【問】マタイ11章29節「わたしは柔和」の意味とは?
【答」同12章32節の通り御自分に対する「ガリラヤ人」「大工」「大食漢で大酒飲み」「徴税人や罪人の仲間」等の揶揄を、主イエスは看過される〔が、聖霊によって悪霊を追い出した事実を「悪霊によって」と誹謗するのは絶対に看過されない〕。
(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はマルコ3章28節以下で、御自身の人間(人の子)的側面(ガリラヤ人、大工等)を云々する人々には酌量の余地がまだ残されるが、御自身の神としての権威(聖霊によって悪霊を追い出した事実)を目の当りにしながらそれになお難癖をつける人については、最早決して酌量の余地はないと警告なさった。
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
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古代のギリシア語訳民数記12章3節は「柔和な人」と同じ単語を用い、モーセを他の誰よりも「柔和」だったとした。姉ミリアムと兄アロンにモーセが難癖をつけられた際、ミリアムを厳しく主は罰せられたが、姉のためにモーセは救いを求めて主に叫び、この時のモーセの態度が「柔和」の代表例とされた。
(注)別エントリー「試論:『誰よりも柔和な人』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『柔和な人』と憤怒の放棄を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
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ヨハネ1章は主イエス・キリストを「言(ことば)」「命」「人間を照らす光」等と象徴的に表現したが、その光は人々が心に秘めた悪意(レビ19章17節)を、容赦なく明るみに出す(マタイ9章4節、同12章25節)。神は罰するべき者は罰せられた(出エジプト記34章7節、民数記12章10節)。
(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
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イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
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