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イエスの「兄弟」「姉妹」:同胞か親戚か

現在のカトリック教会では四世紀末までに聖ヒエロニムスが主張していたのと同様に、聖母マリアの終生童貞そして聖ヨセフの終生童貞を主張している。

つまり、イエスの母マリアにはイエス以外の子は存在せず、また、イエスの養父ヨセフにも実子は存在しなかった、という主張である。

(注)別エントリー「『聖母マリアの終生童貞』の聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2754

しかし、このことに対しては、

「新約聖書には、イエス・キリストの『兄弟(たち)』や『姉妹(たち)』の存在が、記述されているではないか」

という異論が、当然ながら申し立てられてきた。

マタイ福音書12章46節や同13章55節にはイエス・キリストの「兄弟」の存在が記述され、また「姉妹」の存在もマタイ福音書13章56節やマルコ福音書6章3節に書かれている。
そしてガラテヤの人々への手紙1章19節には「主の兄弟ヤコブ」が登場する。

使徒言行録1章13節には十二使徒の二人の「ヤコブ」が登場するが、同12章の冒頭で「ヨハネの兄弟」の「ヤコブ」が殉教した後、12章17節以降では何の新しい説明もないまま「ヤコブ」という人物がエルサレムの教会で重責を担うようになっていったことが、記述されている。
12章17節以降に登場する「ヤコブ」に関して使徒言行録が何の注釈も加えていない以上、この「ヤコブ」は使徒言行録においては既出の人物ということになる。
消去法で考えるならば、この「ヤコブ」は「アルファイの子」に他ならず、一方、この「ヤコブ」は、ガラテヤ書で言及されるエルサレム教会の指導者である「ヤコブ」──すなわち「主の兄弟」の「ヤコブ」とも同一人物と見なすことができる。

つまり「主の兄弟ヤコブ」は「アルファイの子」であり、そうであるとすれば、この「ヤコブ」はヨセフの子ではなく、当然イエス・キリストの母マリアの子でもないということになる。
なぜならば、「ヤコブの母マリア」は、マルコ福音書16章1節そしてマタイ福音書27章56節では、イエスの母マリアとはまた別の人物として登場するからである。

もしも、ガラテヤ1章に登場する「主の兄弟ヤコブ」なる人物が仮に、マリアの実子だったとするならば、イエスの死後にマリアを自分の家に引き取って面倒を見る責任がある人物は、イエスの「愛する弟子」である聖ヨハネではなく、当然「主の兄弟ヤコブ」の方であるということになる。

しかし、新約聖書の記述でも、またカトリック教会の聖伝においても、イエスがこの世から去った後にマリアを自分の家に引き取って面倒を見たのは、イエスの「愛する弟子」聖ヨハネであった、という点で一致しており、決して聖ヨハネ以外の人物ではありえない。

たとえ古代のイスラエルでなく、現代の日本であっても、実子が他に存在しているにも関わらず、それをさしおいて死に行く息子の「弟子」の方の家にわざわざ引き取られて世話になることなど、常識で考えても絶対にありえず、実に不自然なこと極まりない話である。

主イエス・キリストに対する信仰(あるいは、主イエス・キリストの神性)を前提とするならば、聖母マリアの終生童貞(そしてそれに伴う聖ヨセフの終生童貞)は、聖母マリアそして聖ヨセフが主イエス・キリストの同居家族(それぞれが「神の家」の一員)であるがゆえの必然によるものと言える。

古代のイスラエルでは、「神の家」において、「神に奉仕する女性」が男性と「ともに寝る」ことなどは、サムエル記上2章22節〜25節に示唆されている通り、あってはならないこと、つまり不祥事であり宗教上の禁忌(タブー)であったからである。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

さて、新約聖書のギリシア語表現の中には、旧約聖書のヘブライ語表現から直訳されているものが少なくないが、「兄弟」や「姉妹」もその範疇に入る。
ヘブライ語における「兄弟」または「姉妹」とは、伯父甥(伯母姪)・叔父甥(叔母姪)や従兄弟(従姉妹)など、広く近親者を総称したものであり、必ずしも親を同じくする同胞を指すものではない。以下に、それらの実例を列挙する。

申命記25章5節には、古代イスラエルで家名を存続させる律法として、跡取りを生む前に夫に先立たれた妻と亡き夫の「兄弟」との結婚を義務付ける規定が存在した。ルツは規定に従いボアズと結婚したがボアズはルツの亡夫マフロンとは父も母も異なり、古代の「兄弟」とは親族全般を指す表現だと分かる。

バルバロ訳聖書(講談社)の『創世の書』29章12節と15節では、甥ヤコブと伯父ラバンの間柄として、ヘブライ語原文(ach – אָח)に忠実に「兄弟」と訳している。
フランシスコ会聖書研究所訳の創世記では「親族」「親類」などと訳しているが、原文を直訳するとあくまでも「兄弟」である。

また同じくバルバロ訳『創世の書』13章8節では、伯父アブラムと甥ロトの間柄として、やはりヘブライ語原文(ach – אָח)に忠実に「兄弟」と訳している。
フランシスコ会訳の創世記では「身内どうし」、日本聖書協会新共同訳では「親類どうし」などと訳しているが、原文を直訳するとやはり「兄弟」である。

バルバロ訳『創世の書』31章の46節と54節の「兄弟たち」は、フランシスコ会訳創世記では「一族の者」「一族」となっている。

出エジプト記4章18節では、親族の無事を確認したくなったモーセが舅のエトロにエジプト行きを願い出るが、フランシスコ会訳や日本聖書協会新共同訳が「親族」と訳している一方で、やはりバルバロ訳はヘブライ語原文(ach – אָח)に忠実に「兄弟」と訳している。

フランシスコ会訳でも士師記9章3節(「彼はわれわれの兄弟だ」)のように、近親者(甥)を「兄弟」と訳している箇所が見受けられる。レビ記10章4節でも、従兄弟の子を「兄弟」と表現している。

ヘブライ語表現では、「兄弟」が親を同じくする同胞を指す場合には、以下に示す事例のように、必ずその旨が付け加えられている。
例えば申命記13章7節には「同じ母の子であるあなたの兄弟」という表現があり、同じく申命記27章22節には「父の娘であれ、母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者は呪われる」という記述もみられ、士師記8章19節には「彼らはわたしの兄弟、わたしの母の子だ」という箇所がある。

申命記27章22節と同様の記述は、レビ記(18章9節と20章17節)にも存在する。

詩編50(49)編20節でも、「兄弟」と「(同じ)母の子」とをわざわざ別に分けて並記している。

◯詩編50(49)編20節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「座して兄弟の悪口を言い、母の子のうわさをまき散らす」

新共同訳では「同じ母の子」と表現している。

ただ単に「兄弟」「姉妹」というだけでは、親を同じくする人々かどうかが明らかではない。

それどころか、確かに血のつながりがあるとはいえ既に相当な遠縁の場合でさえも「兄弟」と表現されることがある。

民数記16章は、同じ部族であるレビ族(「レビの子ら」)全員を指して「兄弟」と呼ぶ。

◯民数記16章10節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「このように主は、あなたとあなたの兄弟であるレビの子らすべてをあなたとともに近づけられた。それなのに、あなたたちは祭司の職まで求めるのか」

サムエル記下19章13節では同じイスラエル人という観点から「兄弟」と表現されている。

申命記23章には、さらに広い意味合いで「兄弟」という語が用いられている。

◯申命記23章7節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「あなたはエドム人を忌み嫌ってはならない。あなたの兄弟だからである」

フランシスコ会聖書研究所訳の欄外の注には、「エドム人とイスラエル人は、双子の兄弟エサウとヤコブの子孫である」と説明されているが、双子の先祖から分かれてから申命記の時代まで既に何世代も経ているのである。

そしてサムエル記下1章26節では、親友ヨナタンの死を悼んだダビデが、故人に対して「わたしの兄弟」と呼び掛けさえしている。

聖書の時代におけるユダヤ人の「兄弟」「姉妹」の概念について、最も端的に明らかにしてくれるのは、旧約聖書の中のトビト記(バルバロ訳では『トビアの書』)である。

旧約聖書の中でも、いわゆる第二正典とされるトビト記は、死海写本に含まれるヘブライ語による断片があるものの、ギリシア語七十人訳やラテン語訳(旧ラテン語訳及びヴルガタ訳)に基づいて翻訳されるのが一般的である。

そのため、新約聖書でイエスの「兄弟(αδελφος – adelphos)」や「姉妹(αδελφη – adelphē)」として用いられているギリシア語が、旧約聖書の古代のギリシア語訳(七十人訳)ではどのような意味合いで用いられているかを、トビト記で検証することができる。

トビト記に登場するトビアの父親はトビト、母親はハンナである。
また、トビアと結婚することになるサラの父親はラグエル、母親はエドナである。
そして、3章15節と6章12節には、ラグエルの子はサラ一人だけであることが明らかにされている。
よってトビトとサラは、異母兄妹(姉弟)でも異父兄妹(姉弟)でもありえない。

にもかかわらず、6章19節ではトビアから見たサラを「妹」(フランシスコ会訳。バルバロ訳では「姉妹」)と表現しているが、この箇所で用いられているギリシア語は「姉妹(αδελφη – adelphē)」であって、これはマタイ福音書13章56節やマルコ福音書6章3節でイエスの「姉妹(たち)」を表現するものと同じ単語である。

これはトビアとラグエルが「兄弟(αδελφος – adelphos)」(7章10節)つまり親戚関係にあることに基づく表現と言える。

新共同訳では「身内の娘」あるいは「身内」(7章11節)と表現しているが、ギリシア語原文を忠実に日本語訳するのであれば、やはり直訳ならば「姉妹」であるべきである。

逆に言えば、マタイ福音書13章55節から56節やマルコ福音書6章3節における「兄弟」は、「身内」「親戚」「親族」と訳することが可能であり、「姉妹」についても同様であることが確認できる。

いうまでもなく、トビト記には大天使ラファエルがトビアの旅の同行者として登場し、ラファエルは当初、トビトの「兄弟である偉大なハナニアの子、アザリア」(5章13節)と名乗っており、トビアとアザリアは互いに「兄弟」と呼び合っている。

これらの記述から、聖書ギリシア語(聖書の時代にユダヤ人たちが使用していたギリシア語)では「兄弟」「姉妹」が「身内」「親戚」「親族」の意味として用いられることが、トビト記(トビアの書)の中の豊富な用例から証明できるのである。

◯トビト記4章12節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「息子よ、すべてのみだらな行いから身を守りなさい。何よりもまず、先祖の家系から妻を迎えなさい。お前の父の部族でない他の部族の女を娶ってはならない。なぜなら、わたしたちは預言者の子らだからである。息子よ、忘れてはならない。ノア、アブラハム、イサク、ヤコブおよびわたしたちの祖先はみな兄弟の中から妻を迎え、彼らはその子らにおいて祝福されたのである。彼らの子孫は、地を受け継ぐであろう」

このトビト記4章12節は、聖母マリアの先祖もまた聖ヨセフの先祖と同じくダビデであるという仮説についての、聖書的根拠の一つともいえる。

以上から、新約聖書の中で主イエス・キリストの「兄弟」「姉妹」の存在を示す箇所があったとしても、その「兄弟」「姉妹」の親の名前が明記されていない以上、それがイエス・キリストと親を同じくする同胞の存在を意味するものであると決めつけることはできない。
逆に言えば、主イエス・キリストと親を同じくする「兄弟」「姉妹」であると新約聖書に明記していない限り、その「兄弟」「姉妹」については、むしろ親を同じくしない従兄弟(従姉妹)などの広く近親者を指す表現であろうと推測する方が、妥当なのである。

現に、主イエス・キリストの「兄弟」「姉妹」として新約聖書に挙げられている人々のうち、父親がイエスの養父ヨセフであると書かれている者は一人としていないし、ましてや母親がイエスの母マリアであると書かれている者も一人として存在しない。

つまり主イエス・キリストの「兄弟」「姉妹」の存在を示す聖書の記述と、聖母マリアと聖ヨセフの終生童貞を主張するカトリック教会の聖伝とは、なんら矛盾しないことになる。

むしろヘブライ語の「兄弟」「姉妹」の用法にカトリックの解釈こそ合致しているとさえ言える。

マタイ福音書1章25節にはヨセフがイエスの実父ではないことが書かれているが、一方でマリアがイエスの実母であることは、同節で「産む」という動詞が使われてその母子関係が語られていることからも明らかである。

参考までに、トビアがサラを娶った時の祈りの言葉から一部分を引用する。

◯トビト記8章7節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「主よ、あなたはご存じです。今、わたしがこの妹を娶るのは、決して情欲のためではなく、真心からです。わたしと彼女とに憐れみを垂れ、ともに老いるまで生き永らえさせてください」

これまでの議論からは、この引用箇所でトビアがサラを「妹」と呼ぶ場合、この「妹」の意味するのが「親戚の女性」であって「親を同じくする同胞」ではないことは、明白である。

ちなみに、十二使徒の中の「ゼベダイの子ヤコブ、その兄弟ヨハネ」(マタイ福音書10章2節)に関しては、マタイ20章20節で「ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとに来て」とあり、続く21節には母の言葉として「わたしのこの二人の子が」とあるので、この場合には、ヤコブとヨハネが父母を同じくする兄弟であることが容易に判別できる。