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試論:「金持ちとラザロ」の背景を140文字以内で

主イエスはルカ16章で「不正な管理人」の喩えを話され、「あなたたちは神と富の両方に仕えることができない」と仰せになった。あるファリサイ派の人々が聞いていたが、彼らは富に魅かれていた。この人々に対し、主イエスは御自分を「死者の中から生き返る者」(31節)と称されて、話を続けられた。

【追記】

聖書の中で「犬」は、<良からぬもの>の比喩で用いられる(詩編22編17(16)節、マタイ7章6節、フィリピ3章2節等)。ルカ16章「金持ちとラザロ」の話に、できものをなめる犬が登場する。現代の日本人は犬の行為を慰めと捉えがちだが、古代のイスラエルでは恐らく「傷口に塩」を意味した。

主イエスはルカ16章で「神と富の両方に仕えることはできない」(13節)と教えられた。具体的に、19節以下の「金持ちとラザロ」の話で憐れみの心を持たない者の末路を仰せになり、他方「不正な管理人」の話で「愛は罪を覆う」(一ペトロ4章8節)の意味及び「憐れみの道」の重要性を教えられた。

主イエスはルカ16章の「不正な管理人」のたとえで、私欲のためでなく隣人のために富を費やすならば救いが訪れると仰せになり、後に徴税人ザアカイがその実例となった。19章8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。誰かから何かをだまし取っていたならそれを四倍にして返します」。

一ペトロ4章8節は、箴言10章12節を踏まえて「愛は罪を覆う」と説く。この意味について、主イエスはルカ16章「不正な管理人のたとえ」で、ある人が常日頃から周囲に対して情け深く接するならば、神は必ずその人の以前の過ちに対しても情け深く接して下さる(マタイ6章14節)と御説明された。

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じ道理である。

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

主はホセア6章6節「わたしが喜ぶのは憐れみであって『いけにえ』ではない」をマタイ福音書で二度(9章13節、12章7節)引用され、隣人への敬意を欠いた者による尊敬など、神には受け入れられぬと教えられた。22章で律法の最も重要な掟の第一を神への愛、第二を隣人愛とされたことと符合する。