処女懐胎は誤訳に基づく話なのか」カテゴリーアーカイブ

「処女懐胎は誤訳に基づく話」説は本当か

【1】アルマーパルテノス問題と聖ヒエロニムス

古代よりキリスト教を批判しようとする人々によって繰り返された議論として「キリスト教の主張する聖母マリアの処女懐胎の話というのは、旧約聖書のイザヤ書7章14節の預言をキリスト教がヘブライ語からギリシア語に翻訳する際、誤って『若い女』を意味するヘブライ語(アルマー)を『処女』を意味するギリシア語(パルテノス)に訳したことに基づいている」という「誤訳説」がある。

この「マリアの処女懐胎は誤訳に基づく話」説に対しては、聖ヒエロニムスがおよそ一六〇〇年前に、著作『ヨヴィニアヌス駁論(Contra Jovinianum)』の中で以下のように反論している。
「処女懐胎は誤訳」説に立ってキリスト教を批判する人々は、「ヘブライ語で『処女』を意味する単語は正しくは『ベトゥーラー』であり、『アルマー』は単に『若い女』という意味に過ぎない」と主張する。

それに対して聖ヒエロニムスは「確かに『処女』を意味するヘブライ語は『ベトゥーラー』に違いないが、『若い女』あるいは『娘(若い娘)』に相当するヘブライ語は、『ナアラー』というまた別の単語であり、『アルマー』というヘブライ語は単なる処女以上の意味を持つと考えられる」と主張して、「処女懐胎は誤訳に基づく話」説──すなわち「誤訳説」に反論している。
つまり現代式の表現で言えば、「『アルマー』とは、『ベトゥーラー』の“上位互換”ではないか」というのが聖ヒエロニムスの主張であるが、それを説明するために聖ヒエロニムスは、旧約聖書から創世記24章のリベカに関するエピソードを引用する。
なぜなら、そのエピソードにおいてリベカは、「ナアラー」(14節、16節、28節、55節、57節)また「ベトゥーラー」(16節)そして「アルマー」(43節)という三種類のヘブライ語で表現されているからである。

日本聖書協会の新共同訳聖書は、創世記24章のリベカについて、「ナアラー」というヘブライ語で表現されている場合には「娘」と日本語訳し(ヘブライ語原文の16節に含まれる「ナアラー」のニュアンスは新共同訳では15節の「娘」に含まれている)、また「ベトゥーラー」の場合には「処女」、そして「アルマー」の場合には「おとめ」と訳し分けている。

そして「誤訳説」に対する聖ヒエロニムスによる反論の根拠となっている事実を、次に説明する。

問題のヘブライ語「アルマー(עלמה – almah)」は、「アラーム(עלם – alam)」というヘブライ語の動詞に由来する女性名詞とされる。

ちなみに、この動詞「アラーム」の意味は、「見られないようにする(隠れる、隠す)」あるいは「知られないようにする(秘密にする)」である。

聖ヒエロニムスはこの「アルマー」の意味を、語根の動詞「アラーム」にさかのぼって「隠された女」「知られていない女」という二通りの意味に解釈し、ヘブライ語の「知る(‎ידע – yadah)」という動詞が含む特殊な意味(創世記4章1節:「アダムは妻エバを知った」 → 男が女を望んで関係を持つ)を踏まえ、「知られていない女」を「処女」と理解し、「隠された処女」という訳語に到達している。

レビ記18章では、上記の「知る」と同様に、男女が関係を持つことを意味する婉曲表現として、「隠し所を露わにする(לגלות ערוה)」というヘブライ語の言い回しが繰り返される(フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』参照)点をも考慮すると、

「隠された女(知られていない女)」=「男女関係を持ったことのない女」=「処女」

という婉曲表現(雅語)としてやはり同様に捉えるのは、むしろ極めて自然である。

古今東西を問わず、「性」に関わる表現については、直截的なものを避け婉曲的なものが好まれる傾向にある。

そして創世記24章においては、あるじの息子の花嫁となるべき女性(リベカ)を探し求めていたアブラハムのしもべは、リベカの家族に対しては、リベカのことを「ベトゥーラー」(16節)と呼ぶべきところを、あえて「アルマー」(43節)という別の表現に言い換えている。

繰り返すが、日本聖書協会の新共同訳聖書は、「ベトゥーラー」(16節)を「処女」と日本語訳し、「アルマー」(43節)を「おとめ」と訳している。
このことからも、「アルマー」が「ベトゥーラー」の婉曲表現(雅語)であることが裏付けられるのである。

創世記4章1節の「アダムは妻エバを知った」という表現と、ルカ福音書1章34節の「わたしは男の人を知りませんのに」というマリアの言葉との対称性に、まずは注目すべきであるが、さらにはマタイ福音書1章25節でも、ヨセフが妻と関係を持つことがなかった事実を記述する際、ルカ1章34節と同じく、「知る」というギリシア語(γινώσκω – ginōskō)が用いられている。そして当然、同じギリシア語は七十人訳聖書で、創世記4章1節の「アダムは妻エバを知った」の訳語としても使われているのである。

以上より、「処女」を意味するギリシア語七十人訳の訳語(παρθένος – parthenos)及びラテン語ヴルガタ訳の訳語(virgo)を、ヘブライ語原文に根拠付けることが可能であると説明できる。

ちなみに旧約聖書の創世記がヘブライ語からギリシア語に初めて翻訳されたのはイエス・キリストの誕生よりも二百年以上も前のことであったが(いわゆる七十人訳聖書)、この際に24章43節にあるヘブライ語「アルマー」の訳語として選ばれたギリシア語は「パルテノス」であった。

この翻訳の作業に当たったのは選りすぐりのユダヤ人の学者たちであって、当然ながらこの時代にキリスト教はまだ存在していない。

ヘブライ語の「アルマー」がギリシア語の「パルテノス」へと最初に翻訳されたのは、実は紀元前三世紀のことであった。

つまり、「キリスト教による誤訳」云々の主張それ自体が、初めから意味をなさないものだったということである。

【2】ヨヴィニアヌス駁論1巻32章より(一)〔日本語訳と注は引用者による〕

“イザヤは、わたしたちの信仰と希望の神秘について話しています。「見よおとめ懐胎して一子を生まん、その名はインマヌエルと唱えられん」(イザヤ書7章14節)と。”
“この預言に関しては、いつもユダヤ人たちが、「キリスト教で『処女』と翻訳〔注1〕されているヘブライ語のアルマー(almah)という単語は、『処女』ではなく『若い女』という意味である」と異論をわれわれに唱えていることを、知っています。”

〔注1〕七十人訳のギリシア語は「パルテノス(παρθένος – parthenos)」、ヴルガタ訳のラテン語は「ヴィルゴ(virgo)」。旧約聖書のヘブライ語原文には「アルマー」という単語が七か所で登場するが、その訳語として七十人訳ギリシア語聖書では創世記24章43節とイザヤ書7章14節の二か所だけ、「パルテノス」という語を当てている。ヘブライ語の「アルマー」がギリシア語の「パルテノス」に翻訳されているのは必ずしもイザヤ書のこの箇所だけではない(創世記24章43節でも同様に、「アルマー」は「パルテノス」と訳されている)ことから、「キリスト教側の誤訳」云々の主張に関しては当然ながら、なお議論の余地が残されているはずであるが、にもかかわらずキリスト教とりわけ「処女懐胎」を批判する人々にとっては、この箇所は恰好の攻撃目標になっている。

【3】ヨヴィニアヌス駁論1巻32章より(二)〔日本語訳と注は引用者による〕

“では本当のことを言いますと、ヘブライ語で「処女」を指す単語は、正確に言えば、ベトゥーラー(bethulah)です。しかし、「若い女」あるいは「少女」を指すヘブライ語は、アルマーではなく、ナアラー(naarah)です〔注2〕!”

〔注2〕「アルマー(עלמה – almah)」は「アラーム(עלם – alam)」というヘブライ語の動詞に由来する女性名詞で、この動詞「アラーム」の意味は「見られないようにする(隠れる、隠す)」あるいは「知られないようにする(秘密にする)」である。旧約聖書全体では「アルマー」というヘブライ語が登場する回数はわずか七回に過ぎないが、「ベトゥーラー」は五十回、「ナアラー」は六十三回であり、この登場回数の対比からは当然、この「アルマー」というヘブライ語が実際にはありふれた意味ではなく極めて限定的な意味を持つ単語であることが、推測されうる。

“ならばアルマーという単語は、なにを意味するのでしょうか? それは、単なる「処女」ではなく、それ以上のなにか、「隠された処女〔注3〕」というべきものです。すべての処女が男たちの目から隠され遮断されているわけではないからです。”

〔注3〕聖ヒエロニムスは「アルマー」の意味を、語根の動詞「アラーム」にさかのぼり「隠された女」そして「知られていない女」という二つの意味に解釈し、ヘブライ語の「知る(‎ידע – yadah)」という動詞が含むある特殊な意味(創世記4章1節:「アダムは妻エバを知った」 → 男が女を望んで関係を持つ)を踏まえ、「知られていない女」を「処女」と理解し、「隠された処女」という訳語に到達したようである。レビ記18章では、上記の「知る」と同様に男女が関係を持つこと意味する婉曲表現として、「隠し所を露わにする(לגלות ערוה)」という言い回しが繰り返される(フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』参照)点も考慮すると「隠された女=男女関係を持ったことのない女=処女」と考えるのは、むしろ極めて自然と思われる。

【4】ヨヴィニアヌス駁論1巻32章より(三)〔日本語訳と注は引用者による〕

“ところで創世記に登場するリベカは、アブラハムのしもべに見出された時には、非常な貞潔とおとめらしさ〔注4〕のゆえに教会の予型といえるほどでしたが、このことを表現される際〔注5〕は、ベトゥーラーではなくアルマーと呼ばれています〔注6〕。”

〔注4〕アブラハムのしもべに対してリベカが示した、けなげな態度(優しさ、寛大さ、ひたむきな善意など)のこと(創世記24章)。この章におけるリベカは、受胎告知の聖母の予型(前表)でもある。〔注3〕の「隠された処女」を、「秘密にされた処女」とも考えると、この章におけるアルマーの意味に関して「(神の)秘密の処女」「(神の)神秘の処女」「(神の)奥義の処女」などの解釈も成り立つ。

〔注5〕旧約聖書のヘブライ語原文には「アルマー」という単語が七回登場するが、七十人訳ギリシア語聖書では、リベカに言及した創世記24章43節と問題のイザヤ書7章14節の二か所にだけ、「パルテノス(παρθένος – parthenos:処女)」という語を当てている。そこで創世記24章におけるリベカという存在について考察することが重要な意味を持つ。他に箴言30章19節では「エン ネオテーティ(ἐν νεότητι – en neotēti:若い日々の)」、残りの四か所(出エジプト記2章8節、詩編68編25(26)節、雅歌1章3節と同6章8節)では「ネアーニス(νεάνις – neanis:若い女)」を当てている。箴言30章19節を、しかるべき良き生涯の伴侶に男が巡り会うことの不可思議に関する格言であると捉えると、ヘブライ語原文とギリシア語七十人訳との間には矛盾がないと考えられ、また同節の「アルマー」はその次節の「姦通の女」の反対語であることが推論できる。

〔注6〕リベカは創世記24章で、「ナアラー(נערה – naarah)」と五回呼ばれ(14節、16節、28節、55節、57節)、一方で16節では「ベトゥーラー(בּתוּלה – bethulah)」とも呼ばれているが、アブラハムのしもべがリベカと出会った経緯をリベカの家族に説明する際(43節)には、「ベトゥーラー」と呼ぶべきところを「アルマー」と呼んでいる。つまりリベカは、「ナアラー」であると同時に「ベトゥーラー」でもあり、さらにその上、アブラハムのしもべの目から見ると、「アルマー」でもあった。再度繰り返すが、旧約聖書全体で「ナアラー」が登場する回数が六十三回、「ベトゥーラー」が五十回であるのに対し、「アルマー」はわずかに七回に過ぎない。

【5】ヨヴィニアヌス駁論1巻32章より(四)〔日本語訳と注は引用者による〕

“アブラハムのしもべがメソポタミアで話した言葉〔注7〕がその理由を明らかにしているでしょう。”

〔注7〕創世記24章42節~44節。この部分でアブラハムのしもべは、「ベトゥーラー」(同24章16節)と呼ぶべきところを、リベカの家族に対してはあえて「アルマー」と言い換えている。よってこの場合、「アルマー」とは「ベトゥーラー」の婉曲表現あるいは雅称ではなかったか、という解釈も成り立つ。聖ヒエロニムスが「アルマー」というヘブライ語の意味を考察するにあたって、創世記24章のリベカを引き合いに出したのは、まさに、リベカが同章において「アルマー」「ベトゥーラー」「ナアラー」の三種類で呼ばれているからに他ならない。日本聖書協会の新共同訳聖書は、創世記24章のリベカについて、「ナアラー」というヘブライ語で表現されている場合(14節、16節、28節、55節、57節)には「娘」と日本語訳し(ヘブライ語原文の16節に含まれる「ナアラー」のニュアンスは新共同訳では15節の「娘」に含まれている)、「ベトゥーラー」の場合(16節)には「処女」、「アルマー」の場合(43節)には「おとめ」と訳し分けている。

“「わたしの主人アブラハムの神、主よ、もしもあなたが、わたしの仕事を成功させてくださるのなら、わたしが泉のそばに立っていて、水くみに出て来たおとめに『水がめの水をちょっと飲ませてください』と言う時、そのおとめが『いいですよ。らくだにもどうぞ』と答えるなら、まさにそのおとめこそが、あなたがわたしの主人の息子のためにお選びになった花嫁でありますように」〔注8〕”

〔注8〕リベカを教会の予型と考える聖ヒエロニムスは、「ベトゥーラー」が単に生物学的・肉体的な意味で「処女」を表わす一方、「アルマー」はその「処女」の持つ隠れた側面──すなわち、けなげな内面性(霊性・精神性)をも含めた上で、むしろ隠れた側面をより強調して尊敬を込めた表現「(おとめらしい)おとめ」ではないかと、この部分で考察しているようでもある。そして、この意味合いにおいて「アルマー」は〔注3〕で考察した箴言30章20節「姦通の女」と対照的な存在と言える。

【6】ヨヴィニアヌス駁論1巻32章より(五)〔日本語訳と注は引用者による〕

“この、水をくむために出て来た若い娘について、アブラハムのしもべが語る箇所で、用いられているヘブライ語の単語はアルマー(隠遁している処女)です。リベカは両親から非常に大切に保護され、また厳しく監督されていた〔注9〕からです。”

〔注9〕創世記24章55節ではリベカの家族が少しでも長くリベカを留め置きたいと考えていた一方、けなげなリベカは「このことは主の御意志」(同24章50節)であると理解すると、すぐに出発する決意を表わした(同24章58節)。聖ヒエロニムスがこの部分で示唆しているのは、リベカは「箱入り娘」あるいは「秘蔵っ子」であった、ということである。男が女を望んで関係を持つことを意味するヘブライ語の表現には、前述の「知る」「隠し所を露わにする」の他にも、「〜のところに入る」(サムエル記下16章22節、創世記35章22節)があり、ゆえに「隠遁している女」あるいは「隔離されている女」という表現が、「処女」の婉曲表現たりうる。問題になっているヘブライ語「アルマー」は動詞「アラーム」に由来する女性名詞だが、この「アラーム」という動詞は、「知る」「隠し所を露わにする」「〜のところに入る」などの行動を拒絶する意味合いを表現しているのである。イザヤ書1章15節で、この「アラーム」というヘブライ語が用いられているが、それは新共同訳で「(わたしは目を)覆う」という表現の箇所である。すなわち、これを踏まえれば「アルマー」を「覆われた女」と解釈することも可能で、それが聖ヒエロニムスの主張の根拠ともなっている。

“もし、このアルマーという単語についての以上のわたしの議論がまちがいだというのなら、少なくとも、ヘブライ語のアルマーが結婚後の「若い女」にも用いられている事例について示してくださるのなら、わたしは自分の無知を認めましょう〔注10〕。”

〔注10〕「アルマー」に対応するヘブライ語の男性名詞は「エレム(עלם – elem)」で、旧約聖書ではサムエル記上17章56節及び同20章22節の二か所のみで用いられている。この二か所の「エレム」と出エジプト記2章8節の「アルマー」に関しては、語根の動詞「アラーム」の意味に即した方が、翻訳として適切のように思われる。

【7】引用者による結論

「アルマー」とは、「なんらかの事情で人目(特に男性の目)に着かないような場所にいる女性(処女)」を指す、と推論できるが、その事情はさまざまで、

・「箱入り娘」「秘蔵っ子」として大切に育てられた、神の奥義の処女(創世記24章43節)

・相手からは見えない離れた場所で密かに様子を窺っている(出エジプト記2章8節)

・神に仕える立場のために神殿の中にいる(詩編68編25(26)節)

・将来の伴侶となる運命だが相手の男性の前にはまだ現われていない(箴言30章19節)

・王以外の男性の目には着きにくい王宮の中にいる(雅歌1章3節、同6章8節)

などが挙げられる。

神殿(あるいは幕屋)の中で神に仕える女性たちについては、出エジプト記38章8節でその存在が既に示唆されており、サムエル記上2章22節でも触れられている。そしてサムエル記上2章によれば、それらの女性と男性が床を共にすることは罪と考えられていたことがわかる。

古代のイスラエルでは、「神の家」において、「神に奉仕する女性」が男性と「ともに寝る」ことなどは、あってはならないこと、つまり不祥事であり宗教上の禁忌(タブー)であった。

またタルグム(旧約聖書本文に短い注解を加えたアラム語訳)では、詩編68編25(26)節の「アラモット(עלמות – alamoth、アルマーの複数形)」のことを、「ミリアムと一緒にいる高潔な女性たち」と解釈している。つまり出エジプト記15章20節と関連づけた解釈であるが、モーセの姉(すなわち女預言者ミリアム)が、既に同2章8節で「アルマー」と呼ばれていることを考え合わせると、「アラモット」とは「女性たちの中でも、神のために(神に仕えるために)選ばれた特別な存在」という解釈も可能である。「アラモット」という複数形は、前述の雅歌の二か所でも登場している。

ちなみに、出エジプト記7章7節でモーセの年齢が八十歳、アロンの年齢が八十三歳とされていることから、同15章20節の時点で「アロンの姉、女預言者ミリアム」の年齢が既に八十代以上であるのは自明で、タルグムは詩編68編25(26)節の「アラモット(アルマー)」を、年齢とは無関係な意味で捉えていると解釈するしかない。もしも「アルマー/アラモット」が「若い女」という意味で用いられていたのではないとするなら、「女性たちの中でも、神のために(神に仕えるために)選ばれた特別な存在(処女)」という意味で、「アルマー/アラモット」を考えるべきであろう。

繰り返し強調するが、神殿(あるいは幕屋)の中で神に仕える女性たちについては、出エジプト記38章8節でその存在が既に示唆されており、サムエル記上2章22節でも触れられている。またサムエル記上2章によれば、それらの女性と男性が床を共にすることは罪と考えられていたことがわかる。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

〔追記〕

バルバロ訳聖書(講談社)のイザヤの書7章14節の注には、「ヘブライ語の『アルマ』は、旧約聖書ではこのほかに八度出ているが、つねに、未婚の女のことを指している。」と書かれている。つまり、イザヤ書7章14節を含めると、旧約聖書全体で「アルマー」というヘブライ語が九か所に登場する、と説明しているわけである。

通常、「アルマー」は旧約聖書全体で七か所に登場すると考えられている。
すなわち、創世記24章43節、出エジプト記2章8節、詩編68編25(26)節、箴言30章19節、雅歌1章3節、同6章8節、そしてイザヤ書7章14節である。
しかし「アルマー」には、「アラモット(עלמות – alamoth。このアラモットは、アルマーの複数形とはまた別扱い)」という関連表現があって、この「アラモット」の登場箇所の二か所(歴代誌上15章20節と詩編46編1節)を加えると、バルバロ訳聖書の数え方のように、九か所となる。
この二か所の「アラモット」が、なぜ通常は「アルマー」とは分けて扱われるのかというと、この二か所の「アラモット」は若い女性の声域としての高音域すなわち音楽用語(現代式に表現すればソプラノ)と解釈されることが多いからである。
フランシスコ会聖書研究所訳は、この二か所の「アラモット」を「おとめらの声」と訳している。

注)別エントリー「『マリアの処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1524