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予備的考察:創世記で蛇の頭を砕くのは誰なのか

◯創世記3章15節(フランシスコ会聖書研究所訳:サンパウロ)
「わたしはお前と女の間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵意をおく。彼はお前の頭を踏みつけ、お前は彼のかかとに咬みつく」

◯創世記3章15節【後半部分】(新共同訳:日本聖書協会)
「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」

◯創世の書3章15節【後半部分】(バルバロ訳:講談社)
「女のすえは、おまえの頭を踏みくだき、おまえのすえは、女のすえのかかとをねらうであろう」

◯創世の書3章15節【後半部分】(バルバロ ー デル・コル訳:ドン・ボスコ社)
「かれは、おまえの頭をふみくだき、おまえは、かれのかかとをかむであろう」

◯創世記3章15節【後半部分】(光明社文語訳)
「彼女は汝の頭を踏み碎き、汝は彼女の踵を窺わん」

……この創世記3章15節の後半部分に関して、次のようなことが言えます。

【A】主イエス・キリストの時代の旧約聖書の原文は、母音記号がなく子音文字のみのヘブライ語で書かれており、この子音文字のみの原文を読む限り、「創世記3章15節で蛇の頭を踏みつける存在」について使用されている三人称単数の代名詞(הוא – “hu”または”hi”)は、「彼(”hu”)」「彼女(”hi”)」「それ(”hu”)」の三通りの解釈が可能である。

【B】イエスの御降誕の二百数十年前に初めて創世記がヘブライ語からギリシア語に訳された際(七十人訳聖書)、「創世記3章15節において蛇の頭を踏み砕く存在」に関しては、ギリシア語で「彼」を意味する三人称単数の代名詞(αὐτός – “autos”)で翻訳された。ヴルガタ訳以前の古いラテン語訳聖書にはギリシア語七十人訳を底本とし、問題の三人称単数代名詞を「彼(ipse)」と翻訳しているものも存在した。

【C】四世紀の終わりから五世紀の初めにかけて聖ヒエロニムスが翻訳したラテン語ヴルガタ(Vulgata)訳聖書では、「創世記3章15節において蛇の頭を踏み砕く存在」に関しては、ラテン語の「彼女(ipsa)」という代名詞で翻訳された。聖ヒエロニムスも当初は旧約聖書のラテン語訳は七十人訳ギリシア語聖書を踏襲するものを考えていた。その立場であれば、ふさわしいラテン語訳は「彼(ipse)」であるということになる。しかし聖ヒエロニムスは七十人訳を底本とするスタンスに満足しなくなり、旧約聖書をヘブライ語本文から直接ラテン語訳することとし、その結果として完成したヴルガタ訳では、問題の箇所のラテン語は「彼女(ipsa)」であった。カトリックの日本語訳聖書の中で、「彼女」という訳を採用したのは、ヴルガタ訳を底本とした光明社の文語訳旧約聖書である。

【D】子音文字に母音記号を付け加えたヘブライ語で記された旧約聖書本文で最古のものとされているのは、イエスの御降誕から実におよそ一〇〇〇年も後になってから中世に成立したレニングラード写本(新共同訳やフランシスコ会聖書研究所訳が底本とする「ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア」の底本)であるが、この写本では「創世記3章15節において蛇の頭を踏み砕く存在」に関しては、ヘブライ語で「彼」または「それ」を意味する三人称単数の代名詞(ה֚וּא – “hu”)で解釈(表記)され、「彼女(הִ֛וא – “hi”)」というヘブライ語にはなっていない。しかし、この解釈には、レニングラード写本の成立が相当遅い年代であることから、ユダヤ教側の独自見解が含まれている可能性も否定できない。主イエス・キリストの時代におけるヘブライ語の旧約聖書本文は、母音記号が存在しない文法で記述されたものだったからである。そして聖ヒエロニムスがヴルガタ訳を完成させた後さらに下った時代になってようやく初めて、母音記号付きの文法で旧約聖書本文が記述されるようになったのである。

【E】二〇世紀の最後の四半世紀になって登場した、現代のカトリック教会のラテン語聖書“Nova Vulgata”(新ヴルガタ)において「創世記3章15節で蛇の頭を踏み砕く存在」に関しては、ラテン語の“ipsum”(「それ」)という三人称中性代名詞で翻訳されている。つまり、ラテン語ヴルガタ訳の「彼女(ipsa)」という伝統的なカトリックの解釈が事実上ここで覆されてしまっているような印象さえも受ける。伝統的にカトリック教会は、この場合の「彼女」を聖母マリアのことであると理解して来た。

【F】「〔女の〕子孫」を表わす七十人訳のギリシア語(σπέρματός – “spermatos”)とヴルガタ訳(及び新ヴルガタ)のラテン語(semen)は、いずれも中性名詞である。よって、「中性名詞→中性代名詞」という対応関係を考慮すると、新ヴルガタの「それ(ipsum)」は「〔女の〕子孫(semen)」に対応している訳語であると考えられるが、一方で「〔女の〕子孫」を表わす原文のヘブライ語(זַרְעָ֑הּ – “zarah”)は男性名詞であり、これが多くの日本語訳聖書を含めて現代の諸々の各国語訳聖書が「彼」と表現する根拠となっていると考えられる。主イエス・キリストに従う人々にとって、この場合の「彼」とは、まさに主イエス・キリストのことであり、それゆえにこの箇所は「原福音」として解釈されて来た。

【G】しかし、あえて繰り返し強調すると、古代の旧約聖書原文の表記に用いられていたヘブライ語は、「母音記号なし・子音文字のみ」で書かれている。この子音文字のみの原文を読む限り、「創世記3章15節で蛇の頭を踏み砕く存在」について使用されている三人称単数の代名詞(הוא – “hu”または”hi”)に関しては、「彼(”hu”)」「彼女(”hi”)」「それ(”hu”)」の三通りの解釈が可能であり、この単語をどのように解釈すべきであるかは、原文の内容(文脈)に大きく依存するものと考えられる。従ってヴルガタ訳の「彼女(ipsa)」というラテン語表現を誤りと頭から決めつけるのはいささか早計であり、なお議論の余地が残されている。

注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488