、サタンから試みを受けられ、そのあいだ、野のけものたちといっしょにおり、み使いたちがイエスに仕えていた(diēkonoun)。

◯マルコによる福音書1章30節〜31節(フランシスコ会聖書研究所訳)
ところが、シモンの姑が熱を出して床に就いていたので、早速、人々は彼女のことをイエスに知らせた。イエスは近寄り、手をとって起き上がらせた。すると熱が引き、姑は一同をもてなした(diēkonei)。

◯マルコによる福音書1章30節〜31節(本田哲郎訳)
シモンのしゅうとめは熱病にかかって床(とこ)についていた。人々は彼女のことをイエスに話した。イエスは彼女のところへ行き、手をしっかりにぎって起こした。すると熱は去り、彼女はみんなをもてなした(diēkonei)。