本田哲郎神父の著書『聖書を発見する』(岩波書店)84ページ~85ページには、次のような記述があります。
・「マリアが育ったナザレ村のあるガリラヤ地方は、預言者イザヤのころから他民族混住の地域で、『世俗の民のガリラヤ』というように、イザヤ書八章23節などでさげすまれているわけです。また、同時にローマ軍の駐屯地もあり、ユダヤ教の律法の遵守がきわめて困難な土地柄というふうに、ガリラヤは差別されていたのです。」
一方、ヘブライ大学教授で第二神殿時代のユダヤ史が専門のS・サフライ氏は、その講演録をまとめた『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』(サンパウロ)の中で、次のように発言しています。
・「残念なことですが、ほとんどの学者は、ガリラヤにはファリサイ派の人々が少なかったとか、律法の掟があまり守られていなかったとか、ガリラヤは無知な人々の地であるなどと、ひどい言い方をしてきました。しかし、これが全くの誤りであるということを指摘したいと思います。つまり、イエスは律法を知らなかったり、掟を守らなかった学のない人々の代表ではありません。実際はその反対で、ユダヤ教が生きていたという点では、ガリラヤはユダヤ以上にユダヤ教的でした。」(14ページ~15ページ)
・「エルサレムとその周辺のユダヤ地方との関係と、エルサレムとガリラヤ地方との関係を比較検討してみますと、次のように結論されます。ユダヤ地方よりもガリラヤ地方のほうが神殿とエルサレムの良い教えにずっと近かったのです。」(182ページ)
・「エルサレムの住民とユダヤの住民の違いを集めれば、長い個条書きの例ができます。この点についていつでもエルサレムの住民はユダヤの住民より高度に宗教的であり、家族関係も高い水準にあります。ガリラヤの住民もまた同様に、ユダヤの住民よりは高い水準にありました。エルサレムの住民の場合、婚約後新郎になる人が新婦となる人を訪れても、彼は決して性的交渉を持ちませんでした。しかしユダヤではこのことについてあいまいでした。この点でも、ガリラヤの人々はエルサレムの住民のようにふるまいました。すべての例は、倫理的、社会的にユダヤの住民よりエルサレムの住民の水準が高かったことを示しています。エルサレムはユダヤ教文化の中心地でした。そしていつでも『ガリラヤはエルサレムのようである』という言葉が加えられています。」(183ページ~184ページ)
・「ガリラヤでは、清めについてはどうだったでしょうか。ヨハネによる福音書の第二章をお開きください。カナの結婚式の場面です。ここは祭司の家庭ではないようです。彼らはイエスの親類でした。イエスの一行も結婚式に行きましたが、そこに石で作った水がめが置かれていました。それは、その場所では清浄規定が厳格に守られていたことを意味します。かめや茶碗など、土器のものを準備する方がずっと容易で簡単です。けれどもそれらは汚れる危険があります。それで、ある家族では絶対に汚れることがないように、たとえば、だれか清くない人が触っても、中のぶどう酒が清くあり続けるように、器の作り方を一層むずかしくします。ここでは大きなかめです。彼らはぶどう酒を好んでいました。この大きなかめは土器ではなく石のかめでした。これでヨハネが正確に記しているように 『清めに用いる石の水がめ』ということが分かります。」(187ページ)
……当時の実情が本田神父の主張とは全く異なっていたことが、明らかにされています。
ガリラヤにローマ軍の駐屯地があったことから、「ユダヤ教の律法の遵守がきわめて困難な土地柄」などと本田神父は勝手に決めつけていますが、そもそもエルサレムの神殿の目と鼻の先(数百メートルの距離)にもローマの総督が駐在するアントニア城があり、主イエス・キリストの御受難の際も、主がローマ総督ピラトとユダヤの指導者たちの間を往復させられたことがルカによる福音書に記録されています。
また、同様に御受難の際の福音書の記載からも、その当時のエルサレムに多数のローマ軍の兵隊が駐屯していたことは明らかです。
他ならぬエルサレムにも、ローマ軍は駐屯していたのです。
にもかかわらず、「エルサレムはユダヤ教文化の中心地」でした。
ローマ軍の駐屯地云々は、ユダヤ教の律法の遵守とは基本的には関係なかったのです。
そして、本田哲郎神父が「世俗の民のガリラヤ」と日本語訳したイザヤ書8章23節ですが、原文に用いられているヘブライ語「ゴイ(גוי – goy, gowy)」の意味からは、「国」「民」のニュアンスはあっても、本田神父の言う「世俗」という意味合いはないと考えられます。
新共同訳やフランシスコ会聖書研究所訳の「異邦人のガリラヤ(は栄光を受ける。)」という表現の方がはるかに適切で、本田神父の訳はかなり恣意的・作為的です。
(本田神父自身、直前で「他民族混住」という表現を使っていますね)
イザヤ書8章23節はガリラヤについて「栄光を受ける」と預言しているのであって、本田神父の「さげすまれている」という表現は原文の記述に反しており、むしろ意味は逆です。
ちなみに「エルサレムの住民の場合、婚約後新郎になる人が新婦となる人を訪れても、彼は決して性的交渉を持ちませんでした。」というサフライ氏の発言と、婚約中ヨセフはマリアと関係を持たなかったというマタイ福音書1章25節の記述とを比較しても、やはりヨセフの先祖はエルサレムからガリラヤに来たという可能性が大きいと考えられます。
最後に再び、ヘブライ大学教授のS・サフライ氏の講演録をまとめた『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』(サンパウロ)179ページ~180ページから引用します。
・「会場の皆さんはよくご存じと思いますが、イスラエルの地は北にガリラヤ、中ほどにサマリアの地、そして南にユダヤと三つに分かれています。ガリラヤとユダヤの中間にサマリアがあって、ユダヤ人の二大居住地を隔てています。イスラエルの子らが捕囚から帰ったとき、ユダヤだけに帰ってきたこともよく知られています。」
・「それから四〇〇年間近く、ユダヤ人が生活したのはエルサレムの周辺と、ユダヤ地方ぐらいなものでした。当時、ガリラヤはユダヤ州には属していませんでした。パルティア、ペルシアあるいはヘレニズム時代、ローマ時代でもそうでした。紀元前一六七年まで、ガリラヤの地に住んだユダヤ人はごくごく少数でした。ハスモン王朝の王たちがガリラヤの地を征服して後彼らの王国に加えました。ガリラヤのほとんどの町々は、紀元前二世紀の終わりになって建設されました。」
・「以上のことをひと言で申し上げますと、第二神殿時代のかなり後期になって、ガリラヤはユダヤ人の居住地になったということです。」
また、同書14ページには次のようにあります。
・「ところで、ユダヤとガリラヤは異なる歴史を育んできました。紀元前六世紀半ば、すなわち五三七年から紀元前二世紀半ばのマカバイ時代に至る数百年の間、ユダヤには、バビロンから帰還したユダヤ人たちが入植しましたが、当時、ガリラヤはユダヤ人の居住地域ではなく、ごく少数のユダヤ人が住んでいるだけでした。しかし、それからおよそ一五〇年の間に、ユダヤ人はガリラヤに多くの町を作りました。紀元前一世紀から紀元一世紀におけるガリラヤの大都市の名前の多くは新しいものです。イエスの時代、多くのユダヤ人がユダヤやディアスポラからやってきて、ガリラヤに彼らの町を建てました。セフォリス、ティベリア、アラバ、ミグダル、ナザレといった町々は、マカバイ時代の末から第二神殿崩壊までの間に建てられたものです。」